「私のアトピー治療記」
47歳2016年5月29日
47歳2016年5月29日
小学校入学前より喘息とアトピー性皮膚炎発症。喘息は小学校3年生以前にいったんおさまるが、大学半ばから復活。アトピー性皮膚炎は大学まで、ステロイド常用。大学4年生頃から皮膚が再生しないという極端な症状となり、ステロイドの使用を控えるが、症状が出るのと一時的におさまるのとで一進一退を繰り返す。松本漢方クリニックでの治療は2002年11月から。現在、ひどい皮膚炎は治まるが、局所的に肌が乾燥し、はがれやすくなる症状が稀に出る。喘息は時折出る。
喘息を自覚したのは、小学校に上がる前の盆か正月だったように思う。父親は長男で祖母と同居していたので、盆と正月には親戚一同が集まるのだが、そのにぎやかな場面を横目に見ながら、布団で寝ていた自分を覚えている。息もしんどかったように思う。同じ時期に、お尻に注射を打った記憶があるので、その注射が当時の喘息の治療だったのだろう。アトピーの最初の記憶は、頭の皮膚に薬がしみる痛みだ。スプレー式のステロイド剤を頭にふられて大層痛かった。私の父親が製薬会社に勤めていたため、ステロイド軟膏の小さなチューブを、湿疹(当時はそう呼んでいた)がひどくなったら付けていた記憶がある。年を追うごとに、ステロイドのチューブはだんだんキツイものに変わっていったようだが、親としては一生懸命だったのだろう。
喘息は小学校低学年でいったん出なくなったが、アトピーの方はずっと、主に肘と膝の裏に出てきた。中学か高校ぐらいから、肘や膝以外の皮膚に、ごく局所的に出るようになり、治りも遅くなったが、生活に支障が出るほどではなく、ステロイド軟膏で治っていた。
状況が変わったのは大学3年生の正月ぐらいからの事だ。当時、僕はアルバイトでホテルのフロントの宿直勤務をしていた。ある日、肘や膝以外の皮膚が荒れているのを僕は見つけたが、あまり気にも留めなかった。しかし、その傷は一向に治らず、徐々に範囲を広げていった。皮膚炎はドンドンとその範囲を広げ、皮膚が再生能力を失ったかのように、傷は全く治らなかった。幸いなことに、顔には全く傷は無かったのだが、耳たぶだけが荒れていた。傷が治らないため、常に血か体液か膿が皮膚からジュクジュクと染み出す始末で、スーツやホテルマンの服装をする際には、カット綿を傷口に当てて包帯で巻く以外に方法は無かった。両手両足と背中に傷は広がり、僕は毎日、傷口にカット綿を当て、包帯を巻いた。ステロイド軟膏はなんの効き目も無かった。
就職活動が始まった。僕は包帯の上にスーツを着て臨んだが、皮膚が再生しない状況は僕の気持を相当に後ろ向きにした。挑戦する企業にしても、志望をかなり落としたところにした。ボロボロの体を見せて就職できるかどうかが怖かったからだ。アトピー性皮膚炎の、このひどい状況は、僕の人生の最も大事な局面において、かなりマイナスな影響を与えた。その当時の僕は、皮膚が再生しない状況なんて就職には関係ないと言いきれるほど強くなかったし、実際、毎日血だらけ膿だらけのカット綿を交換し、包帯を巻き直すのに、皮膚が全く再生しない状況は、若々しい僕の精神を苛むのに十分であった。加えて、再生しない皮膚は猛烈なかゆみを生じた。朝目を覚ますと、指も爪も血だらけ。布団のシーツも血だらけ膿だらけ。体は活力が漲っているのに、体を覆う皮膚はボロボロ。自分ではどうにもならない状況に、僕はかなり苦しんだ。
皮膚炎は、アルバイトをやめ、就職活動が一段落したころに収束し、僕は何とか大学を卒業し、就職することができた。僕の両親は僕のアトピーにかなり苦しんでいたらしく、小さなころから色んな治療法を試してくれた。実際、いちいち覚えてはいないが、ヨガをやってみたり、漢方の錠剤を飲んでみたり、いろいろな治療法を試してくれたが、実際のところ効果は無かった。先に書いた皮膚が再生しない事件に会うまでは、僕もあまり気にはしなかった。皮膚が再生しない事態は、就職してからしばらくはなりを潜めた。その代わり、僕の指にはいつも小さな水ぶくれができるようになった。システム・エンジニアをしていた僕にとって、指にできた水ぶくれは相当にうっとうしいもので、十本の指のうち八本に包帯を巻くようなありさまだった。でも、全身に包帯を巻くよりもましだと思っていた。就職してから、栄養補給食品を取るようになって、その水ぶくれも収まっていた。
しかし、再生しない皮膚炎の恐怖は、再び僕を襲う事になった。結婚してから2年ほどしたころに、再び腿と腕の皮膚炎が生じ、かゆみがひどくなった。一旦できた傷は治ることなく広がり、再び僕はカット綿と包帯を両手両足に巻くことになった。シーツも血だらけになり、妻も驚いていた。症状は数カ月続き、そして何時の間にか治っていった。しかしそれ以降、数年に一度は皮膚が再生しない症状に悩まされることになった。一方、一時期はなりを潜めていた喘息だが、こちらも大学のころに再発した。長距離を走ったり、お酒を飲んだりすると息がしんどくなるのは自覚していたが、風邪をひいたときに喘息を併発して、死にかけになりながら大学の健康管理センターで見てもらったところ、喘息が復活していることが確認された。喘息は以降、お酒を飲んだり、掃除などで埃っぽい状況に曝されたりしたときに、遠慮なく出てくるようになった。
この状況を変えたのが息子の誕生だった。2002年9月に生まれた息子は、誕生後1カ月を経たころに、ひどい皮膚炎に悩まされるようになった。幸い、妻の実家の近所に松本漢方クリニックでアトピーを治した子がいて、松本漢方クリニックを紹介してくれた。最初に息子が、次に折から皮膚が再生しない皮膚炎を再発していた僕が松本漢方クリニックの門をくぐった。
息子のアトピー治療を兼ねて、僕も薬草風呂に入った。せんじ薬も一緒に飲み、ネオヨジンの消毒も一緒にした。その後、息子が小さい間に二度ほど皮膚が再生しない症状にあったが、いずれも息子の治療を兼ねて薬草風呂に入っているうちに改善した。今の仕事は海外に頻繁に出る機会があり、時によっては日本で過ごす時間よりも海外で過ごす時間がずっと多い時もある。松本先生はしばしば、日本は化学物質の汚染がひどいとおっしゃるが、実際、僕はそれを体感している。今も、局所的に頭皮がフケのようにはがれる症状が出たり、喘息が出たりする。これらの症状は決まって、外国から日本に帰ってきた時に生じる。面白いぐらいに、帰国したら何かしらの症状が生じる。外見は、日本はとても美しいのだが、目に見えない化学物質の汚染というのは相当に浸透している様子である。同様の傾向は、息子にも見られたので、僕だけの特異なものではないと思う。
最近は皮膚が再生しないことも無くなり、スーツを着るためにカット綿と包帯を巻くことは無くなった。しかし、完治はまだまだだと思う。ステロイド軟膏を足掛け20年以上使ってきたので、仕方のないことだとは思うが、松本漢方クリニックに出会っていなかったら思うと、寒気がする次第である。
添付写真:皮膚の炎症。松本漢方クリニックで治療を始めてからの症状なので、比較的軽い。本当にひどい時の写真は無い(松本漢方クリニックで治療を開始する前なので)。