コンピュータとの出会い

このページは、私のライフワークとなるコンピュータとソフト開発の歴史。 かなり技術的・専門的な部分が多いですが私の人生にとって重要な部分を占め、 また世の中のパーソナル・コンピュータやインターネットの発達の歴史的資料でもあるので、 私の履歴書の範疇を越え書き残すことにします。

○ パーソナル・コンピュータとの出会い

1978年の秋、近所の本屋で「ASCII」という雑誌をみつけました。「スキーの本かな」と思いつつパラパラめくってみると コンピュータの雑誌のようです。コンピュータにはかなり前から興味を持っていましたが、 当時は大きなビルのワンフロアに空調をガンガンに効かせ飼っておかねばならないとんでもなく高価な代物と思っていました。 とても手の出せるものではないと思っていたのですが、どうもそれが手に届くようになったようです。 早速「ASCII」を買って帰りました。

読んでみると、その前年にパーソナル・コンピューターというものが出現、どうやら私にも買えそうです。 毎年税務署へ提出する青色申告の書類作成がとても大変で、前々から「電卓付きタイプライター」が欲しいと思っていました。 雑誌には幾つかコンピュータの広告が載っていましたが、カラフルなリンゴのマークのついた Apple はどうせ玩具だろう、 TANDY の黒くてダサい TRS にはまったく食指が動かない。 ということで Commodore 社のキャッシュレジスターのような形をした PET を買おうと決めました。これら3種類が御三家と呼ばれたパーソナル・コンピュータの走りだったのです。

その暮れ近く渋谷西武デパートへ行くと PET2001 が置いてありました。何と当時はコンピュータをデパートで売っていたのです。 キーボードに触ってみました。A というキーを叩くと A という文字、B を叩けば B がスクリーンに表示されることまでは解りました。 即決で店員に「これをください」と云うと「使い方わかりますか」と云われ「わかりません」と云いつつ兎に角購入することにしました。25万円くらいだったかと思います。 前から興味を持っていた機械だし、買ってしまえば何とかなるだろうと、、

PET2001 が届いたのは年の暮れ正月休みに入ってからでした。付属するのは雑誌程度の薄いマニュアル一冊のみ。 そこには BASIC 言語で簡単なプログラム・サンプルが載っていました。丸や四角・三角などのキャラクター文字で画面に描いたロケットが徐々に上昇して行くプログラムなど。 正月休みの間に BASIC 言語を独習しながら給与計算の簡単なプログラムを書き、少しずつ使い方を飲み込んで行きました。 当時はファイルをオーディオ用カセットにピロピロピロという音声で読み込ませるので、テープ延びや雑音などでよく読み取りエラーを起こしました。 プリンターもないのでプログラムは大学ノートに書き写し、デバッグをしていました。後から考えれば「よくやるよ」と思いますが、 何事も最初は「こんなものか」と思っているものです。

そしてこれこそが以前から欲しかった「電卓付きのタイプライター」だったのです。

○ コンピュータが人生の方向性を決定づけた

後から振り返ってみると、この PET との出会いがの私の人生の方向性を決定づけたのでした。 コンピュータ仲間との広がり、雑誌に発表したプログラムが縁で産婦人科の大御所柳田洋一郎先生からお声がかかり、 その縁で日本母性保護医協会(その後の日本産婦人科医会)の委員から幹事へ、その縁で東京都医師会理事や日本医師会のIT委員長へ、 日本で初めての電子カルテ開発から日本の医療 IT 界の人々とのつながりなどなど、、

一台のパーソナル・コンピュータ購入がこのように大きな広がりとなり、その後のライフワークを決定づけることとなりました。 人生どのようなきっかけがその後の進路を決定づけることになるかわからないものです。

○ いろいろな言語・システムを遍歴

初めてのプログラム作成は BASIC 言語で始まりました。 それが使いこなせるようになって色々なアプリケーションを作ってゆくと悩まされるのが、システムごと BASIC には強い方言があることです。 PET で作ったアプリを後年 NEC の PC9801 へ移植しようとすると、広範囲にわたり細かい修正をしなければなりません。 こんなことをするなら、サラから書き直した方がまし、と思わせるような。

そのうち、雑誌 ASCII に UCSD Pascal 言語の紹介が載っていました。それは BASIC より洗練・整理された言語で、他システムへの移植も容易そうです。 Pascal の動く機種として、以前敬遠した Apple ][ を購入したのは PET 購入から2年後でした。 ようやく Apple の良さや開発経緯がわかってきたのです。 Apple ][ にはこれまた独自の BASIC が搭載されており、駆使すればカラフルなゲームなどもできそうでしたが、 結局 Apple の BASIC を使うことはありませんでした。これは確か天才ウオズアニックの手になるものだったと思いましたが、 後から考えれば彼の作品らしいマニアックな臭いのする BASIC であったと思います。

