父倒れる

○ 1967年6月8日早朝

それは忘れもしない昭和42年6月8日の朝。 そろそろ気候は暑くなり始めた頃で、晴れた早朝と記憶しています。 母があわただしく階段を駆け下りて行く気配で目が覚め、 瞬間「あ、父が倒れたな」と悟りました。 後から考えると具体的に父が倒れることなど考えたこともなかったのですが、 父の兄弟全員が脳溢血だったので、 長男としては、その時が来ることを深層心理の中で覚悟していたようです。

それまでは、絶対的に安定した父という大樹の下で 皆安心した日々を送っていたのですが、 突如いろいろな責任が家族のそれぞれへ分け与えられることになりました。 まさにその瞬間は、われわれ家族にとっての歴史が大転換する瞬間。 私の人生で1度目の大きな試練でした。 当時の私は慈恵医大を卒業し、1年間のインターンを終えたばかりでした。 われわれの学年はインターン闘争で国家試験をボイコットしたため 医師免許証がなく、産婦人科教室へ仮入局という形で2ヶ月目でした。 弟はまだ慈恵医大の学生でした。 弟が卒業してから脳外科に進み、 その後リハビリテーションの専門医になったのも 父の病気と無縁ではないでしょう。

急いで服を着て母の後を追うと、 父は別棟の診療所2階にある婦長の部屋のベッドに横になっていました。 その時、大橋産婦人科は大改装が9割方完成に近づき、 新しくレントゲン装置を入れたのですが、 朝早く目を覚ました父はレントゲン装置を見に行ったようです。 そこで体調の異変に気づいて、 2階病棟にある婦長の部屋までたどりつき倒れたのです。 メカ好きの父のことですから、 新しいレントゲン装置を朝早くいじってみたかったのでしょう。

このようなことがあったら、 同じ医師会の山中先生に診てもらうようにと父は母に言っていたそうです。 山中先生は大変よく勉強をされる先生で父の信頼も厚かったようです。 急いで車を運転してお迎えに向かい、 朝早く山中医院玄関のベルを鳴らすと、 山中先生が何事かとパジャマ姿で出てこられたのを覚えています。 その後も、定期的に山中先生に往診に来ていただきました。 細身でいかにも好々爺の山中先生は ひととおり診察をすませると、 美味しそうに煙草を一服ゆっくりと吸われて帰っていかれたものでした。 俳句の趣味がおありで、医師会雑誌に先生らしい俳句をよく載せておられました。 そのお姿は、チャンバラ映画で一世を風靡した大河内伝次郎の晩年に似ておられました。

母と私が別棟の診療所へ急ぎ開け放された出口から、 屋内で飼っていた犬のラッキーが外へ飛び出してしまいましたっけ。 後で自分から戻ってきたようです。

○ 闘病の父

父は倒れた時56歳でした。 丁度その3ヶ月前の3月一杯で、 3期6年間務めた荏原医師会の会長を辞めたばかり、 長男の私がようやく産婦人科医局に入ったところでした。 他の方を見ていても、 このように「やれやれとホッとした時」に倒れる例が多いようです。 親には程々に心配をかけておいた方がよいのかも知れませんね。

私は当日は医局へ事情を電話し休ませてもらいました。 父の元気な頃から時々代診をお願いしていた 慈恵産婦人科の亀井邦倫先生もいらして頂き、 いろいろと心配して頂きました。 亀井先生の顔を見て、ベッドに横たわった父は「とうとう、 やっちゃいましたよ」とややマヒした声で言ったのを覚えています。

その数年前に父の兄、慈恵医大眼科教授の孝平叔父が脳溢血で倒れたのですが、 叔父の場合は意識がなくなったと聞いていました。 しかしその後、叔父は復帰して顔面などにややマヒが残るものの教授職を続けていました。 意識がなくならなかった父を見て「これなら大丈夫。また復帰できる」 と思ったものです。 しかし残念ながら、 脳のやられた部位が悪かったのでしょうね。 あれだけ積極的だった父がまったく積極性を失ってしまうことになり、 闘病への意欲さえ余り認められなくなったのはとても可哀想でした。

今なら、すぐ入院して手術などでもっと回復したのでしょうが、 あの頃はどうしようもなかったようです。 父は慶応の卒業ですが、 当時高血圧の権威であった慶応の相澤教授に往診をお願いし、 慶応病院の教授室まで車でお迎えにうかがったことがありました。 しかし特にこれと言った治療も行われず入院も勧められなかったところを見ると、 当時は有効な対処法もなかったようです(余談ですが、お迎えに上がった車の中で 相澤教授に「君は慈恵でインターンを終わったところだってね。 インターン闘争ってのはどうなってるんだい?」と聞かれたのを覚えています。 先生もインターン闘争には大分頭を悩まされていたようです)。

○ 自宅をバリアフリーに改装

しばらくして私も開業しましたので、 母が介護しやすいよう自宅の1Fを大改装しました。 車いすが動きやすいよう入り口をなるべく幅広くとり、 段差をなくしました。今でいうバリアフリーですね。

居間の隣にあった八帖の和室を床張りにして そこを広いキッチンとし母が働きやすくするとともに、 浴室やトイレの開口部も広くとって車いすごと入れるようにしました。 浴室を総檜ばり(当時はまだ木材がそう高価ではなかった) にしたので、数年の間浴室には檜の良い香りがしていました。しかしこれは失敗でした。浴室の位置が日の当たらない北側で通風も余り良くなかったため、数年も経つと檜の壁面にカビが繁殖してしまったのです。

○ リハビリ

倒れて数年は婦長に付き添われ、杖をつきながら近所を散歩していました。道で患者さんから「先生お元気ですか」と声をかけられたこともあったそうです。 そのうちそれもできなくなり車椅子となりました。 丁度10年間 寝たり起きたりの闘病生活を送り亡くなりました。享年66歳。家ではほとんど独りで大柄な父の世話をした小柄な母は大変だったと思います。

父は元気な頃よく「人生は太く短くか、細く長くだ」と言っていました。 まさに「太く短く」の人生を送った父でした。本当に尊敬できる父でした。私が70歳を過ぎてからも、 たまに夢に父がでてきます。夢の中では特別な存在ではなく、何となく普通の暮らしの中に父がいるのでした。