あとがき

成人するとともに家を離れていった子供たちに残すことを主な目的として履歴書を書きました。Google に残しておけば当分は大丈夫かと思っていますが、何事も永遠ということはないので誰かコピーを保管しておいてもらえると嬉しいです。最後に一生を振り返り、その要点をまとめておきたいと思います。


太平洋戦争中の1942年3月に信濃町の慶応病院で出生。幼少時は主に疎開先の埼玉県農家で過ごしました。この頃から薪で建築を作ろうと崩れてしまっては癇癪を起こすなど、クリエィティブな萌芽がありました。

高校までは、引っ込み思案で親への依存心もあり自信の余りない子供でした。それでも小学校の頃はそれなり楽しくやってきたのですが、麻布学園に入ると周囲は見るからに良いとこ坊っちゃん、オツすまし勉強もできる生徒ばかり、私の中高生活は目立たない萎縮したものでした。

慈恵医大入学とともに大きな転機が訪れま。馬術部入部とともに、身体を動かすこと・集団生活・先輩による指導・試合、それらをめぐり乗馬クラブその他外部の人達との交渉など、今までになく広がり多様化した生活に身を置くことにより、自信もつき積極性が増すなど人間的に大き成長ました。ここでは思う存分青春を謳歌、何の不安もない私の人生最大のピークの時期でした

人生における1度目の危機が突然訪れます。産婦人科入局2ヶ月後、大橋医院院長の父が脳溢血で倒れました。父という大樹のもと安心しきって暮らしていた我々一家の大転換大橋医院の診療は慈恵医大産婦人科から毎日交代で来て頂いた先生方で何とか埋めることができましたが、一日も早く独り立ちなければと医局生活誰より真剣だったと思います。

翌年26歳で結婚、沢山の子供たちに囲まれたくて年子のように二女二男を設けました。入局3年目に開業、当時はお産の多かった時代で、お産に明け暮れ幼子たちに囲まれ忙しい毎日でしたが、家内と生きがいをもって突き進んでいた怖いもの知らずの時期でした。

そして人生2度目の危機が突然やってきます。結婚10年目の暮、突然発症した脳腫瘍により家内が亡くなり、その春には10年間寝たきりだった父が亡くなっていました。一番上の長女が小学校にあがったばかり、一番下の次男はまだ乳児、幼い子ばかり4人を遺して。

縁あって翌年再婚、1児をもうけました。初婚の家内はいきなり先妻の4児を預かり本当に大変だったと思います。幾度確執はありましたが奮闘してくれました。子供5人というのは産婦人科をやっていてタイ記録は何人かありましたが、私の記録を越えた方は2人くらいしかなかったと思います。

世に現れたばかりのパーソナルコンピュータを手に入れ、コンピュータにどっぷりハマることになります。コンピュータとの出会いが私の人生のひとつの転機となり、コンピュータに医師会にと大きな世界が広がってゆきました。等価交換方式で診療所を13階のマンションに建て替えました。

地元医師会の理事を仰せつかり医師会業務に関わるようになるとともに、産婦人科パソコン研究会やコンピュータ仲間と作ったグループ の活動などが始まりました。これはいずれ、片や日本産婦人科医会・東京都医師会の役員として全国の先生方との人脈を作り、片や世に先駆け電子カルテを開発医療情報学会やコンピュータ仲間の人脈へとつながりました。

1989年に始まった電子カルテ開発は2017年の大橋医院閉院まで続き私のライフ・ワークになるとともに、電子カルテに関しては誰にも負けない自負をもち、ここからも世界と人脈は広がりました。世に先駆けての電子カルテということで、朝日新聞1面に顔写真入で載ったのには驚きました。

Steve Jobs が Apple を追い出され作った NeXT 社のコンピュータを使うようになり、コンピュータ仲間と NeXus:日本 NeXT ユーザ会を設立。このユーザ会はとてもアクティブなメンバーばかりクリエィティブで楽しいグループでした。ここで米国西海岸ツアーを行い、Nexus 代表として Steve Jobs と握手する機会ました。これは馬術部時代に次ぐ2番目に楽しかった時期でした。

同時進行していた日本産婦人科医会の幹事時代、東京都医師会の理事時代も人生でもっとも充実していた時期といえます。日本医師会長選挙では、都医の唐澤先生を推薦するため全国を回ったの忘れられない想い出です。引っ込み思案で人前でしゃべるなどトンデモなかった自分でしたが、医師会役員や医療情報学会の経験などから、大会場の演壇から客席を見渡しジョークを交えしゃべるなどということが平気でできるようになりました。最初は努力あってのものでしたが、、

父は親分肌で話が面白く、町会長、PTA会長、荏原医師会長など長とつく役職を幾つもやってきた頼りがいのある人でした。両親が健在な頃、何も返すことはできませんでしたが、こうして幾つか父の業績を越えることができ、大好きな父へ少しは恩返しできたのかなと思っています。

やがて75歳を自分の定年と決め大橋医院を閉院しリタイア。穏やかな余生を送ることになります。毎日の早朝散歩、TV でスポーツ観戦、趣味の住宅設計や割箸建築などで過ごす日々、、


私の尊敬する立花隆さんは「人間は必ず最後は死ぬしかないんです。大抵の人は自分の死というものを考えると必ず苦しくなる。考えたくないんです」と言っています。そして彼自身は自分の罹患した癌や死について深く追求していました。だが、それは癌や死から逃れたいということではまったくなく、純粋に彼の湧き出す興味から、、私は自分の死を考えることに何の苦しさもありません。その時「ああ、これでお終いか」と淡々と考えることはあるでしょう。そして突然、電源がプツンと切れてお終い。ブラックアウト。自分では電源が切れたことさえ判らないだろうと思っています。別の角度から見れば、世の中からフェードアウトする感じかな、、

ただ一つ死について考えるとすれば「何歳の何時頃、どんな経過で終わることになるんだろう」ということ。これは81歳のときに考えていることですが、状況が変われば考えることもまた変わるのかも知れません。


辞世の句を詠むならこんな感じかな、まあまあの人生だったと、、

あるがまま 風に吹かれて 花吹雪