PET の BASIC の方がずっと解りやすくシンプルで、初めて独学で BASIC を学ぶには PET 2001 を選択したのは大正解でした。 それはともかく再び独学で Pascal 言語を学びながら、PET で作ったプログラムを Pascal で書き換えてみました。 やがて国産の PC9801 でも UCSD Pascal が動くようになったので、こちらへ移植してみると感激したのは、Apple で書いたプログラムが無修正で何の問題もなく動いてくれたことです。

この UCSD Pascal は商品名を UCSD P-system と言いましたが、 その販売代理店から「大橋先生の他にもお医者さんで P-system を使う人がいますのでご紹介します」という話がありました。 新宿のその会社で初めて会ったのが小児科の高橋究先生でした。お互いに自己紹介すると偶然にも慈恵医大の後輩で、 それから長年にわたり彼とはつかず離れずの縁となるのでした。

1981年はじめ、父から継承した木造の診療所を、近隣2軒とともに等価交換方式で13階マンションに建て替える話が持ち上がりました。 1階に診療所、13階に住居が入る予定だったので、1階から13階までネットワーク用パイピングをしてもらうようお願いしました。 建設会社ではどの程度のパイプを引けばよいかわからなかったため、大手コンピュータ会社へ聴きに行ったところ 「そのようなお客さんなら是非紹介して欲しい」と云われたそうです。当時 ネットワークを引くのはメイン・フレームという巨大なコンピュータに決まっていましたから、当然の話かと思います。 ところがこちらが使っていたのはパーソナル・コンピュータで、当時まだパソコン LAN は世の中に出現していなかったのです。 しかし私は「コンピュータはネットワークで接続しなければ意味が無い。将来必ず接続することになるはず」と、 将来のことを見越しパイピングしたのでしたが、これは大正解でした。

この頃、晴海で開催されたビジネスショーで、 会期の間「音響カップラーと電話回線を使って会場にパソコンでアクセスできる」という記事を見ました (音響カップラーというのは電話の受話器をカパッとはめこみ、FAX と同様ピーヒョロロというような音でデータを伝える装置ですが、 2年かそこらでモデム出現とともにカップラーは消えてゆきました)。 早速音響カップラーを購入し電話機を接続、自宅書斎のパソコンから会場にうまく接続でき、 会場のマシーンからのメッセージを読むことができました。「自宅から晴海の会場まで電話回線を介して接続できた」という感激は大きなものでした。 それからしばらくして、この仕組を使った「パソコン通信」や「掲示板」のサービスが一般に公開され普及して行きました。

そのうち、またまた ASCII に UNIX システムと、その上で動く C 言語の紹介がありました。 東大の石田先生が監修したリッチーとカーニハン著「C 言語」という本を購入。短い例文を上げながら C 言語の解説があり とても魅力的な言語と思ったのですが、残念ながら UNIX の動くマシーンがありません。

1983年春ころ晴海で開催されたビジネスショーで、東芝 UX-300 というマシーンに目がとまりました。 何と「日本語 UNIX が動く」とあり、アイボリーで端正な筐体も私好み。価格を尋ねると手の届く範囲なので早速購入。 ビジネスマシーンだけに立派なドット・プリンター付きで、モニターはかねてから憧れていた縦型でグリーン発色のディスプレイ。 またまた UNIX システムと C 言語の独習が始まりました。この UNIX は後から考えればかなり旧式の System-III で、 スピードは遅くライン・エディターしかありません。文字通り1行の中でしか編集できない非常に能率の悪いものでしたが、 初めてのシステムでしたから「こんなものか」と思っていました。再び Pascal 言語で開発したアプリを C 言語を独習しながら移植しました。 後から考えれば「あんなトロいシステムのライン・エディターでプログラミングなど、よくやるよ」というものでした。 やがて C 言語は PC9801 をはじめ広く使われるようになり、プログラムのソース(設計図のようなもの)を他システムへコピーし 一発コンパイル(機械語へ翻訳)するだけで、何の修正もなく動くのも Pascal と同じでした。

Apple 社から革新的マシーン Macintosh が発売になりました。最初は様子見だったのですが、 その新しいユーザインタフェースをどうしても手元で使いたくなり初代 Mac を購入したのは1985年秋のことでした。

