医局生活・開業

○ インターン

大学卒業後1年間インターン生活を送りました。私は慈恵の関連病院以外へ出なかったので、ほとんど慈恵本院と第3病院でした。 インターン闘争吹き荒れた時代で、私達の学年も国家試験をボイコットし、入局時にはライセンスが無いため仮入局でした。 秋に国家試験を受験しライセンスを取得したので私達の医師免許証の日付は秋です。秋の免許証というのは春の定時国家試験に落ちた人間ということで、 ちょっと格好悪い思いをします。ボイコットではあっても、実際に春の試験に不合格だった訳ですから仕方ありません。

インターン闘争はその後次第に沈静化し、インターン制度は廃止となりました。私達の次くらいの学年がインターンを経験した最後と思います。 インターンに限らず当時は学生運動吹き荒れた時代で、その前にも樺美智子さんがデモ行動の中で亡くなった事件とか、 私の開業直後にも赤軍によるリンチ事件・浅間山荘事件など陰惨な事件が続発しました。


○ 東京デザイン・カレッジ

父の言葉に従い建築方面に行くのを諦め医科大学に入ったのですが、デザインの夜学があるのを知り インターンの余暇を利用して通うことにしました。赤坂の繁華街、赤坂地下鉄駅すぐ近くにある「東京デザイン・カレッジ」。 開校間もない学校で漫画科などもあり、そちらには手塚治虫・近藤日出造・馬場のぼるその他、そうそうたる漫画家が講師に名を連ねていました。 私が入ったのはグラフィック・デザイン科、こちらにも大智浩・宮永岳彦など著明な方々が講師でおられ、両先生には手をとって教えて頂きました。

夜学なので色々な職業をもつ人間がいます。警察官・税務署員・自衛隊の空挺隊・コックさん、医者の卵の私も変わり種のひとつでした。 変わった人間ばかりなのですが、何か共通するところがある。何だろうと考えてみると「ははーん、 嫌なやつが1人もいないんだ」。大抵ひとりくらい嫌なやつが居るものです。 つまり、職業を持ちながら夜学に通ってまで、クリエイティブなものを学ぼうという人間に嫌な人間はいないということです。 人生その後のコンピュータその他の経験でも、クリエイティブな人間で嫌なやつを殆ど見たことがありません。

空挺隊からはいろいろ面白い話を聞きました。「降下する時はどんな感じ?」と尋ねると「他の連中に、あっちへ行けこっち来るな と手振り身振りで一生懸命」「何故?」「パラシュート同士くっつくと萎んで墜落するから」。 また「自衛隊校舎屋上からパラシュートを着けずに飛び降りられたら千円という賭けをし、型どおり着地と同時に綺麗にクルリと回転して降りたので、 さすがと思っていたら肋骨にヒビが入っていた」とか。

授業は、デッサン・クロッキー・車のレンダリング・レタリング・粘土をつかった塑像など「こんな面白いことやっていて良いんだろうか」と思うほど楽しいものでした。 しかし夢の様な生活は長続きするものではありません。2年目に入るとすぐ父が突然の脳溢血で倒れ学校は中退となりました 「いつの日か、もう一度復学したいたいなあ」と思いながら、、

この学校は慈恵本院のすぐ裏に引っ越してきましたが、私が中退して間もなく廃校になってしまいました。 後日談ですが、私が70才を過ぎた頃、懐かしくなって Web で東京デザイン・カレッジを検索してみたところ、 丁度「幻の東京デザイン・カレッジ作品展」というのが銀座の小さな画廊で開かれるのを知り、何度か見に行きました。 主にカレッジの漫画科 OB 達による作品展でした。

デザイン・カレッジ学生時代の作品

○ 医局生活

1967年4月、慈恵医大産婦人科教室に仮入局。父の倒れたその晩から、院内電話で看護婦から「先生お産です」と起こされました。私にとって初めてのお産はこうしてうちの婦長に教わったのです。 しばらくは電話機のある居間のソファで いつ起こされても良いよう着の身着のままの臨戦態勢で寝ていました。

