高校時代

○ 器械体操

高校に入ると鉄棒にどっぷりハマりました。 安藤勝也という親友がいて、 二人で意地の張り合いをして冬でも薄着で通したりしましたが、 砂場の鉄棒に飛びついては色々な技を練習しました。 運動苦手の私がこのお陰で、 逆上がりから始まり、最後は大車輪まで行くようになりました。 体型も体操選手のような逆三角になり、 手さえ掛かればどこにでも上がれる身軽さを手に入れました。 あの頃、ボルダリングなどクライミング・スポーツがあったなら、得意中の得意だったと思います。現在でもクライミングは大好きなスポーツ(現在は観戦だけですが)。

卒業後、親友の安藤勝也は名簿の上でも行方不明になったままです。 彼はどうしているのでしょう。それから40年ほどしたある朝のこと、外来診療をしていると「安藤さんという方から電話です」。 電話にでてみると「大橋くん?」というしゃがれ声。何とあの安藤くんでした。「友人から、ホームページで自分の名前を検索してみると、案外みつかることがある」と聴いてやってみたところ、私のこのページが引っかかり電話したのだそうです。彼の住所が名簿から消えて連絡がとれなくなってしまったことを伝えると「色々あってね」という返事でした。是非また連絡をとりたいので「メールしてね」と言って電話を切ったのですが、それっきり。しまったなあ、連絡先を聴いておくんだった。麻布時代たった一人の親友だったのに、とても残念。彼の生涯にどんなことがあったか知りませんが、また親しく付き合いたい。

鉄棒から始まり色々な体操競技が面白くなり、 器械体操部に入ろうかなと考えるようになったのですが、 すでに高校3年になっており、入りそびれました。 今から考えると1年間でも入っておけば良かったと思っています。 オリンピックでは、男子の竹本、女子の池田など、日本の体操がようやく芽を吹きそうな兆しの時期でもありました。

体操とは関係ありませんが、 麻布から家まで歩いて帰ったことが何度かあります。 長距離を自主的に歩いたのはこれが最初でしょう(現在この程度の距離は朝飯前、長距離でも何でもなくなりました)。 後年、御茶の水の東京都医師会や、市ヶ谷の東京産婦人科医会から歩いて帰ることがありましたが、 その後半は当時歩いて帰った道です。 この経路で印象に残るのは、 古川橋から五反田へかけての一本道。 当時は都電が走っており、すでに今のように広い大きな道だったように思います。

○ 高校時代の趣味

あるいは中学の終わり頃からかも知れませんが、 軍艦のミニチュア制作にかなり凝りました。 従兄弟の部屋で彼が作った精巧な模型を見せてもらったのがきっかけです (この従兄弟は後年、慈恵医大の学生の時に腎炎をこじらせ亡くなってしまいました)。 薄い金属を切って作った西洋の甲冑や、 軍艦のミニチュアでした。 軍艦は吃水から上だけの形式、 とても精巧にできていて感動し、早速自分も作ってみる事にしました。 木を削って本体を作り、甲板上の造作は木やボール紙、 ラッカーで塗装します。 最初に作ったのは戦艦大和だったと思いますが、 その後、航空母艦の瑞鶴、巡洋艦の愛宕、駆逐艦など細かい艦艇もいくつか作りました。 連合艦隊をそろえようと思ったのですが、 とうとうそこまでは至りませんでした。

ミニチュア軍用機にもかなり凝りました。 雑誌に制作記事が載っていたのがきっかけです。 当時はビニールやプラスチックなどがまだ出回っておらず、 魚屋などで魚を経木という「木を紙のように薄く削ったもの」で くるんで渡してくれました。 この経木を翼などの芯に使い、 画用紙程度の厚さの紙を材料に使います。 戦闘機のエンジンカバーなどは、 ハサミで細かく切れ目をいれ、 そこをセメダインで固めて丸みをだします。 キャノピーは、 これもビニールが手に入らない時代だったので、 セロファンに切れ目を入れセメダインで固めて丸みを出し、 そこへ細かく切った紙でキャノピーの窓枠を貼付けました。 零戦、九六式戦闘機、疾風、飛燕、爆撃機の一式陸攻、攻撃機の銀河、 特攻機の桜花、その他いろいろ作りました。