これに先立つ数年前 PARQ(と記憶しているが PARC だったかな?)というコンピュータの発表会に行く機会がありました。 名前からしてゼロックスのパロアルト研究所の人がスピン・アウトして作った会社だと思います。 モノクロではありましたが、縦長ディスプレイに美しいフォントの文字や写真などをビットマップ表示できるもので、 今から考えるとかなり画素の荒いものではありましたが、初めて見るマウスも付属していました。 有名なゼロックスのマシーン Alto と同じようなものだろうと思います。 Jobs がゼロックスを訪れた時に受けたであろう衝撃と同じものがあり、欲しいなあと強く思ったものの余りにも高価で購入には至りませんでした。 数年後に PARQ は消え去り買えなくて幸いだったのですが、、

ゼロックスのマシーンを再現する Macintosh、ユーザインタフェースは素晴らしいものでしたが、購入したものの 何年もの間日本語が走らず結局「お絵かきマシーン」で終始、最後の頃「UNIX の端末」として利用されただけでした。しかし所有による満足感は大きいものでした。

後述するように東工大の村井純先生の話に触発され、1986年秋サン・マイクロシステムズの SUN-3 ワークステーションを購入。 このマシーンを得て、本格的に UNIX パワーを満喫することなります。 こうして UNIX の素晴らしさにドップリ漬かったのですが、人間は欲深いもの。「UNIX の強力なネットワーク、シンプルな設計思想」 に「Mac の使い勝手」を合わせたマシーンが欲しいと強く思うようになりました。 そうして現れたのが NeXT でした。初代の電子カルテ WINE は文字しか扱えませんでしたが、 絵や写真なども扱いたいと考えていました「それには NeXT が最適」と、NeXT 発売と同時に購入しました。 WWW と呼ばれる初めての Web システムが開発されたのも NeXT マシーンだったことは、日陰者ではありましたが NeXT の優秀さを物語り、 やがて NeXT 社が Apple 社に吸収され、Mac を急速に成長させた MacOSX は NeXT の OS が進化したものなのです。MacOS は後年 Steve Jobs が開発した画期的な iPhone, iPad を動かす iOS へ進化します。

NeXT が Apple 社に吸収され、Steve Jobs が古巣 Apple の CEO として返り咲くという天地がひっくり返っても起こらないと思われたことが現実となりました。 当然ながら電子カルテ WINE の開発は NeXT から MacOSX へ移りました。名前は変わっても中身は長年使い慣れた NeXT そのもの。 私の電子カルテ WINE は NOA と名前を変え希望者への無償配布を続けました。

やがて 当初から考えてきた理想の電子カルテ実現には Web アプリケーションが最適と考えるようになり、 電子カルテ NOA の開発言語を PHP 言語と javascript 言語に変更し、独学で学びながら再び MacOSX の Cocoa 環境から Web アプリへと移植作業を行いました。 この開発環境が非常に快適で、これに慣れてしまうと Web アプリにする必要のない財務会計その他のアプリまで Web アプリとして作成するようになりました。

以下に、各時代のマイルストーンとなるイベントを書き留めておきます。

○ UNIX システムにハマる

東芝 UX-300 で初めて扱えるようになった UNIX という OS は私を大いに感激させました。 米国の電話会社 ATT のベル研究所で開発されたものだけあって、強力なネットワーク機能を持っているほか、 SHELL と呼ばれるシンプルなシステムを介し OS と命令のやりとりをします。 UNIX はオープンな形で誰でも改良に加われる形となったため、バークレイ大学などの学生により非常に自由な発想で進化しつつありました。 それから大分経って ATT が UNIX の商品価値に気づき、それを自社のクローズドなものにしてしまったため、 それに抵触しない形でオープン・ソースとしてさらなる進化を遂げてきたのが Linux です。

東芝から UNIX ユーザ会というものがあるのを紹介され、jus:japan unix users sosiety の年次ミーティングに参加してみました。 UNIX を開発した多くのハッカー達(この頃、ハッカーという名称はコンピュータを扱う優れた技術を持つ連中への敬称だったのです)の文化を受け継ぎ、 jus には色々な大学・メーカーの開発者達が集まり、その開放的、自由で建設的な雰囲気にハマってしまいました。 Apple の創設者スティーブ・ジョブスが若い頃ハマっていたヒッピー文化を jus も受け継いでいたのです。 コンピュータ黎明期にパーソナル・コンピュータを使ってプログラムをする連中は皆そんな感じでした。

