2018.08 酷暑の夏

わーくすてーしょんのあるくらし ( 306)

2018-8 大橋 克洋

入道雲がもくもく:早朝散歩は今日も暑くなりそうな予感

地球温暖化の影響で今年の夏も文字通りの酷暑となりました。私のところでも夜中の2時に外気温30.5度ということもありました。しかしこんなのは序の口、ヨーロッパではアフリカから吹き付ける熱波により特にスペインやポルトガルなど47度もの猛暑に見舞われる可能性があるとのこと。ノルウェーでは日差しを避け涼しいトンネル内にトナカイなど野生動物が逃げ込んでいる可能性があるので注意が出ているそうです。

8月に入り例年なら蝉しぐれが盛大に聴こえる頃ですが、あまりにも暑すぎるのか、いやいや緑が減ったせいでしょうね。以前は小学校と小公園だった目の前の広い土地が品川区の施設になり、広い地面はタイルに覆われてしまいました。ある程度の面積の植栽はあるのですが、余計なことに季節ごとに一斉に花を植え替えたりするため、可哀想にセミの幼虫も掘り返され生き残れないのだろうと思います。自然の営みやそこから人間達が得られる恵みを考えることができず、短絡的な思考でしかないんでしょう、、

そういえば今年の夏は蚊に刺されることが余りないそうな。専門家によれば気温が30度を越えると、蚊の活動力が低下し人を刺す頻度が目に見えて減るんだそうです。へえー、そういうこともあるんですね。蚊もこの酷暑で思い切り食欲減退か。そうすると蝉も同じかな?

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◯ 今月の歩術

先月末の台風は珍しく関東直撃かと思わせる進路から関東直前で急に左カーブ、東海・関西・中国・四国を抜け九州を南から北へ縦断したかと思うと、海上で巻乗り(馬術用語:進路途中で小さなループを描いてから進むこと)、中国大陸へと向かう稀有なるコースをとりました。今回は関東直撃でかなり激しい風雨を覚悟していたのですが、夜半ちょっと雨が激しくなった程度、東京ではたいしたことはありませんでした。しかし先月の大雨で大被害を被った中国地方にとっては、またもや厳しい試練となったのではないか心配です。

台風が過ぎ去ると又もや酷暑再来、今日も日中ジリジリとオーブンの中のような道を歩いて帰りました。散歩ならキャップを被るのですが、今日はたまたま病院からの帰路「2,3キロだから、ええい歩いてしまえ」ということだったので無帽。太陽は真上にあり日陰のないアスファルトの道はちょっとヤバイ感じでしたね。眼科検診で散瞳後だったので、太陽直下の横断歩道ゼブラゾーンなどは眩しい眩しい、目を思い切り細めて帰ってきました。道端の自販機で水分補給。帰宅すると汗びっしょりの顔を洗面所でザブザブ流しサッパリ、、

若い頃、オジさん達が顔の汗をハンカチや手ぬぐいでぬぐっている姿を見て、自分の経験したことのない姿に何か違和感のようなものを感じたものですが、自分もそんな風になってしまったということ。若い頃、私は頭部にあまり汗をかかなかったのです。

早朝散歩もその日によって体調がかなり異なったりします。やけに身体が重く散歩を短縮コースにしてしまうこともあれば、「今日はちょっと調子が良さそうだぞ」ということで距離を延ばすことも。まあ、最近は延ばしても7キロ程度で10キロを越えることが少なくなったのが寂しいんですけどね。

中国武術の練功、月1、2度さぼることはあるのですが、毎週1回通っています。この日は夕食を外で食べてから行きます。暑いのでザル蕎麦など軽いものにしがちですが、逆に暑さに負けぬようカツ丼とか五目焼きそばなどパワーの出るものをガッツリ食べて行くようにしています。身体の経年劣化がでてきても、幸い今のところ元気は衰えていないようです。

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そして8月も中端過ぎになると、歩きも元に戻ってきつつあります。長距離はまだ駄目そうですが、身体が重く感ずることはなくなってきました。それを意識してのトレーニング(と言ってもたいしたことはしていないのですが)が功を奏したのでしょうか。

◯ えっ旗艦に被弾?