やがて大学でも当直が始まると、大学でも当直、自宅でも当直という365日当直の生活が続きました。当時、大橋産婦人科の分娩数は月に30以上あったのではないかと思います。 大学の当直中、自宅の看護婦から「お産が始まりそうです」と電話があり、一緒に当直をしている先輩医師に平身低頭して一時帰宅させてもらったこともありました。夜中に自宅の分娩を済ませ、再び大学へとって返したものです。

熟睡していても「お産です」と云われるとパッと飛び起き分娩室へ、 お産を終え布団に入るとすぐ熟睡という、このような生活が続いても何の問題もありませんでした。 若かったということもありますが、これは開業してもお産をやめるまで続きました。

父が倒れると、大橋医院はすぐ翌日から困ります。前年のインターン時代、アルバイトで祖父の眼科医院の外来を手伝ったことはあっても、 産婦人科はどうせ嫌というほどやるのだからと父の手伝いをしたこともありませんでしたし、仮入局の身分では外来診療を経験することもありませんでした。

幸いなことに父が倒れる前から、叔父の同級生だった慈恵医大産婦人科の亀井邦倫先生に 医師会長で忙しかった父の代診として週に何回か来ていただいていました。有り難いことに亀井先生が慈恵の医局から何人もの先生を代診として手配してくださいました。 後で考えてみると、もし私が慶応に入学していたなら慶応の産婦人科医局からこのように大勢の先生方に代診に来て頂くことは到底無理だったと思います。運命というか神の意志のようなものを感じます。

そんなことで曜日ごとに代診の先生を手配していただき、何とか大橋医院の外来診療を続けることができました。それでも毎日を埋めるのは大変で、地元武蔵小山商店街が火曜休みなのに便乗し、火曜休診としました。週休2日制などというものがなかった時代、その走りでした。医師会に入会すると「君は若いのに週2日も休むなんて贅沢じゃないか」と云われたりしましたが、それから大分経つと世の中は週休2日制の時代に入り、週休2日の診療所は珍しくなくなりました。

そのようなことで、少しでも早く産婦人科医としての技術を学び開業しなければならない という気持ちで一杯でした。医師が少なく忙しい大学関連病院への出張を皆嫌がりましたが、私は率先して出張に手を挙げました。 比較的のんびりした本院より、実戦的な分院で腕を磨きたかったのです。

最初に出張になったのは第3病院、当時は古い木造兵舎のような建物でした。 当直で夜中に起こされると寝ていた外来から産科病棟へ 裸電球のともる吹きさらしの渡り廊下を通って行きます。冬の寒さから「シベリア街道」と呼ばれていました。 木造病棟の窓の下から、スチームがシューッと音を立てて白い蒸気を吹き上げていたました。 第3病院産婦人科の亀井医長は患者さんへの対応がとても丁寧で説明にも時間をかけるのため、 他の医局員が皆診療を終え外来裏の医局で看護婦さんとともに長い時間昼食を待たされることも少なくありませんでした。 

この亀井邦倫医長は同じ産婦人科医局だった叔父の友人で、父が倒れた時なにかと大橋医院の面倒を見てくれた先生。先生は手術に関しては細心で、自分が一緒に手術に立ち会っていても初心者に任せることはありませんでした。 また色々と細かいので、医長を余り好まない医局員も多かったのですが、 私は父の代診で高校生の頃からの顔見知りということもあり、 先生を兄貴のように思いとても居心地は良かったのでした。

その翌年、青戸病院へ出張になりました。ここの久慈直志医長は亀井医長とはまったく逆のキャラクターでしたが、 どちらの先生からも学ぶことが多かったと思っています。 久慈先生は非常に豪胆な方で、手術も自由にやらせてもらえました。短期間で技術を身につけ開業する必要があった私は、 手術書にある術式を端から端までやらせてもらいました。 1日の診療が終わっても夜遅くまで、医局で久慈先生を囲み話を聴くのを皆楽しみにしていました。 久慈先生は医学についてはもちろんのこと、何を質問しても答えが返ってこないことがないというほど博学でした。 例えば「ベンツに乗っていて川に落ちると、どんな感じか」「船の速度はそもそもどうやって測ったのか」などなど、 ご自分の体験を交えた答えが返ってきたものです。 しかし、医学に関する質問については、まず自分なりに書物などを調べた上で質問しないと答えてもらえませんでした。