UNIX の柔軟さとパワフルさにすっかり感激し、高橋究先生のようなハッカーこそ是非これを使うべきと、彼に UNIX を薦めました。 沖電気の IF800 へ UCSD P-system を自力で移植してしまうほどの力を持つ高橋先生は「UCSD P-system で満足しているので」と断ってきました。 しかし後日 PC9801 で UNIX を動かす基盤を貸したところ「自分もこれを買います」とすぐに返しに来ました。 こうして高橋先生を UNIX の世界に引き込んだのは大正解でした。

jus のミーティングで村井純先生から SUN ワークステーションの素晴らしさを度々聴かされ、SUN の販売代理店だった伊藤忠に当たってみました。 結構な値段でしたが「ベンツを買うと思えばいいか」と一度に2台の SUN-3 を購入。1F から 13F までイーサ・ケーブルを引き、2台のマシーンを繋ぎました。 建築時に用意してあったパイピングがここで生きた訳です。1F のマシーンを sunset、13F を sunrise と名付け、 本格的な UNIX の運用と C 言語によるアプリの利用が始まったのです。 やがて高橋先生も勤務先の病院で SUN を使うことになります。当時 UNIX を使うには SUN ワークステーションはとても快適な環境だったのです。

だいぶ経ってからのことですが、伊藤忠に「個人で SUN ワークステーションを購入したのは、全国でも大橋先生くらいのものですよ」と云われました。

この頃「インフォメーション」というコンピュータ月刊誌から、コンピュータに関するエッセイの連載依頼がありました。 「わーくすてーしょんのあるくらし」というそのエッセイは、雑誌が廃刊になってからも私の Web 上で連載を継続しています。この雑誌は全国誌ですので、学会で北海道など地方に行って本屋に並ぶ「インフォメーション」のページをめくると、私のエッセイが載っているのは何か不思議な感じがしたものです。

UNIX にはモデムを起動し遠隔地の UNIX マシーン同士を電話回線を介し接続する機能があります。 高橋先生が書いたソフトでモデム起動に何度かトライし、ついにモデムがピロピロと動く音を聴いた時の感激は忘れられません。 こうして遠方のマシーンにログインすることができるようになりました。 ある日、自宅で SUN に向かっていると、画面に「大橋先生、そこに居られたんですか」という文字が現れました。 彼は自分の家から1Fの診察室のマシーンにログインし、LAN 接続されているマシーンのうち 13F 自宅のマシーンに私が居るのを見つけ、 チャットを掛けてきたのです。これも忘れられない一瞬でした。コンピュータを公衆回線上のネットワークで繋ぐような人間は極めて少数、現在のようなセキュリティの概念など不要だったのです。

○ juice の活動

1984年(高橋先生のアマチュア無線の仲間だったかな?)三田さんという方から UNIX を繋いだネットワークを作ろうと云う話が持ち上がりました。 すでに jus では東工大に居られた村井純先生の主導で JUNET というネットワークが動いていました。 これは色々な大学やコンピュータ会社の研究所などを UNIX で接続したネットワークで、インターネット実用化のための黎明期の活動をしていたのです。 われわれもこれに接続し海外へ繋ぎかったのですが、JUNET の運営上の理由から個人が繋がせてもらうことはできません。 そこで JUNET と同じようなものを個人グループで作ろうという提案で、最初のミーティングは青山の北欧料理レストランで行われました。 次から例会は ASCII 社屋の一部を借りて行われるようになり、私の提案でグループには juice: japan unix inter communicate sosiety という名前がつけられました。 juice には ASCII 社員もいたのです。

juice 設立の翌年、慈恵医大でコンピュータに堪能な医局員や OB が世話人となり、学内のコンピュータ・リテラシーを上げようという活動が始まりました。 講演会のキーノートに誰かを呼ぼうという話になり、当時 ASCII と米国マイクロソフトの副社長を兼任していた西和彦氏を私から提案しました。 西氏はこの業界の有名人だったので、本当に来てもらえるか心配ではありました。 ところが意外にあっさり了承が得られました。講演会終了後、西氏に感謝の意を表し、われわれ世話人で大学近くの東急インのレストランの食事にご招待しました。 それからしばらくして思いがけず今度は西氏からご招待のお誘いがありました。 赤坂の立派な料亭で恐縮したものです。楽しく懇談したなかで、西副社長から「医療用ワークステーションの開発」が提案されました。 結局それは実現に至りませんでしたが、提案されたマシーンのスペックは目を見張るもので、 西氏は Steve Jobs のように常識を超えた大きな考えを持った方でした。 マイクロソフト社の件も、いきなりビル・ゲーツに直接電話して自分を売り込んだというエピソードがあります。

私が SUN ワークステーションを2台入れ、診療所と自宅をイーサーネットで接続し運用している話をすると、 西さんから「是非見たい」という要望があり、数日後に実現しました。西さんは私の自宅書斎で高橋先生らを交えしばらく歓談して帰られました。 帰りに「今夜は寝られなくなっちゃうなー」という言葉を残して(何に感激して頂いたんでしょうか)、、

