2020.06 頑張るのではなく辛抱

わーくすてーしょんのあるくらし ( 328)

2020-6 大橋 克洋

早朝散歩でみつけた美しい生け垣。これもバラなんですね。

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◯ 頑張るのではなく辛抱

4月はじめから続く緊急事態宣言による「コロナ自粛」で「コロナ疲れ」という言葉も出てきています。これに対し「頑張るのではなく辛抱」と述べている方がありました。

大辞林で「頑張る」を引いてみると、この言葉は「眼張る」からきたもので「あることをなしとげようと、困難に耐え努力する」とあります。一方「辛抱」は「たえしのぶこと。じっとがまんすること」とありました。

つまり、先の方の言いたかったことは「困難な状況の中で、やたら努力を続けなくても良いんだよ。ただ風雨の過ぎるのをじっと我慢していれば良いんだよ」ということなのでしょう。一昔なら「頑張る」で全然問題なかったと思いますが、生まれた時から平和な時代で過ごしてきた人達は、辛抱だけでもかなり耐え難いのに、その中で努力し続けると心が折れてしまうことが多いんだろうなあ、などと考えました。戦中・戦後から育った私にとって、辛抱なんて日常茶飯事のもの、私よりずっと悲惨な思いをした人は山のようにいます。

以前も「本当の幸せとは、度重なる困難を経験し、それらを乗り越えることによって初めて掴み取ることができるもの」と書きました。現代人は本当の幸せを掴む前に折れてしまうことが結構多いのかなあ、と心配になります。先月の「SNS の誹謗中傷による痛ましいできごと」にも関連すること。

このように日本人も昔と比べ、ある意味だいぶ日本人らしくなくなってしまいましたが、本来、日本には「諦め」という概念があり、これにより「心を平穏に保つ」ことができていたのだと思います。日本は自然災害の多い国、このような中で心を平穏に保つためには「自然災害は人間にはどうしようもないこと。起こってしまったことはいさぎよく諦め、次に向かう」。阪神大震災や東北大震災時の人々の意外とあっけらかんとした様子は、パニックに陥ることなく現状を過ごし、次へ向かうための無意識のものでしょう。

以前も書いたように「大火事で焼け出された江戸の民衆たちが、皆あっけらかんと笑って生活しているのには驚いた」という西洋人の記述が残っているそうです。自然災害が頻発という日本の置かれた環境から、長年の間に日本民族には他民族のように執念深くない習性が育まれてきたのだろうと思います。

諦めの良いことが良いか悪いかは場合によりけり。しかし、過去を教訓として活かすことはあっても、いつまでも執着しウジウジしていては、幸せや生産性につながりません。

◯ 今月の歩術

6月も中旬に入ると日中の気温も30度を超える日が多くなってきましたが、早朝散歩の時刻にはまだ肌に触れる外気はひんやりと気持ち良い。平起平落の歩きで歩力も恢復と見えたのですが、通風発作で数日休んだだけで再び元に戻ってしまいました。先日のように「よし、どこまでも歩けるぞ」の調子がなくなり、やや頑張って歩く感じに戻ってしまいました。それでも3キロほど歩くと、それなりに惰性で歩き続けられることも多く、月半ばまで何とか毎日6キロを堅持しています。幸い上り坂に関しては平起平落の歩きにより以前のように困難な感覚なく登れています。

緊急事態宣言は解除になったものの、まだ世の中はコロナ対応状態、マスクをして散歩です。早朝、ジョギングやウオーキングの人とのすれ違いには、お互いソーシャル・ディスタンスをとりながらすれ違うのが自然の習いとなっています。気温が上がってくると、マスクをしての歩きはちょっと苦しいですね。3密でもないのでマスクは余り気密度の高くない楽なものに換えました。

下旬に入ると梅雨時期のやや涼しい朝もあって、歩きも上向きに変わりつつあります。ポイントは歩きはじめから平起平落を意識すること。着地足に十分体重を載せ大地の気を吸いながら、残りの足の足底を平らに前方に着地。後方になった着地足は水平に抜き、水平を保ったまま前方へ。これがややもすると忘れられ、単に前方へ身体を進めることだけに意識が行ってしまいがちだったのが不調の原因でした。75歳以前の元気な頃はそれで問題なかったのですが、、

ただし平起平落はじっくり歩きますので、比較的ゆったりした歩きになります。

後ろ足の踵を上げ地面を蹴り、前方足を踵から着く。このような生来の歩きの習慣を抜いて、新しい平起平落の歩きに替える。これを「換骨奪胎」と言います。平起平落の歩きをめざしてから実現するまでには十年以上かかりました。換骨奪胎には時間がかかるのです。

◯ 今月のコロナ

国内の感染状況もようやく落ち着いてきたため、今月はじめ緊急事態宣言は解除になりました。政府は解除にあたり無罪放免ではなく「あくまでもコロナの中で生活することを念頭に」を強調していましたが、街を歩く人の数はかなり元に戻ってしまい、10名を切っていた東京の1日の感染者数も20名を超える日がしばしばとなり、第2波の感染増加が心配されます。