分院への通勤には父から譲り受けたスカイライン200GTを使っていました。 これは第2回日本グランプリで式場壮吉のポルシェと競ったレース仕様の車で、 とてもガッチリした作りの気に入った車でしたが、青砥への通勤途中の狭い道で 対向車に道を譲ろうとして側溝へ落輪してしまったことがありました。 第三病院からの帰り大好きな雪が積もっているので、チェーンを装着し登坂に挑戦しようと、 上野毛の急坂を勢いをつけ勇んで登ったところ、バリバリーンと音を立ててチェーンが吹っ飛んでしまい、 なるべく坂のない道をすごすご帰ってきたこともありました。


○ 恋心

新米医局員のこうした生活の中でも青春の想い出がありました。 入局して最初に配属されたのは本院の 3B という産科病棟だったのですが、その病棟の長野はつ枝さんという若い看護婦さんを第一印象で可愛いなと思っていました。

その出会いは印象的でした。3B 配属の朝、ナースステーション中央の椅子に座り書類を見ていると、朝日あふれる大きな窓を背に、ふと現れた白衣の彼女は背に光輪を背負ったニンフのよう。真中分け両側に軽くカールした髪、その若く輝く美しい顔にハッと心がときめきました。少しはにかんだ表情も印象に残りました(後から考えるとこの時、眩しそうにふり仰ぎハッとしたような私の表情が彼女の心を捉えたのかも知れません)。

ある晩、勤務を終え自分の車で帰ろうとすると、 門のあたりの暗闇に待つ人影が見えます。「あのシルエットはもしかして」と思いつつ車を進めると、やはり N さんでした。 どうやって判ったのか私の帰りを待ち受けていたのです。 病棟で彼女に特別な素振りを見せたつもりはないのですが、お互い以心伝心だったのでしょうか。 窓を開け彼女と言葉を交わすと一緒に近くをドライブ。 それから何度かデートをしました。

26歳で結婚した叔父を見ていて、以前から結婚はなるべく若いうちにしようと考えていました。 父が倒れて家が大変な状況でもあり、父やその兄弟が皆比較的早くして脳溢血に倒れたので、自分も人生を急いでいたこともあるでしょう。 そんなことで何回目かのデートで、単刀直入に結婚の意志の有無を尋ねてしまいました。 あとから考えれば、そんなことをいきなり問われても何とも返事のしようがないことは当たり前なのに。 彼女がもじもじしているだけで即答がないのを結婚の意思なしと判断し、 それから何度か彼女から電話があっても素っ気なくお付き合いをやめるむね伝え電話を切ってしまいました。 私が第三病院に出張になってからも、どうやって調べたのか私が当直の晩に彼女から電話がかかってきたこともありました。

学生の頃、初恋のクリスチャンに振られた辛い思いが余りに強く、自分からは絶対あのような思いをさせまいと、そのような対応をしてしまいました。 後になって考えれば、逆にそれが如何に彼女の心を傷つけたであろうかと今だに深く深く反省しています。 何とも若気のいたり、単純に即断せず、もっと時間をかけ彼女の意思を確かめるべきでした。 あまりにも経験不足、思慮不足でした。N さん、本当に、本当にごめんなさい _O_

これが縁というものか、、、というのは言い訳になってしまいますよね、、


○ 1968年11月 結婚

叔母から頂いた縁談に即決し結婚したのは、その翌年26歳の時でした。 「人には何となく肌の合わない相手というものがある。しかし嫌だなと思うものさえなければ誰でも同じ」という血液型O型の特徴というか何とも単細胞な話。ここにも初恋に失恋した経験が影を落とし、心なしか投げやりな感じもあったのかも知れません。 しかし結婚生活は円満でした。脳溢血で倒れた舅とそれを介護する姑との同居生活、この大変な状況下で長男の嫁として診療所の裏方を支えるための努力をしてくれ、二男二女をもうけました。