SUN を導入するという話を聴いた juice 仲間の龍君が「先生、SUN の OS インストール大変ですよ。やってあげましょうか」ということで、お願いしました。私の書斎にやってくると、観ている間に OS をインストールしてくれました。「これ、客先でやる時は余り短時間だと格好つかないんで、途中で喫茶店へ行ってお茶のんだりしてくるんですよ」。彼は高校の頃、朝早く校舎と校舎の間の狭い空間に手足を突っ張って2階のコンピュータ・ルームへ忍び込んでこっそりそれを使い、先生が出勤する頃、何食わぬ顔をして外へ出ていたとか。凄いハッカーでしたが、この後ソフトウエア会社を立ち上げその社長になりました。

さて、当時の juice 会員のマシーンでは色々な種類の UNIX が動いていました。UNIX の UUCP というシステムで モデムと電話回線を介しバケツリレー式に e-mail などやりとりするシステムには sendmail というソフトウエアが必要でしたが、これは UNIX の正式ライセンスを必要とするものでした。そこで高橋先生がこれと同じ動きをするソフトウエアを c 言語で書き postman と名付けました。高橋先生はそのソフトを juice の仲間達の家へ行きインストールしてりました。プロのソフト屋さんも少なくなかった juice 仲間に医師の高橋先生がソフトを作成しインストールして周るというのも痛快な話でした。これにより、 世に先駆け個人グループの中で電子メールのやりとりができるようになりました。 やがて高橋先生が JUNET の村井純先生に juice を JUNET に繋がせて欲しいというと、村井先生からあっさり「いいよ」の了承を得て juice は JUNET に接続できることになりました。そのネットワークを介し海外からメールが届いた時の感激は忘れられません。 発達期にあったコンピュータは、こうして忘れられない感激をわれわれに何度も与えてくれたのでした。

当時世の中では、音響カップラーやモデムと電話回線を介してパソコンをセンターへ接続する「パソコン通信」が始まった頃でしたが、 私は UUCP によるネットワークが通じるようになり電子メールへ移行したため、パソコン通信を使ったのはほんの2,3ヶ月だけでした。 世の中に電子メールが普及するようになるのは、それから何年も経ってからのことでした。

毎月 ASCII の一部屋を借りて行われた例会では、ひとりずつ現況報告を兼ねた話題提供を行い、それについて意見交換などをするスタイルで、 例会の後は近くの中華料理店で丸テーブルを囲み楽しいディスカッションが続くのが常でした。不思議なことにハッカー達がミーティング後、食事に行くのは米国でも中華料理と決まっているのでした。例会のほか、 会員のマシーン間を UUCP で接続しネットワークを運用するのが主な活動でした。

この経験から「会議には、その後の会食を組み合わせるのが効果的」という教訓を得ました。かしこまった会議だけでは建前だけで本音が出ませんし、最初から会食では話が発散してしまいます。「本音」と「建前」の両方で意思疎通をはかり、発想力を発揮させるにはこれが効果的なのです。会食により、相互を知り親密さを増すという効果にも大きいものがあります。これは後年の NeXT ユーザ会や Seagaia meeting などにも取り入れました。

juice の活動は6,7年ほど続きましたが、会員を増やそうと努力した結果 アクティブに活動するのではなく「会費を払った代償として何をやってくれるのか」など対価を求める会員が増え グチャグチャになり、終いには会の解散へ向け泥をかぶる会長を引受ける結果となりましたが、この経験は後述の NeXus で生かされます。

○ NeXT にハマる

NeXT 社は Apple の創業者 Steve Jobs が Apple 社から追い出され、新たに創設した会社です。 Emacs で動いていた電子カルテ WINE も4年を経て、絵や写真も扱えるようにしたいと考えていました。 ようやくコンピュータの性能も向上し NeXT なら画像の取り扱いはもちろん UNIX の通信機能やパワーを持ち かつ Mac の使いやすさを兼ね備え、後述する電子カルテ WINE のターゲット・マシーンとしては最適と考えました。 1988年 NeXT 日本発売に先駆け NeXTの発表会がありました。 極東の総代理店となった キヤノンの開催で、NeXTを開発したステイーブ・ジョブス自身がプレゼン テーション。 会場は東京デイズニーランド隣の「東京ベイNKホール」 で、遅刻すると会場に入れないと招待状に書いてあります。 いかにもジョブスが言 いそうなことだなと思いながら、遅刻しないよう家を出ました。 期待どおり、プレゼンテーションはジョブスらしい大変良い出来で、最後は NeXTで数曲の音楽を奏でた後、 一流バイオリニストによる生のバイオリン 演奏で終わるというものでした。 「NeXT なら間違いない」と、その帰り新橋のキャノン・ゼロワンショップに寄り NeXT を速攻で発注しました。 恐らく日本でほぼ最初のユーザだったでしょう。