それ以前、昭和20年代から、木材でざっくりした形を提供され、 それを自分で削って整形するソリットモデルと呼ばれるものがありました。後年プラモデルが出現しましたが、私にとってプラモデルのように最初から形ができているものは面白くありません。 あのような形をいかに工夫して表現するかに面白さと満足を感じていたからです。 現在でも、これらの軍用機は軍艦の模型とともに、 ワイシャツの箱に保存してあります。

プラモデルの方が確かに精巧なモデルを比較的容易に作れるのですが、木材や紙のような原材料から作ってゆくことに楽しみを感ずるのが私たち世代の特徴でしょう。

これがきっかけで戦記物にも大分凝りました。 戦後十年を過ぎ、戦記物が沢山出版されるようになりました。 雑誌「丸」が発刊されたのもこの頃で、 新書版の戦記物を品川駅前デパートの書店で買っては読んだものです。 特に零戦の撃墜王「坂井三郎空戦録」は人生でも参考になることが多く、 私にとってバイブルのようなもの。 大学受験のお守りとして内ポケットに入れ受験したのは誰も知らないことです。 現在でも、それは私の心を支え、諌め、励ましを与える愛読書となっています。

○ 得意な教科は幾何学と製図

勉学の方はぱっとしませんでしたが、 幾何学と製図は大好きで得意でした。 パターン認識に向いていたのでしょう。 微分積分などの授業は、 わからず仕舞いのままどんどん進んで行ってしまいました。 後日、医学部に入って必要になるはずの化学は 特に嫌いでわかりませんでした。 「河童」というあだ名の化学の先生の授業が好きでなかったからと思います。

幾何学の北原先生は、今風の細い金属製のフレームのメガネを掛けたシャープな感じの先生で、私の好きな先生でした( 後年の少女漫画によく登場するイケメン男性そっくり)。そもそも私が幾何学が好きだったこともあったと思います。 先生から教わったことで有用だったのは、 二進法です(何で幾何学で二進法だったのかはわかりませんが)。 片手の指を折ったり伸ばしたりでゼロと1を表現するのですが、 こうすると片手で32まで、両手で64まで数えられます。 今から考えるとコンピュータのデジタルの世界ですが、 これは現在でも時々便利に使わせてもらっています。 一センチ角の小さな紙で、 折り鶴を折る方法なども教わりました。

ジャズ・ピアニストの山下洋輔が麻布の同期生ですが、彼とは同じクラスになったことがなく面識はありません。後年、彼が新聞に載せた「私の履歴書」を読むと、彼をピアニストの道へ導いたのは何とあの北原先生だったのだそうです。音楽室で北原先生が弾いた「ジャーン」という常識はずれのピアノが山下に衝撃を与え、ジャズ・ピアニストへの道をたどったとか。

製図の金子先生は「白髪鬼」というあだ名でした。 おそらく70才過ぎではないかと思われますが、 ベートーベンのような縮れ毛が真っ白で、大変厳格で怖い先生でした。 ある時、製図の時間に住宅設計の課題がでました。 これが面白くてハマってしまい、 雑誌「暮らしの手帳」などにあった設計図をむさぼり読みました。 この建築設計好きは現在まで続いています。 課題の最終として色々と工夫した結果の設計図を提出したところ、 白髪鬼に「お前、どこかの本から写してきただろう」と言われ、 非常に自尊心を傷つけられたのは忘れられません。

これがきっかけで、軍艦や軍用機のミニチュア作りから、 住宅設計に趣味が移ったのは高校の終わり頃から 大学予科にかけての頃。 設計図やパースなど書きためたノートが 何冊も保管されています。こうして住宅設計は、古希を過ぎても続く趣味となりました。