後年読んだ山本周五郎の「女はみな同じ物語」というのがありました。幼い頃女の子にいじめられたトラウマから女嫌いになっていた若侍。母親の手配した若い侍女に次第に心ひかれるようになるが、ある日突然、彼女は暇を告げ居なくなる。その後、両親が決めた縁談が着々と進みお互い相手の顔をみることもなく挙式。その夜 初めて顔を見ることになるが、それは何と心ひかれていたあの侍女。そして彼女こそ幼い頃、彼を蛇で脅かしたりしていた幼友達。翌朝ひっそり父親が彼に言ったことは「女は誰でもみな同じになるものさ」。


○ 1970年1月 開業

医局3年目で開業することにしました。大橋医院の外来診療と当直は日替わりで代診の先生にお願いしていたのですが、 さすがに財政的に苦しくなってきたことが最大の理由でした。 本院や第三病院、青戸病院などを巡りながら、必要最小限ではありましたが 産婦人科医として一通りのことをやらせてもらえたという気持ちもあったかと思います。 ただひとつ心残りだったのは、当時フレッシュマンが順番に研修に出されていた麻酔科をまわることができなかったことでした。 私の順番が回ってくるには、まだ数年かかりそうだったのです。 青戸病院の久慈先生から全身麻酔の挿管を一通り教わることができ、それでよしとするしかありませんでした。

開業するとすぐ地元の荏原医師会に入会しましたが、 28歳での開業ということでその後いつまで経っても下っ端の状態が続きました。 私の地域は荏原医師会の戸越部会という部会に属していました。 荏原医師会長をしていた父を知っている先生も大勢おられ、何かと可愛がって頂きました。

この頃はまだお産もかなり多く、非常に張り切って外来にお産にと取り組んでいました。 若さゆえの怖いもの知らずのところもあったかと思います。 父が大改装したばかりの新しい診療所でしたが、開業して2年目に再び大きな改装をしました。 病室はすべて2階でしたが、手術室・分娩室が1階なので、手術や分娩が終わると患者さんを担架に乗せ、 看護婦と二人でかついで2階まで上げなければなりませんでした。 もっと効率的にワンフロアーにして、移動をストレッチャーで済むようにしようと云う訳です。 2階の病室はほとんど2人部屋か個室でしたが、2つあった8人部屋は使われることが殆ど無かったので、 そこを手術室と分娩室・沐浴室に改装しました。どちらも大学病院の分院なみの広さと清潔さで、気持よく仕事をすることができました。

父を車椅子に乗せ見てもらうと、麻痺でよく回らない口で「よくできている」というような感想を言ってくれ、 父から継承した仕事の面で少しでも喜んでもらえたかと大変嬉しく思ったものです。

医局を早く辞めざるを得なかったので、もう少し勉強したいという気持ちがありました。 町田市立病院(その後の町田市民病院)でパート医師を求めているという話があり、 親友の伊村に週1日大橋医院の代診を頼み町田へ行くことにしました。町田の久富医長は大変な努力家で、新生児医療にも力を注いでいました。 慈恵では新生児に問題があるとすぐ小児科へ依頼するのが普通でしたが、久富先生は産婦人科で可能な限りの治療を行っていました。 交換輸血の手技その他、色々と勉強させて頂きました。もっと勉強したかった手術についても実地に色々とやらせて頂きました。

開業医は一国一城の主、自分ですべて決済できる醍醐味がある一方、 大勢の職員への目配りもしなければなりません(私も若く余裕がなかったこともあるのでしょう)。 一方、勤務医の立場では、手術など色々やらせてもらえ、人事に気を使う必要もありません。 「普段は開業医、週に1日は勤務医という生活は理想的。ずっと続けたい」と思ったものです。

しかし人生、良いことはそうは続きません。親友の伊村の突然死により、その理想的生活は幕を閉じました。 ある日曜の朝、彼がなかなか起きてこないので母上が2階へ見に行ったところ、自分のベッドで亡くなっていたそうです。 伊村の葬儀では友人代表で弔辞を頼まれました。当日の朝、家内から「あなた、ちゃんと読めるの?」と云われ「大丈夫さ」と答えたのですが、 弔辞を読んでいるうち母上の嗚咽の声に自分も駄目になってしまいました。公衆の面前で泣いたのは生涯この時だけでした。