NeXT は私が渇望していた UNIX の上で動く Mac そのものでした。 Jobs が創った理想のマシーンは私にとっても理想のマシーンでした。 NeXT にバンドルされたソフトウエアには当時垂涎の的だった高価なものが多く「ソフトウエアの代金だけ考えても、 NeXT は決して高くない」と思ったものです。 電子カルテ WINE は NeXT の素晴らしいシステムの中でぐんぐん成長を遂げてゆくことになります。

私が NeXT に大きな期待を抱いたものには、UNIX のパワーや Mac の GUI もありましたが、 オブジェクト指向による開発環境がありました。早速 WINE を移植しようとしたものの、プログラミングの仕方がわかりません。 まだ Web もない時代、NeXT に関する技術情報は皆無に等しかったのです(奇しくも、その後 世界中で使われることになる World Wide Web が NeXT マシーンで開発されたことは殆ど知られていません。ロンドン・オリンピックの開会式、メイン・スタジアムの真ん中に 懐かしい NeXT cube と Web 開発者ティム・バーナーズ・リーの姿がありました。世界中の大勢が見ていたはずですが、これを理解した人は少なかったはず)。 バーナーズ・リーも Web 実現に当たり NeXT が最適のマシーンと感じたからだそうです。 当時の他マシーンを圧倒するネットワーク・画像処理・オブジェクト指向開発環境などがその理由と思います。

それまで色々な開発言語を独学で制覇してきましたが、NeXT の開発環境 Object-C や InterfaceBuilder などの習得は最も垣根の高いものでした。 考えてみれば理由は単純で「NeXT の技術情報が皆無に近かった」ことにつきます。 後述のユーザ会発足により、それらの情報を得ることができるようになり、ようやく WINE を NeXT に移植できるようになりました。

NeXT には筐体デザイン・ソフトウエア・性能を含め、当時考えられる限りの理想がつめ込まれていたため余りにも高価なものとなり、 世の中には普及せずビジネスとしては失敗に終わりました。 後から考えれば、考えうる最高の性能や外装・内装にこだわった ブガッティ、パガーニ、アストン・マーチンなどスーパーカーのようなもの。 NeXT は、マニアは惹きつけてもお金持ちを惹きつける力がなかったということでしょう。

このため NeXT には期待していたようなサードパーティによるソフトウエア開発が殆ど進みませんでした。 そこで「無いものは作ってしまえ」の精神で、欲しいものは自分で作ってしまう良き習慣がついたのは私にとって NeXT 時代の大きな成果でした。

○ 日本 NeXT ユーザ会:NeXus の活動

NeXT の販売代理店をしていたキャノン販売から、NeXT ユーザ会を発足させるので発起人になってくれないかとの依頼がありました。 NeXT は発売されたものの技術情報などがまったくないという状況、これを解消するにも好都合ということで2つ返事で引き受けました。 ところがその後なかなか発足の連絡が来ません。

これにしびれを切らせ、自分達で立ち上げようではないかという e-mail が発起人の一人、ソフト開発で有名な SRA 社の塩谷さんから入りました。 まだ世の中は e-mail の使える状況になっていませんでしたが、発起人は皆 JUNET 接続ユーザで、またたく間に話がまとまりました。 渋谷大盛堂のコンピュータ書籍売場で待ち合わせていると、初対面の塩谷さんが NeXT ロゴの入った紙袋を提げて現れました。 その他にも富士通研究所、日産研究所、電総研などのエキスパートが集まり、私の自宅書斎で最初のミーティングが開かれました。 5人ほどのメンバーが世話人となって NeXT ユーザ会を立ち上げることになりました。 会のネーミングは、私の提案で NeXus:NeXT users society となりました。 午後3時から始まった打ち合わせ会は午後11時頃まで盛り上がり、 メーカー主導ではなくユーザ主導の運営で、 ユーザが楽しみに出席してくれるような有意義な会にしていこうという結論でした。

juice の失敗を教訓に NeXus の入会申込書には「あなたはこの会に入って何をやりたいですか、何ができますか」というような文言を入れました。 この「お客さんではなく、積極的な姿勢で参加」というポリシーを貫いたことは大正解で、その後の NeXus の活動は非常に活発、建設的で楽しく実のあるものとなりました。

やがて三田のキャノン販売の一室をお借りして、設立準備会という名目で最初のミーティングが開かれました。 人数は40名ほどでしたが、九州や神戸から来られた方もありました。 ネットワークによる情報交換や Q&A、フリーソフトの配布やデモ、毎月第4水曜の月例会、年4回のニューズレターの発行などが話し合われました。 この会については米国のユーザ会のニューズレターにも早速紹介され、 これを見たNeXT本社から逆にキヤノンへ問い合わせのメイルがあった由。 ネットワークの威力を感じさせられました。 マルチメデイアのNeXTであるからには、ニューズレターは全て磁気媒体で配布可能にする予定、 MOデイスクでもらってきてNeXTにさせば、文 字、グラフィック、音声、フリーソフトウエアなどの全てが展開させるような形にしようという、 当時まことに先進的なものでした。