書斎デスク上にドーンと鎮座している我が家の旗艦 27インチiMac の大画面にふと目を移すと、画面一面に細かい蕁麻疹のような斑点が、、遂に基盤がやられたかなと思ったものの、トラブった時のお約束、マシーンをリブートしてみました。一応治ったように見えたものの、しばらくすると症状復活。ウーンやっぱりダメか。やはり基盤の損傷でしょうね。再起動しても蕁麻疹だらけ起動中の画面で凍りつくようになりました。それでも内部的には起動しているようで、今のところ LAN 上の他マシーンからファイルが見えるのは幸いです。

いずれこの日が来ることを覚悟していましたが、ちょっと早かったかなあ、、と思い記録を調べてみると購入したのは2010年5月。8年保ったのなら良い方か。AppleStore を見ると8年も経っているのに価格は殆ど変わらず20万弱。昨年まで外来で使っていた24インチiMacが遊んでいるので、そちらを使うことにします。因みにこの24インチの大きさがとて使いやすいのですが、現在このサイズは発売されていません。

で、巨大戦艦 27インチに替わる 24インチ巡洋艦を旗艦にするため、27インチに載っていたシステムを丸ごと 24インチに載せ換えることにしました。調べてみると、移行アシスタントを使って Timemachine から復元する方法があります。ちょっと試行錯誤は有ったのですが、何とか復元作業が動き始めたようです。Wi-fi 経由のためもあって、やたら時間がかかりますね。24時間過ぎても終了しません。画像や動画などで時間がかかっているのではないかと。60時間ほどして、ようやく終了動作にかかるパネルが開いてくれましたが、待つ間に色々調べてみると、Timemachine から丸ごと復元を選んでしまうと異なるマシーンへの復元操作の場合、システムが異なるので問題が起こることがあるとのこと。言われてみれば、確かに、、 そこで丸ごと復元はやめにして、Timemachine から必要なファイルのみコピーすることにしました。60時間の待ち時間は何だったんだってことになりますがね。

ようやく24インチ iMac に移行することができましたが、何か画面がちょっと黄色っぽいしやや暗い。ディスプレイ調整で目一杯白く目一杯明るくしましたが、27インチの白くて明るい画面には及びません。24インチ iMac は 27インチ iMac より1年古いだけなんですが、外来でガンガンに使ってきましたし齢10年を過ぎることもあって、バックライトのヘタリが進んでいるんでしょうね。このマシーンも私の40年にわたるコンピュータ・ライフで使ってきた50台以上のマシーン中2番目の寿命を誇り、むしろ老齢ながら健気に働いてくれていると褒めてやりましょう。

◯ 今月の脳トレ

旗艦移行は結構大仕事でした。最近は色々なファイル類をなるべく Google drive などクラウドに置くようにしているのですが、長年の間に蓄積された旗艦データは小さくありません。それを思考錯誤しつつ移行するには、結構の根気と時間が必要でした。

本来であれば、コンピュータを使い始め40年間に蓄積されたデータはこの数倍あるはず。UNIX を使うようになるまでの5年間、BASIC や Pascal 時代はデータ移行など考える余裕もありませんでしたが、UNIX になってから35年間のデータはほとんど移行することができたはず。しかし実際には移行作業やその他の操作でデータを吹っ飛ばすこともままあり、幸か不幸か過去に蓄積された全データが残っているわけではありません。

さて、試行錯誤2,3日を経てようやく新しい環境(ハードは最も古いに属するのだが)に移行してやれやれと思っていたのですが、ここで全く別のトラブル発生。環境を新しくしたところで経理ソフト(電子カルテNOA と同じサーバで動いている)を立ち上げると、サーバを動かしている MUMP(PHP やデータベース MySQL などをパッケージにしたもの)の新しいバージョンが出ているとの表示。早速新しいバージョンにグレードアップしました。

そこで経理ソフトを立ち上げてみると「ややっ」旗艦移行前に入力したはずの8月分データが無いと言ってきます。「そんな馬鹿な」と色々やってみるものの、表示されません。データベースの中を覗いてみると、8月データはちゃんと存在するし経理ソフトのソースをチェックしてみても問題なさそう。一難去ってまた一難、また試行錯誤を繰り返すことに、、MUMP 最新版の再インストールもやってみました。

