「真実のアトピー治療に出会って」
F 兄弟・兄 27 歳
1998 年 記載
F 兄弟・兄 27 歳
1998 年 記載
本当に幸せなこと
数ある手記の中から私の手記をご覧下さりどうも有り難うございます。
まず最初に一言あなたに言わせて下さい。
「おめでとうございます。あなたはなんて幸せなのでしょう。」
いきなり何を言い出すのかとお思いになられましたか?でも別に私はあなたに対して嫌みを言っているわけではありませんし、私自身、頭がおかしくなったわけでもありません。この手記を読んだ後には、きっとその本当の意味が分かっていただけると信じています。
いきなり何を言い出すのかとお思いになられましたか?でも別に私はあなたに対して嫌みを言っているわけではありませんし、私自身、頭がおかしくなったわけでもありません。
この手記を読んだ後には、きっとその本当の意味が分かっていただけると信じています。
ところであなたにとってここがアレルギー治療の最初の医院ですか。もしくは長い間色々な病院をたらい回しにされた挙げ句の果てに、ここに来られたのですか。いずれにしてもこの場所にあなたがいてそのいすに座っている・・・それは少なくとも「どうにかしたい。」と思ったからいるわけですね。でも安心して下さい。もう失望して、次の場所に行くなんてことはないのですから。とにかくアレルギーに関して、あなたにとっての最後の先生がそのドアの向こうに座っておられるチョビヒゲ大隊長なのです。
あなたは間もなく二つの「大間違い」を知り始めることになるでしょう。しかも理屈ではなく「体」でです。一つは今存在するアレルギー治療がどんなに矛盾だらけで、我々がいかに利用されているか。彼らの私腹を肥やすためだけに我々がこの苦しみを与えられてるのかということ。そして二つ目はアレルギーは本来、薬が治すのではなく「体」が治すものだったということです。
長年この間違った道を信じて疑わず、歩み続けてきた私と同じような人はここでよく考えてみて下さい。この世の中一瞬で良くなったり、変化する物ってあるでしょうか。学問だってビジネスだって急に成し遂げられたりはしないでしょう。「ローマは一日にしてならず」なのです。それがアレルギーだけはステロイドという魔法の薬があるので例外だなんておかしいと思いませんか。もしそういった大自然の法則を覆すようなまやかしがあろうならば、必ずそのひずみが表れるのです。我々はそういったことを疑うことを知らず、上手くだまされていたのです。
脅すわけではありませんが、一度間違った道を歩み続けてきた人にとって、乗り越えなければならない道のりは決して楽なものではありませんよ。時には泣きたくなることもあるでしょう。私の道のりも並大抵の険しさではありませんでした。その道のりがどれだけの険しさを極めるかは、私を含む、数多くの方々の手記を見れば分かると思います。この手記の最後に私の簡単なアレルギーとの戦いの歴史を書きますが、私も彼らとさほど変わらないとお思いになられると思います。
ではこれからのあなたはそんなにも辛く、悲しいのでしょうか。いいえ違うのです。むしろ冒頭にも言ってますように、最高に「幸せ」なのです。なぜならあなたは「大間違い」を知りそれを自ら克服するという、他では味わえない体験をするのです。果てしない矛盾から逃れる術を身につけることができるのです。苦しみを諦めずに乗り越えた、その道のりの向こうには素晴らしい未来が待っているのです。
さあその暗い顔を、醜くされたその体を鏡に映してそして言ってみて下さい。「幸せになろう。頑張ろう。」と。あなた自身の肌でそよ風を感じられる日、その時は必ずやってくるのです。
私のアレルギー史
初めに書き記しておきたいことは、私は物心ついたときからもうすでにアレルギー体質だったので、アレルギーの全くない状態がどういうものなのかは、はっきり言って知らないということです。しかも前述にありますように「間違った道」を歩み続けてきたので、歳を数えるにつれ症状は悪化の一途をたどってきました。したがって私の 27 年間の人生はアレルギーと共に生きてきた人生と言えるのです。