月例会はキャノン販売、SRA の会議室、千代田万世会館、御茶ノ水の日大の教室など時代により色々な所で行われました。 話題は NeXT に関する新しい情報などが主でしたが、NeXT 社がハードウエアを捨て Windows 互換機で動くようになった頃には、 有志が秋葉原でパーツを買い集め、例会で「白 NeXT 組み立て大会」をやった事もありました。 NeXT 製の黒い筐体に対し PC 互換機を白 NeXT と呼びました。 会員が作成したアプリや NeXT のフリーウエアなどを CD-ROM に焼いて配布することもありました。

NeXus には色々なサブ・グループが作られました。 NeXus-EIDT:ニューズレターや会報の編集グループ、NeXus-NET:juice と同様の UUCP によるネットワーク NeXusNet を運用、 NeXus-DESIGN:NeXus ロゴ入りのマグカップやジャンパー・Tシャツなどを作成、 NeXus-DB:データベースに関する SIG、NeXus-IB:NestSTEP の開発環境 InterfaceBuilder の SIG、 NeXus-RESCUE:会員が困った時に救援するグループで新入会員のネットワークの設定がうまくいかない時などに出動しました。

「こんなことやりたいなあ」とか「こんなの欲しいなあ」というと「じゃあやってね」ということで その人がチーフになってサブ・グループが作られます。これを「言い出しっぺの法則」と云います。さらに積極的に、 自分がやりたいことや解らないことを解決したい時「こんなことやりたいので、やりたい人集まれ」ということで小グループを作り、 特定のテーマに関しグループで作業するのが NeXus の特徴のひとつとなりました。これを「この指とまれ方式」と呼びます。 このように NeXus は遊び心・相互扶助・やる気あふれるグループとなりました。

私も、マシーンにコピーしてボタンを押すと、裏で SHELL が動いて自動的に UUCP の設定をやってくれる「おめでとうセット」という簡単なアプリを作り 新入会員へメール添付で配布しましたが、裏で動くスクリプトを仲間のハッカー達が改良してくれたりしました。

1993年サンフランシスコで NeXTWORLD Expo が開催されるということで「行きたいなあ」、誰かが冗談で「ツアー組んで行こうか」。 NeXus でこういう発言は非常に危険(?)です。「わかった。じゃあツアー組もう」ということになって、希望者20名くらいだったでしょうか、 本当にツアーを組んで西海岸へ行くことになりました。「NeXus ロゴの入ったジャンパー着て行きたいね」「じゃあ作ろう」ということで、 ロゴ入り蛍光グリーンの派手なジャンパーが出来上がりました。 この通称「ケロヨン・ジャンパー」は非常に浮いた色で、サンフランシスコの街中で迷子を防ぐのに有効でした。 会場のモスコーンセンターで、受付の金髪のお姉さん達から「Oh NeXus Team !!」と声を掛けられたりしました。

Expo ツアーは2年連続で行われ、1年目には別荘地のような気持ちの良い地域にある総ガラス張り2階建てだったでしょうか NeXT 本社を訪問しました。Jobs には会えませんでしたが、本社前の玉砂利を眺めながら「この砂利を Jobs が踏んだんだよなあ」 と感慨深げのメンバーも居ました。

2年目のツアーは偶然天皇陛下が訪米された時で、泊まられる同じ日に同じホテルの上の階でした。 事前に宮内庁からツアーの世話人へ「階を変更して欲しい」と打診があったそうですが「変更したくない」と返答したため、 恐れ多くも我々は当日天皇陛下の上の階に泊まることになりました。天皇が泊まられても、 ホテル玄関の上にさして大きくない星条旗と日章旗がぶっ違いで掲げられていたことと、見下ろすとホテル前にパトカーが1台停まっている位で、外国の貴賓が泊まっているような気配は感じられませんでした。

またこの時は、日本 NeXT ユーザ会の代表として Expo 会場で私が Jobs と握手し、NeXus ロゴ入り T シャツを贈呈しました(Jobs のことですから、すぐ捨ててしまったに違いありません。ペラペラの安っぽい T シャツでしたから)。 この頃 NeXT 社はハードウエアの提供から撤退し、PC 互換機で動く OPENSTEP という OS を提供するようになっていましたが、 操業停止した NeXT 工場を外から見学させてもらいました。大きなスーパーに隣接した建物でした。 かつてこの工場では最新施設で NeXT cube が自動生産されていました。