現在のところ、院内感染や新宿歌舞伎町でのクラスター発現が目立つようです。院内感染に関しては、例えば外傷などコロナ感染とは別の理由で医療機関を受診した無症状のコロナ感染者からの感染や、長期にわたる感染対策に疲労困憊した医療スタッフということもあるのでしょう。コロナ感染した歌舞伎町ホストクラブのインタビューでは「歌舞伎町にはコロナに無関心なものが非常に多い。一定期間、歌舞伎町をロックアウトでもしない限り状況の改善は難しいのでは」「自分もコロナを甘くみていた。コロナ感染の体験は想像を越えてキツかった」とのこと。

14日になると都内の感染者数が47名と、5月初め以来の大幅な増加となりました。このうち18名は新宿区、ほかの4名も夜の歓楽街の感染者との報道。経済復活ということでの緊急事態宣言解除と思いますが、皆がもっと気を引き締めないと結局困難な経済状況をどんどん長引かせてしまうことになるのは自明なのに、、

先日も早朝散歩に出てから「アッ」と思ったのは、マスクを着け忘れ出てしまったこと。早朝とあって歩く人も少なく、ソーシャルディスタンスに気をつけながら短距離で引き上げてきました。どういうわけか、この日は擦れ違う人の7,8割がマスクをしていません「あれ?今日はマスク忘れる日?」。

◯ テレワーク

コロナ環境の中にあって、政府もインターネットを使った仕事「テレワーク」を推奨しています。私も幾つか会議にテレワークで参加する機会がありました。

書斎の旗艦コンピュータ、以前は iMac だったのですが経年変化でお釈迦になってしまい、後継機として比較的安価な Mac mini を使っています。iMac ならカメラ・マイク・スピーカーを内蔵しており、そのままでテレワーク対応できたのですが、Mac mini は適当な別付けディスプレイを使いますのでカメラがありません。

そこで手持ちの MacBook pro を使用。こいつには標準でカメラ・マイク・スピーカーが内蔵されており問題ありません。ただ MacBook を机上に置いたままではカメラ目線が低すぎるので、机上に適当な高さの箱を置きその上に MacBook を載せて使いました。

標準のままでは音声がクリアでないように思え、ヘッドセットを使ったほうが良いかなと。ヘッドセットで情報検索してみると、シャープで発売している蹄鉄型の首にかけるデバイスが簡便で良さそうです。マイク・スピーカー内蔵で bluetooth でコンピュータと接続できます。AN-SS1 SHARP という機種。早速 Amazon で購入してみると、これは具合が良いです。ひょいと首にかけるだけで使え、通常のヘッドセットより手軽。マイクの性能もそこそこのようです。Apple の AirPods もテレワークに使うには具合が良いという評価があり、先月レポートしたコードレス・イヤホンも使えそうですが、まだ試してみていません。

やはり旗艦 Mac mini を使ってみたいということで、今はかなり安くなった web カメラを購入しディスプレイの上に装着、音声の入出力は前記の蹄鉄型ヘッドセットを使い画像会議に参加してみました。使えないことはないものの、何かしっくりこない感じがする。

次に iPad を使ってみました。おお、これは画像も綺麗で本体が軽い、非常に具合良いですね。画面の大きさにこだわらなければ iPhone も可。

ただ、先日 google meet で使ったところ、どうしても自分側の音声をミュートするボタンがみつからず、あたふたしているうち、ピンポーンと自宅宅急便の大きな音が会議の場に飛び込んでしまい身の縮む思い。主催者側で私をミュートしてくれたのですが、今度は発言を求められてもこちら側からミュート解除できず、両手でバッテンの画像を返しました。この点は今後、追求解決の余地あり。

コロナ禍の中、色々なところでこのような試行錯誤が行われているのでしょう。このコラム2002年12月に書いたように、東京都医師会や日本医師会などのメンバーで18年以上前から画像会議のテスト運用をしてきました。ここでいつも苦労するのが画像や音声が出なかったりすること、会議前にこの調整で15分以上費やすことも少なくありませんでした。現在でも同じようなことが発生し得る。

考えてみれば今から20年近く前からトライしてきた事なのに、未ださして一般化・進化していないのは、ちょっと残念な気持ち。コロナを起爆剤として、もっと普及して欲しい。

◯ 電子化のすすめ

政府はコロナ禍を機に、テレワークをはじめ色々な面で電子化を勧めています。ところが、コロナに伴う特別給付金の給付手続きを電子的にネットワークでも可能としたのは良いのですが、実際にはじめてみると色々不具合が生じ、電子的対応を中止する自治体も。これは日本の行政では非常によくあること。先日も書いたように、eTax を推進したものの当初は思うように利用できず、数年を経てようやく実用的になったことなど、、

今、電子化に向け最も進めて欲しいのは、他ならぬ行政です。窓口手続きを可能な限りネットワーク対応にして欲しい。最近は納税も pay-easy でネット振込でき便利になりましたが、今に至っても pay-easy に対応しない納付書を送ってくることがあるのは何事か、、