余談ですが、伊村を含み私の親しい若いドクターの突然死を3度も経験しました。残りの二人とも馬術部の後輩、ひとりは第3病院での当直明け姿が見えないので皆で探し回ったところ、当直室の浴槽の中で亡くなっているのが発見されました。もうひとりも伊村と同様自宅で朝になっても起きてこないので家族が見に行った所、2階の自室で亡くなっていたよし。彼の父上も馬術部OBで私の先輩、ガダルカナル島近くで米軍艦載機に撃沈された戦艦比叡の軍医で一晩泳いで救出されたそうです。いかにも元海軍軍人らしく、顎を引き背筋をシャンとした毅然としたお姿の私の尊敬する先生でした。期待していたであろう竹内外科の跡取りを亡くし、先生の胸中は察するに余りありますが、後日先生にうかがったところ「部屋に鍵がかかっていたので、2階の窓に梯子をかけ入ったが、すでに死斑がでていて無理だった」と冷静に語っておられました。このように私の周りでは、若いドクターの急死が3件もありました。いずれも当直など含む過労に起因する心停止ではないかと思われました。


学位の取得

学位(博士号などとも呼ばれますね)は「足の裏についた飯粒」に例えられます。心は「採っても食えない」。私も個人的には学位など要らないと思っていましたが、周りから「取っておいた方が良い」としきりに勧められ、週に1回、大学に通い取得することになりました。

久慈先生の指導のもと、主に第三病院にあった研究室で後輩の医局員たちと仕事をし取得することができました。自分としてはもともと余りやる気がなかったせいもあってか、正確には何のテーマで学位を取得したか覚えていません。最後に論文を提出する際に必要な印鑑がないことを知り、急遽 消しゴムを彫って作った印鑑で判を押し提出したことを覚えています。誠にいい加減なもの。これでも取得できたのですから、本当に足の裏の飯粒。もっと真剣に研究して学位を取る人たちは沢山おられるのですから、誠にけしからん話。

私の主任教授は渡辺行正教授でしたが、当時慈恵の産婦人科学教室の筆頭教授は学長だった樋口一成教授で、樋口教授から学位を授与されました。私の母方の祖父が樋口教授と小学校の同窓で樋口教授と懇意だった関係もあり、後日祖父に連れられ学長室に学位のお礼に伺いました。樋口学長は馬術部の面倒も見ていただいていたのですが、私達にとっては天上人、余りにも偉い方で直接お会いして言葉を交わすことも それまでありませんでした。

ちなみに樋口学長は学会は勿論のこと、政財界にも名前を知られた偉人でした。顔面神経痛が原因と聴きましたが、顔の片側がひきつり ただでさえ厳しい顔が一段とこの世のものではない凄みを感じさせました。入学式・卒業式での学長挨拶の話はとても面白く印象に残るものでした。競馬馬をお持ちで馬術会にも顔が売れ、年に一回、代々木の樋口先生の自邸庭に馬術界の錚々たる人々を招いて園遊会を行うとの話を聴きました。

学位のお礼に伺った翌月、樋口学長は喉頭がんで逝去されたので、樋口教授から学位を授与されたのは私が最後になったのだと思います。奇しくもその11月、祖父も亡くなりました。孫は子供より可愛いといいますから、祖父にとって孫の学位取得に関われたことは大きな喜びだったのだろうと思います。孝行できて良かったなと、、


○ お山のおうち

家内の父が定年後は畑仕事をしたいとのことで農大の園芸教室に通うとともに、畑仕事のできそうな土地をさがしてきました。 神奈川県秦野市のゴルフ場「レインボーカントリー倶楽部」の隣、東名高速を見下ろし後ろに大山を見上げるミカン畑の中の見晴らしの良い高台。 やや遠方ですが東名高速を使えば1時間少々で行けます。家内の実家と半分ずつその土地を購入しました。 早速、別荘の図面を引き、診療所の改装を頼んだことのある工務店に依頼しました。 遠方なので断られるかなとも思ったのですが、二つ返事で「良いですよ」。 職人さん達はバイクなどで東京から通ったようです。 別荘は憧れの暖炉のある設計。工務店の社長は「暖炉は排気が結構難しいんですよ。 実物を作って実際にモノを燃やしてみないとね」と言っていましたが、出来上がった暖炉は何も問題ありませんでした。