○ 運転免許を取得

当時は16才で免許をとることができました。 父の勧めで、多摩川にあった「東急自動車学校」へ通いました。 その後「東急自動車学校」は多摩川の東京側に移りますが、 当時は川崎側の河原にあり多摩川園前から巡回バスがでていました。 もう1、2年早ければ自動的に第2種免許までとれたのですが、 私の時には別途受験が必要となっていました。 それでも自動2輪免許が自動的についてきたので、 後年それでバイクに乗ることになります。

私は3月23日生まれという早生まれですので、 中学ではいつもチビから5番目以内に入っていたと思います。 大学へ入って予科の頃に少し背が伸びました。 卒業して大分経ってから麻布の同窓会で 「大橋、大きくなったな」と言われたりしました。 そのようなことで、 自動車学校の教官から「君、本当に年齢は16才なの?」と聞かれたことがあります。

教習所の過程を無事終えると、 鮫洲の運転試験場へ行って免許をとります。 今はお役所もかなりソフトになりましたが、 当時の試験場は「コワイ警察」そのもので 応対も横柄でツッケンドンですし、 刑務所ほどではないのでしょうがとても嫌な感じの所でした。 さて、運転免許は取得したものの、 大学本科2年まで結局ペーパードライバー状態でした。

○ 受験勉強をしない受験校

麻布学園というのは面白い学校で、 東大や慶応への入学率が高く名門校と呼ばれていましたが、 学校としてはつめこみも受験勉強らしきものも殆どしませんでした。 さすがに高校3年の時には受験を目的とした特別授業はありましたが、 学校としてそう気の入ったものではありませんでした。 生徒がそれぞれ 勝手に受験勉強をしていただけという印象が強いです。 私も受験の前の年の夏休みには、 渋谷にあった「代々木ゼミナール」に通った覚えがあります。

私が高校3年生の時に、当時の皇太子が日清製粉社長の娘さんだった美智子様と御成婚になりました。 お二人の出会いのきっかけは、 麻布学園の斜向い(よりはちょっと離れているかな)にある 麻布ローンテニスクラブです。 御成婚の日はとても良い天気で、 皇居のお堀の前をお二人を乗せた馬車が沢山の群衆の見守る中 進んで行った TV 映像を憶いだします。

○ 同窓のメンバー

麻布の気風は「自由を尊ぶ」ことにあり、 延び延びとしていましたので、 ユニークな人材を沢山輩出しています。 私の4年上の学年には、後日、総理大臣になった橋本龍太郎と、 塀の中の人になった阿部譲二が一緒に学んでいましたが、 当時は知る由もありませんでした。

私と同じ学年にはジャズピアニストの山下洋輔がいました。 毎年のように組み替えになったのに同じクラスになったことがありません。 西武の堤三兄弟の一番下が同じクラスで、 学生服のズボンを当時流行った細身のマンボズボンにしていました。

衆議院議員の佐藤観樹とは、同じクラスで過ごしました。 父上が佐藤観次郎議員ということで、 彼が議員になることは高校時代から自然な流れとして受けとめられ、陽気なクラスの人気者でした。 彼は2004年でしたか、公設秘書名義借りで逮捕されてしまいました。 記者会見で彼の対応を見ていても、 彼の正直さが現れていて気の毒に思ったものです。

○ TV 連続もの

わが家に TV が入ったのは、高校1年の頃でしょうか。 その数年前、祖父の家には日本でもいち早く TV が入っており、 日曜になると一家そろって見に行ったりしたものです。 わが家に TV が入った頃は、和製ポップスが大いに花開いた頃です。 森山加代子、ザ・ピーナッツ、坂本九など、とてもにぎやかでした。森山加代子は、私とぴったり同じ生年月日。

初々しい十朱幸代がでていた連続ドラマ「バス通り裏」は楽しみに見ていました。これがTVの連続ドラマの最初だったそうです。主人公達は私と同じ受験世代の設定で、 とても親しみを感じました。 私はその後もずっと十朱幸代のファンですが、私と同い歳なのに70歳を過ぎてもとても若いのには驚きです。一時、私の家から歩いて十分以内の所に住んでいたそうです。