もう数年前からそれ以外の殆どがネットでスマートフォンから振込できるようになっており、銀行に行かねばならないのは現金の引出だけです。最近は SUICA で支払いできる店が多くなり、現金を引出す頻度もずっと少なくなりました。それでもたまに銀行窓口へ行かねばならないのは、前述のような納税や保険料の振込などだけ。

世界を見渡すと、コロナに対応した電子的対応を非常にうまく運用している国もあるようですが、そのような国はそもそもコロナに見舞われる前から電子化を進めてきたようです。

別の面で私が大きく期待していること。それは今まで何度も叫んできたことですが、TV の Web 化。具体的には、すべての TV 番組を Web 上で視聴できるようにすることです。過去の番組を選択し何時でも何度でも視聴できるようになれば、録画の必要がなくなります。これは何時の日か必ず実現されるはずと確信しています。NHK の on demand などすでに一部実現されていますが、早くすべての TV 番組が対応して欲しい。こうなれば TV 受像機が不要になるメリットもあります。過去に何度もあったように「これが欲しいぞう」と叫んでいれば、必ず実現されるはず。

現在でも iPhone アプリ FOD で過去の「月9」などの人気 TV 番組を楽しませてもらっています。iPhone 画面を TV 画面にミラーリングし、通常の TV とまったく同じ状態で視聴できるのは快適。これをすべての TV 番組で実現して欲しいというわけ。

◯ 消滅してゆくしかないのか、私が好きだった企業たち

私が昔から大好きな企業は SONY, HONDA, Apple 3社です。3社とも創業者の考え方が大好きだったから。しかし、それぞれ創業者が亡くなるとともに、予想通りそれぞれの会社が放つキラキラ、ドキドキは次第に精彩を欠いていきました。

SONY は終戦直後、東通工:東京通信工業という名前で私の住まいから程遠くない丘の上に木造の会社があったことを覚えています。私の遠い親戚が創業当時の社員のひとりでした。しかし、創業者やその仲間が没するとともに、次第に SONY らしさは失われ、米国人の社長就任とともに、あの SONY は事実上消えてしまったと言ってよいでしょう。輝いていた頃、Apple の創業者 Steve Jobs にさえ尊敬される会社だったのに、、

Apple も Steve Jobs 没後年数が経つにつれ、製品の種類がやたら増えカオスになるとともに、Jobs ありし頃のような「どきどき、わくわく」が全く失われてしまいました。それでも3社の中では、かろうじて創業者の香りをかなり残してはいますが、もはや時間の問題という感じがしています。

HONDA の創業者、本田宗一郎さんは性格的にも私の大好きな尊敬すべき方です。私はHONDA が最初に発売した4輪乗用車 HONDA1300 を速攻で購入愛用し、その後現在に至るまで代々 HONDA 車を乗り継いできました(子供5人が小さい頃は家族7人でゆったり移動するため、TOYOTA のタウンエースというワゴン車に乗っていました。HONDA はまだワゴン車を作っていなかったからです)。

本田宗一郎の言葉「買って喜び、売って喜び、作って喜ぶ」は HONDA の社訓のひとつだそうです。「マン島TTレースやF1などへの参戦を通じ、HONDA のモータースポーツに心熱くした人達が HONDA の製品を買い求めてきた。しかし今 HONDA はグレイス、ジェイド、シビックセダンの生産を中止する。このような方針は、HONDA ファンを否応なしに他メーカーの車に乗り換えざるを得なくさせ、それらのファンは二度と HONDA へ戻ってこないかも知れない」と述べる記事を読みました。

この記事を書いた方は「事業を継続するための志は時代によって変わるものではなく、人間中心であり、世のため人のためでなければ、100年の計も成り立たない」と言っています。私もその通りと思います。SONY はもちろん、HONDA や Apple が目先の事情だけしか見えず、創業者の中に燃えていた人間中心の考えが見えなくなり、消えてゆこうとするのを悲しみながら眺めています。

◯ クッソー

先日レポートしたワイアレス・イアホン、コンパクトで使い勝手も良く、とても気に入って早朝散歩に愛用していたのですが、本日散歩から帰り耳から外そうとすると「あれ?左耳のイアホンが無い」、いつの間にか脱落。

自宅や近辺を探してみましたが、みつかりません「クッソー」。片方脱落すれば聴こえてくる音の具合でわかりそうなものなのに、何で気が付かなかったんだろう。とても気に入っていたイアホンなのに、たった1ヶ月で紛失とは、、

このイアホンはクラウド・ファウンディングによるもので、再度入手は難しい。「楽しい思いをさせてもらった」ことに満足し、また別のものを探すしかないか。

想像していたように、やはりワイアレス・イアホンは消耗品なのかもね、Apple の AirPods のように高価なものは怖くて買えないなあ、、

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これは日々の生活で感じたことを書きとどめる私の備忘録です