ようやく解ったこと。今度の MUMP は、それ以前のものとはデータ構造が変わったようで、MUMP 最新版を初めて立ち上げた時に現れるパネルで progress(だったかな?)というボタンを押すことにより古いデータが新しいデータ構造に変換されるという仕組みであることが解りました。このボタンを押すと、バラバラと変換中のメッセージが何行も表示され、最終行で変換が完全に行われたことを確認した上で「done」のボタンを押せばメデタシめでたし。以後は今までのアプリで問題なくデータベースを扱えるのでした。

新しい MUMP を初めて動かした時、このデータ変換パネルが表示されたはずなのですが、英文の表示をよく読みもせず無視してしまったのが運の尽きであったというお粗末。

◯ 東京大空襲

今月15日は終戦記念日。昭和20年3月10日未明、米軍の無差別攻撃により10万人が死亡した東京大空襲は関東大震災の被害資料を参考に周到に計画を立て実行していたことが米軍の資料からわかったそうです。焼夷弾によって効率的に街を焼き払うため、あらかじめ木造家屋を沢山ならべた実験区域を砂漠地帯に設け、焼夷弾の威力を確かめたそうです。その結果、関東大震災で消失した下町地区を重点的に焼夷弾で爆撃、第2次目的として北区・荒川区・新宿区の地域と品川区・大田区の地域を広域に爆撃。その結果亡くなった人の殆どが非戦闘員である女性や子供を含む民間人でした。

当時行方不明の家族を探し焼け野原をさまよった方の話を聞きました。そこら中で目にする多くの焼死体で特に胸を打たれたのは、胸の下に赤子や小児をかばって亡くなっている母親の姿だったそうです。ビルの地下室に入ると何センチもの水が溜まっており、これはここに逃げ込み蒸し焼きになって亡くなった人達の脂だったとか。今さら米国にどうのという気持ちは有りませんが、このような情景を米国民には知っておいて欲しいとは切に思います。

米軍は日本の戦意低下をねらって、意図的にこのような大虐殺と言ってよい作戦を周到に企画・実行したわけですが、「勝てば官軍」大きな非難を受けることもなく今日に至っています。これが韓国だったら今頃、多額の賠償金を請求しているところですが、日本人って本当にヒトが良いなあと思います。その頃生きていた世代が居なくなれば、この悲惨な記憶も日本からほとんど消え去ってしまうんでしょう、、

幸い私の家族は埼玉県下忍へ疎開し、大空襲の惨劇を受けることはありませんでしたが、もし疎開していなければ焼夷弾の雨と火の海の中を逃げ惑ったかも知れません。もっとも当時の大橋医院は、延焼を防ぐための防火地帯に指定され強制取壊しになっていたので、現在の所には住んでいなかったはずですが。父は軍医として応召し南支那へ行っていました。

以前にも書きましたが「戦争になったら何でもあり」「だから絶対にやってはいけない」。その為には抑止力としての防衛力を持つことも必須と私は考えています。「兵を百年養うは、ただ平和を護るため」という山本五十六の言葉があります。当時はまだ戦乱の世の記憶が受け継がれ残っていたのでしょうが、戦後半世紀以上、異例の平和が続いた日本では外敵に襲われる恐怖感などまったく消え去り、悪い言葉でいえば平和ボケになっていると思います。しかし災害はいつ起こるかわからないのです。開戦には絶対反対の立場の五十六でしたが、彼が連合艦隊長官として日本海軍を率い真珠湾攻撃で開戦の火蓋をきることになったのは皮肉なことでした。そうせざるを得ない立場に追い込んだのは、開戦を煽った当時のマスコミとマスコミに踊らされた国民だったことを忘れてはいけません。

このように書いたのですが、この後、ある番組を見ていたら南米チリの人が「戦争の悲惨さは伝えるが憎しみは伝えない」「これは日本人のとても良いところ」と言っていました。なるほどねえ、、「罪を憎んで人を憎まず」これは私の主義でもあります。

焼夷弾の雨と火の海の中を逃げ惑い亡くなった大勢の方々へ黙祷、、

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武蔵小山駅前に建設中のタワーマンション

今月は28階まで成長しました。

これは日々の生活で感じたことを書きとどめる私の備忘録です