私の記憶に残るアレルギーの体験で、最も古いと思われるものは喘息でした。小さい頃から、しょっちゅう幼稚園や小学校を休んでいたように記憶しています。現在私を一番苦しめていますアトピー性皮膚炎は当時それ程症状としては現れてませんでした。しかし母がしょっちゅう私の背中や膝、肘の裏側などに医者から処方されたリンデロンという、今考えれば恐ろしくなるような非常にきついステロイド軟膏を塗ってくれていた記憶もあります。親の愛情が、実は逆にどんどん症状を悪化させる源になっていたとは夢にも思いませんでしたし、こんなに皮肉なことがあるのかと思うと、本当に何とも言えぬ怒りがこみ上げてきます。
そして月日が流れました。小学校の低学年の頃は脱感作という、アレルゲンをある濃度に薄めて注射で体内に投与し徐々に濃くして抵抗力を高めていくという治療のため、毎週金曜日になると注射をしに行っていました。その他にインタールという喘息に効くという吸入剤も使っていました。あの頃から、もう既に薬漬けになってたんですね。そんな中、何となくですが、その頃からもう既に私の感覚の中では「アレルギーは治らないものだ。」という意識を持ってたように思います。
何度も死ぬ思いをしたことがあります。一度、夜中に発作で息ができずに病院に担ぎ込まれたこともありましたっけ。親にも親戚にも多大な心配をかけただろうなとつくづく感じます。
そして今から思うと、ある大きな転機が小学校 3 年の頃に訪れます。家族で 2 年足らずのアメリカでの生活です。アレルギーに関してその頃になると喘息とアトピーの繰り返し(でもまだまだ症状は軽いものでしたが)だったのですが、アメリカの生活の中でアトピーが見事になくなったのです。その時点でスカッと全て治っていてくれていれば良かったのですが、まだ喘息は治まらず、あの綺麗なナイアガラの滝の前で、またまた死ぬ思いをしたのは今でも忘れません。ところであの頃喘息になると必ず行っていた病院があるのですが、もちろん医者も薬も全てアメリカですが、そこに行って注射をするとぴたりと発作が止まるのです。「アメリカはなんて医学が発達しているのだろう。」わずか 10 歳でそこまでは考えなかったとは思いますが、少なくともそれに近いものは感じていました。実は強力なステロイドを投与され、間違いなくその後の症状を更に谷底深く落とす発端になっていたとも知らずに。
そして帰国してからというものは、正に本格的なアレルギー人間の始まりでした。アトピーもじわじわ出始めました。服用する飲み薬も増え続け、更にステロイド吸入剤も喘息発作の度に使用し、アトピーに対して処方される全ての軟膏には必ずステロイドが入っていましたし、それを何の罪の意識もなく毎日毎日塗り続けました。
そんな私もやがて中学生、高校生になるにしたがっていったん症状は落ち着きを見せ始めました。医者がよく言う「思春期になれば治る。」という堕説をその頃は真剣に納得していたものです。喘息もほとんどでなくなり、お洒落に目覚め、着飾って自分を格好良く見せることに快感を覚えるようになりました。高校 3 年生の時くらいは確か、塗り薬もあまり塗らなくても良い程アトピーも落ち着いていたように記憶しています。
今だから打ち明けますが、その頃から喫煙を始めました。やんちゃしたくなる時期ってあるでしょう。「夜中まで遊びほうけて朝そのまま学校へ・・・」なんていう生活も楽しかったこともありました。
そして二つ目の大きな転機は、私が大学入試のために一年間浪人をしたときからです。入試というストレスもあったせいか、徐々に薬を飲んでも効かなくなるという状況がおとずれ、そしてすがる思いで通いだした地元の皮膚科で私はひどい仕打ちを受け、結果的にとどめを刺された形になったのです。
まずステロイド注射、飲み薬は後で調べたらかなり強めのステロイド、塗り薬もステロイド、とにかくステロイド 3 点セットの治療を 3 年程受けたのです。しかも後で調べるまでその事実を知らされませんでした。もちろんステロイドは恐ろしいという噂はすでにもう知っていましたし、「ひょっとすると・・・」と内心疑っていたことも確かです。しかし今ある症状の辛さと、結局確固たる治療法のない現実を考えると続けざるを得ないというのが正直なところでした。
もしその頃に松本ドクターと出会っていたなら・・・。でもそんなことを言っても仕方ありませんね。