このように NeXus は非常に建設的でノリのある楽しいユーザ会でしたが、 やがて NeXT 社が Apple 社へ吸収され NeXT の OS が MacOSX へ換わるとともに、自然消滅のように活動を終了しました。 私の人生において、NeXus の活動は大学時代の馬術部生活に次ぐ、2番目に楽しい時間でもありました。

○ 電子カルテの開発

独学でプログラミングを身に着けながら、仕事に必要な作業を少しずつコンピュータ化して行きました。 1985年頃、診療に使う作業の多くを既にコンピュータ化していたのですが、ふと気がつくと肝心のカルテだけが手書きでした。 そこでカルテを電子化しようと思い立ったのですが、まだ世の中には電子カルテという名称も概念もなく、 一番大変だったのは「電子化した診療録というものをどのような形で実現すればよいか」ということでした。

つまり「無から有を生ずる」作業、これに最も長い月日をかけ苦しみました。医療は非常に複雑なので、多岐にわたる情報をなるべく一画面で取り扱わねばなりません。 最初は宇宙船のコックピットのように計器が沢山ちりばめられた画面をイメージしましたが、当時のコンピュータで表示できるのは基本的に40文字25行程度の文字だけです。 すでにコンピュータ・ゲームは存在していましたが、そのような複雑なものを実現できたとしても、その改良など維持管理の手間は到底現実的ではないはず。

4年ほど悩み格闘した結果疲れ果てしばらく放おっておいたのですが、 ふと「そうかカルテには基本的に文字を書くんだから、ワープロで診療録が書ければいいんだ」と原点回帰。 当時使っていた UNIX 上で走る Emacs というテキスト・エディターが Lisp 言語でコントロールできることを知り、 Emacs の中に Lisp で電子カルテを実現することにしました。Lisp 言語の独習を兼ねながら電子カルテ開発を進めたのですが、 1989年5月連休に基本部分ができあがり、連休明けとともに外来で実際に使い始めました。これが(おそらく日本で最初の)電子カルテの動き始めた時だったのです。

当初、志を同じくする仲間と neuron systems という株式会社を立て 共同プロジェクトで電子カルテ開発をすることになりました。 私の提案でつけた電子カルテの名前が WINE: WISE and NEAT すなわち「お利口で手際の良い医療秘書を実現しよう」という意味でした。 それから数年後 neuron systems は資本金をくいつぶしただけで解散、プロジェクトは私のプロジェクトと小児科の高橋先生のプロジェクトの2つに分かれました。 やがて高橋先生が彼の電子カルテを WINE Style というネーミングで発売しました。ネーミングを聴いたのは発売後でしたが、 WINE の名称は彼に譲り私の電子カルテは NOA に改名しました。 Network Online Assistant 「ネットワーク越しにサポートしてくれる医療秘書」の意味(一時、協同開発を試みたことのあるドクター、中山・大橋・阿部の頭文字でもありましたが、 私は東京、あとの2人は鳥取と余りにも離れていたため、この共同作業も実現しませんでした)。

やがて 当初から考えてきた理想の電子カルテの要件「OS やハードに依存せず」「サーバ・クライアント方式で」 「ユーザごとに異なるユーザ・インタフェースを可能とする」 などの実現には Web アプリケーションが最適と考えるようになりましたが、 当初はまだ Web システムが非力で、思うようなユーザ・インタフェースが実現できませんでした。 NeXT 社が開発した WebObjects というシステムが Apple 社に移って以前ほど高価ではなくなってきたこともあり WebObjects を使ってみると、 かなりいけそうな感触はありました。そうこうするうち PHP と javascript の組み合わせで、 思い描いてきた理想の電子カルテ実現の目処が立ったので、電子カルテ NOA を MacOSX から Web アプリへ移植する作業を始めました。 これには結構日時を費やすことになりますが、それとともに Web アプリ開発環境も進歩して行き、やがてデスクトップ・アプリを凌ぐまでになりました。 Web アプリとしての電子カルテ NOA がほぼ完成するとともに、2008年に思い切ってオープン・ソースという形で設計図をすべて公開しつつ、 電子カルテ NOA を無償配布するようになりました。

比較的大手の会社との共同プロジェクトで 電子カルテの商品化を行ったことが何度かありましたがいずれも中断に至り 「商品化など考えず、オープン・ソースとして誰でも無償で使ってもらえるよう、少しでも日本の医療に貢献したい」 という考えになりました。

その後、世の中の多くのアプリケーションが Web アプリへと移行し、電子カルテにもその傾向が現れてくるのを見ると、 やはり自分の考えてきたことは間違っていなかったなと、、 そして還暦・古希を超えて電子カルテ開発は続きます。