うちの子ども達から「お山のおうち」と呼ばれるようになり、週末になると1泊して日曜を過ごし、その夜帰るのが習わしとなりました。 夜中にお産で呼ばれたこともありましたが、この時間には東名も空いており1時間かからずに帰れました。 長女が朝日でウロコのように光る遠方の海を見て「クジラがいる」。クジラではなく湘南の海に浮かぶ江ノ島でした。 春になると裏の方が一面黄色い菜の花畑、その向こうに一面ピンクの桃の花の山。桃源郷のような景色でした。 義父は畑を耕し、トウモロコシ、ネギ、ナス、ジャガイモ、ニンニクなど色々なものを作りました。 建物前面の広い庭を芝生にしようと、一面をツルハシで耕し埋まった小石をふるいにかける作業など、土方作業は 私にとって大変楽しいものでした。

道をちょっと下ったところに、TV によく出ていた水の江滝子さんの家がありました。 彼女は東京松竹歌劇団1期生、ターキーの愛称で呼ばれ、 初の女性映画プロデューサーとして石原裕次郎・浅丘ルリ子・長門裕之などを発掘・育成した人だそうです。 ここに乗馬が飼われていました。 私の別荘の裏手の方にある畑を馬場として借りているようで、時々別荘前の道を乗馬で通って行きました。 呼び止め「私も大学の馬術部だったので、馬にはよく乗っていました」と話をしたことがあります。

周りをみかん畑に囲まれ、春になると一面黄色い絨毯のような菜の花畑の向こうの山全体がピンクの桃の花で埋まる。この世のものとは思えない雅びな景色でした。 この自然に囲まれた美しい環境で晴耕雨読、のんびりした生活ができる。 このように天国のような生活があって良いのだろうかと思ったものです。私の人生で何度も経験することですが、 天国のような生活はそう長続きするものではありません。それは次に述べることにより、いきなり幕を閉じることになります。たった1年半ほどの天国でした。


○ 突如2度目の試練

私の人生において父が突然倒れたのが最初の試練でしたが、2度目の試練が訪れます。

開業の前年、長女が出生。まだ医局勤務でしたので、 私が自宅に居る時お産になるよう陣痛促進剤を使った初めての計画分娩でした。 当時始まった計画分娩(その名称がつくのはもう少し後だったと思います)は すでに賛否両論がありましたが、医療体制の整った安全な時間帯にお産になることは決して悪いことではないと考えていました。 家内が安産タイプだったこともあり、私が自宅にいる時に無事長女を自分の手でとりあげることができました。

その後一度流産がありましたが、次女、長男、次男と年子のように続けて4人の子供をもうけました。 映画「シェナンドー河」で、西部開拓時代の父母を頂点とした 頼もしい息子や娘たち大家族の生活に大きな憧れがありました。 小さい子供達4人を腕に抱いたりベビーバギーに乗せ デパートなどへ行くのは大変でしたが、若い親としてはやり甲斐のあるものでもありました。 しかしこの後、突然訪れる2度目の試練により、頼もしく成長した子供達に囲まれ暮らすことは夢となりました。 人生とは そのようなものなのでしょう、、

長女が小学校1年生、長男はまだオムツがとれず、一番下はまだ哺乳瓶でミルクを飲んでいる頃でした。 その暮れのこと、子供達を連れ家内の実家を訪れていた時、 家内が1点を見つめたまま周りからの話しかけに まったく反応しません。 すぐ正常に戻ったのですが、義母と顔を見合わせました。これは何か変だぞと。 しかし、すでに大学病院は正月休み、年が明けると慈恵の脳外科を受診させました。 外来診療をやっていると脳外科の教授から電話がありました。 当時慈恵には他に先駆け CT スキャンが入っていたのですが、 教授の言葉は「CT で見たところ、脳腫瘍です」。 それでもまだ私は楽観的で「手術すれば大丈夫ですよね」 「いや、1年か2年もてば良い方でしょう」、ガーン、頭を金槌で殴られたような衝撃。