そしてついに気が狂うほどの痒みとその後に訪れる痛み、更に体中からリンパ液がところどころ滲みだし、どうしようもなくなったとき、まるで最終電車に飛び乗ったように訪れたのがこの松本漢方クリニックです。ドクターとはまさに運命の出会いでした。ちなみにその時の私の igE の数値は 1 万をはるかに超え、最大で 1 万 5 千強までのぼりつめていたのです。ちょうど 26 歳の誕生日を迎えた頃のことでした。
最後に
あれから 1 年半が経ちました。過酷なリバウンドとの戦いも、戦争に例えるとすれば、ようやく和解交渉に入ったところです。まだもう少しかかりそうですが、確実に和平に向かって進んでいる状態にあります。
現在に至る壮絶な過程は、わざわざここで私が述べなくても、他の患者さんの手記を見て頂ければほぼ同じであると言えます。「そんな単純な。」と思われますか。でもそうなんです。それ程単純なんですよ。治っていく過程は多少のズレはあるもののみんな同じなんです。本当に矛盾だらけだってこと、これでお分かりでしょう。ほとんどのお偉い先生方は「アトピー治療は難しい。」とおっしゃるのにね。
それよりこの手記を通じて私が何を言いたかったかというと、アレルギーに関しては、一生懸命に、ひたすら治ることだけを考えて治療に励めば励むほど、実はそのまま自分の首を絞めているという恐ろしさです。私の手記を読んで、私が過去においてどこか一度たりとも治療に断念した時期があったでしょうか。そういった「治癒への努力」をずたずたに打ち砕く現代のアレルギー治療は果たして真の医学なんて呼べるのでしょうか。
街を歩くとそういうアレルギー医学の矛盾を、矛盾とも気付かぬまま、傷つけられ、私と同じように暗い闇と痛みの中でさまよっているアトピーピープル達をよく見かけます。彼らの心の叫びは私には聞こえます。そしてここにある手記の全ての作者もそうであると思います。
ある先生が私に言いました。「アレルギーはあるものだから仕方がない。上手く付き合っていく方法を考えなければ。」でも嫌なものは嫌ですよね。もともと一緒にいたくないものと、どうやって付き合う「方法」をしかも患者自らが考えなければならないのでしょう。今なら逆にこう言ってあげたい。「先生、結局「仕方がない。」で終わらせる診察なら僕にもできます。」って。
そこで最後にもう一度だけ言います。あなたがこの医院へやってきて、この席に座っているということは、正しい選択であると同時にそのまま治癒の方向に走りだしていることを意味します。一見怖そうに見える(本当はめちゃめちゃ優しい人なんですよ!)そのドアの向こうに座っているドクターは、少なくとも「仕方ないから」なんて子供の言い訳みたいな診察ではなく、ドクターとして責任ある本来の「診察」をしてくれます。
私は、あなたが「幸せ」に向かって歩みだしたことを心より喜んでいます。
おまけ
私を診断したお偉い先生方によるおかしな語録集。でもこういう診断がほとんどなんです。
・「アレルギーはあるものだから仕方ない。上手く付き合っていく方法を考えなければ。」(手記で紹介済み)
・「僕も最近痒いねん。なんでやろうなあ。」
・(僕が使用されている塗り薬の種類を尋ねたとき、受付の看護婦が)「何でそんなん言わんといけないの。先生が出される薬をそのままつければいいでしょう。」(それでも執拗に尋ねると)「ジフラール。」・・・(実はこれ、ステロイドの強度を表すリストのトップにランクされていた。)
・「赤い顔してるなあ、よしよし注射したろ。よく効くからな。」(ステロイド注射された。)
・「体をよく洗いなさい。石鹸は刺激の少ないやつでサッと。」
・「ステロイドはパット使ってサッと止めれば怖くない。」
これらの言葉と松本ドクターの言葉を比較してみて下さい。
「真実を知ることの意味」 F 兄弟・兄 38 歳
前作「真実のアトピー治療と出会って」続編
2009 年 7 月 24 日
【はじめに】
~隠れた真実の存在を知ること~