腫瘍は視床近くの神経膠腫でした。そう云われれば、前の年の夏に一度だけ家内が「眼の奥がすごく痛い」 と言ったことがありました。しかし痛みはすぐに消え、その後はそのようなこともなく忘れていました。 あれが初発症状だったのかも知れません。

とにかく手術ということになりました。手術までの数日間の辛かったこと。 街行く人を見ても「何で自分のところにだけ、こんな不幸がやってくるんだ」とか 「これはきっと悪い夢を見ているんだ。ふと目が覚めればいつも通りの生活のはず」と 何度も考えました。突然の不幸に見舞われ誰もが考えることだろうと思います。 外来診療をしていても、診療することがとても辛いのです。 頭の中で「自分の家族を心配する部位」と 「患者さんを心配する部位」は同じなのだとわかりました。 建築家になりたかったのに父に薦められいやいや医者になったと思っていたのですが、 自分も結構一生懸命お医者さんやっているんだ、と。

そして入院の朝「入院前に子供達と一緒に食事をしに行きたい」と家内の希望で、 慈恵近くの東京プリンスの中華料理で子供達とテーブルを囲み食事をしたのが、普通の彼女と過ごした最後でした。 病気の予後についてはもちろん彼女に話していませんが、 実家の母などの様子から薄々わかっていただろうと思います。 しかし覚悟を決めたのか取り乱すこともなく、じっと自制していたのでしょう。 手術は試験開頭に終わり、結局 腫瘍本体は摘出できませんでした。 手術直後は病室に付き添いベッドを入れてもらい泊まりこみで付き添い、その後も外来を済ませると毎日のように病院へ通い、 着くと6Fの病室まで階段を駆け上がりました。 こうした生活を送っていた時、馬術部の先輩が「大橋、一緒に飯でも食いにいこう」と誘ってくれました。 病院のすぐ近くの寿司屋2階で3,4人の馬術部仲間と食事をしました。 とてもありがたかったのは、家内の病気のことをまったく話題に出さず、関係ない話題で通してくれたことです。 これは、誘ってくれた原瀬先輩の人生経験から来たものなのだろうと想像しています。

私の弟が慈恵の脳外科だったのですが、片方の視力が出ず細かい手術での両眼視ができないということで脳外科をあきらめ、 当時まだ日本では珍しかったリハビリテーション専門医をとるため家族を連れ米国へ留学していました。 そのため、弟に逐一相談することはできなかったのですが、 弟も「脳外科をやってきたが、まさか身内に脳外科の患者さんがでるとは思ってもみなかった」と。 やがて父の介護と嫁の病気に母も心労で倒れ しばらく入院。父・母・連れ合いが倒れ、 小学校1年の長女を筆頭に4人の幼児をかかえ、元気な大人は自分ひとり。 この時思ったことは「これは考えうる最悪の状況、今度何か起こるなら絶対もっと良いことに違いない」という開き直りでした。

「脳の手術をすると人格が変わってしまうことがある」と聴いていたのですが、 その通りだったのです。人格が悪くなったわけではありませんが、 手術後は お人形さんのようになってしまいました。 眼がお人形のように澄んでいるのです「なるほど、眼は心の鏡というが、その通りだな」と。ようやく術後状態も安定し退院できた頃には春の陽気となっていました。

病気がわかってから彼女の実家との折合いが悪くなりました 「うちの娘をこき使うからこんな病気になった」などと云われ、 こちらも一生懸命やっているのにと云う気持ちもありました。 結婚した以上は何があっても一心同体という気持ちでやってきたのに、あちらは「あくまでもうちの娘」という気持ちを露わにしてきたのです。 人の親としてわからないでもないものの、連れ合いとしては非常に釈然としないものがありました。 あちらの父親がやってきて彼女を突然実家へ連れ帰ったこともありました。 私も母もあっけにとられたのですが、 何日かすると親戚に諭されて、こちらへ戻してきました。

娘たちの通う学校のシスターから「お父様もさぞ大変なことと思います。 そのような時はどうか神におすがりください」と云われました。 しかし過去の失恋時の痛手から、キリスト教は信じなくなっていました。 医学的に見込みがないということで、崖縁に立つと誰でも藁にもすがるようになるものです。 仏教の本など抹香臭くて読む気もしなかったのですが、 仏教の本を読んでみました。 具体的なことは覚えていませんが、 意外と科学的なことが書いてあるのに驚きました。 以前ロボット工学の森教授が宗教的な話をしていたのを思い出し、 なるほど地球上を反対方向へどこまでも行くと同じ場所へたどりつくように、 科学も宗教も究極まで突き詰めると同じところへたどり着くのだなと。 そして、神にすがるのではなく「自分のことはあくまで自分の責任。自分が努力するしかない」という禅宗の考え方が もっとも自分に合っていると思うようになりました。

手術後はお人形のように目が澄み虚空を見る感じで、開頭術後の頭をスカーフで覆い実家の母に連れられ過ごすことが多かったかと思います。実家の母により洗礼を受けさせられ、その母とともに彼女について行った先は田園調布教会。 ここは初恋のクリスチャンを送り迎えした所でもあったのです。 何とも複雑な思いを噛み殺していました。これはどのような運命の悪戯だったのかと。 手術したその年の暮れもせまるころ、慈恵に再入院。 最後は目も見えなくなり喋ることもままなりません。見舞って病室を出ようとすると 彼女が手招きで呼んでいるというので引き返すと、私の手をギュッと握り返してきました 「子供達をよろしく」という最後の思いだったと思います。 私が子供達の待つ家に帰ると、息を引きとったという連絡がありました。彼女とは丁度10年間の結婚生活でした。


○ 父 亡くなる

10年間寝たきりだった父が、1978年3月亡くなりました。享年66歳。 家内の亡くなったのはその年の12月(享年33歳)ということで、 私は同じ年に2度喪主を務めることになります。この大変な時期 藁にもすがる気持ちで、 宗教の本なども読みましたが、ある本に先祖をまつる墓地も大事と書いてありました。 大橋家本家の菩提寺は葛飾区奥戸の日蓮宗妙法寺でしたが父は三男坊で、この本によれば新しく墓地を得て新たな家系を築くべきとありました。 そこで墓地探しをしましたが、どうせ自分も入るのだから気持ちの良い所ということで湘南海岸を見下ろす高台にある鎌倉霊園の墓地を購入。 同じ年に墓石を2基建立することになり、石屋が気の毒がって料金を少しまけてくれました。

購入してから隣接するお墓の墓誌を見ると医師のようです。よく読むと同じ医師会の依田先生のお墓でした。 また隣の区画には若くして亡くなった私の親友伊村の墓地や、伊村とともに親しい もうひとりの友人川口家の墓地もあり、 ここに入るようになっても下駄をつっかけて遊びに行ける距離だなと。墓参りには必ず供花を2組み持参し、 伊村の墓にも手向ける習わしとなりました。

父が亡くなって5年後に母も亡くなりました。享年61歳。父の看病疲れもあったと思います。 両親の喧嘩をみたことがないほど仲の良い夫婦でしたから、母もあちらの世界で父のもと幸せにしているのではないかと思っています。


○ 「お山のおうち」その後

秦野の別荘は亡くなった家内の実家へ売却しました。それから大分経って、 ホテルオークラで産婦人科の柳田先生達と会食していると自宅から電話がありました 「お山のおうちが火事で燃えている」と連絡が入ったそうです。 すぐ行っても仕方ないので、後日焼け跡を見に行きました。 行ってみると別荘は床のネタや柱基部を残し殆ど焼け落ちており、事情聴取を受けるため秦野の警察へ周りました。 火事の時刻に私が東京に居たことがわかり放免になりました。

亡くなった家内の実家への事情聴取もあったようですが、 最後に警官は「あちらとはもう縁を切られた方が良いですよ」とさかんに言っていました。 状況から想像するに、あちらでは放火犯として私を名指ししていたのではないかと思います。 火事は留守中の別荘に押し入った連中が、行きがけの駄賃で放火したのではないかということでした。