例えば、ある日あなたは身体の異変に気付きます。すぐさま病院に向かい診断を受け「これは治らない難病だ」と宣告されます。ショックを受けたあなたは、それからありとあらゆる「名医」と名のつく医者が勤務する大病院を渡り歩くも、やはり「難病」には変わらない。テレビをつければ「専門家」と称する偉い人がちょうどその病のことを取り上げ、この病がいかに「難病なのか」を延々と解説しているのです。途方に暮れたあなたは街に出て薬局を覗くと、その難病の治療薬とされる商品が所狭しと店頭に並んでいるのを目にします。しかもそれらは決して安くない。あなたは「難病だからそれだけ高いのだ」と自分に言い聞かせながらその「治療薬」なるものを手にします。その厄介な病に対し少しでも抵抗するべく、更なるあくなき試みに挑むのでした。
ところがそんな「難病」を「簡単に治せる」と豪語する医者がいるとします。しかも大病院ならともかく、場所は大阪の高槻市というお世辞でも全国区の大都市とは程遠い町の開業医です。その医者は特にメディアでその名を轟かせるほど有名でもなく、構える医院の外観もミスタードーナツの華やかさに明らかに負けているビルの 2 階。普通なら「そんなばかな」と一蹴するでしょう。メディアが言うから、大病院が言うから、権威が言うからと、あなたは大いなる疑いの目を持つことでしょう。
しかし、もし今までずっと「難病」と言われ続け、信じ込んで来たこと自体が、実は巧妙に操作された「洗脳」だったならあなたはどうしますか。何よりあなた自身はその「難病」が、本当に治らない病気であると、逆にきちんと説明できるでしょうか。世に常識とされているものが、実際は誰かによって都合よく歪められ、「真実」が全く別のところに存在するということが、実に多く存在するということを知っていますか。もしその存在を知ることが出来れば、あなたはそこからドミノ式に明らかになっていく真実に出会えることが出来ます。更にあなたを苦しめるこの「病」が何故「難病」とされているかという社会的構造をやがて見抜けることが出来るでしょう。私は松本漢方クリニックの真の存在意義は、その「難病」が治ること以上に、こういう歪んだ常識の裏に隠れた「真実」を患者自身が身を持って体験できることにこそあるのだと確信するのです。
【苦しみの中から齎されたもの】
~全てはアレルギーの「おかげ」~
前回手記を書いたのが 1997 年、ちょうど今から 12 年前のことです。あれから 12 年(治療を始めて 13 年)たった今でもアトピーリバウンドとの闘いは続いています。私が前回の手記を書いた頃は、ちょうど最初の大きなリバウンドの山を越えたすぐ後だったと記憶しています。当時はこのまま「免疫寛容」を起こし、程なく完治に向かうのかなと思っておりました。ところがそうにはならなかった。やはり私は初診時、IgE の数値が 13,000 を超える「重症患者」でした。26 年間という長期間に渡り、あらゆるステロイド剤(塗り薬や飲み薬だけでなく注射も)のみならず、同時に抗ヒスタミン薬や抗アレルギー薬の投与を受け続けておりましたので、それだけ免疫抑制の影響が私の DNA の奥深くまで及んでいたのだと改めて思い知らされることになるのでした。
この 12 年という年月は長いようで意外とあっという間だったという印象です。もちろんここまで長引くとは夢にも思いませんでした。今思えばこの長い闘いは常に「自己実現への正のエネルギーを阻むリバウンドの負のエネルギー」との闘いでもありました。その詳しい内容は後述しますが、要するに治療を始めてからというもの、私の人生において何かの節目には必ずリバウンドの邪魔がそこにありました。リバウンドの症状そのものの苦しみはもちろんのこと、その都度目の前の現実と行く手を阻まれた自分との間で、否応が無しに折り合いをつけさせられる激烈極まりないストレスは、これを経験した人間にしか分からないでしょう。時にはくじけそうになった時もあります。しかしそのたび歯を食いしばって(まさにリバウンド症状の絶頂時は歯を食いしばる程の痛みと苦しみですが)ここまで乗り越えてきました。
それではここまで自分を支えてこられた原動力は何だったのでしょう。その一つは家族の存在をなしでは語れません。まずは私の父です。それまでの 26 年間、ステロイドを中心とした現代医学しか治療の方法はないと信じ込み、世間の常識として奇病・難病とされるアレルギーに対し、「高槻にある開業医ごとき」に一体何が出来るのだと拒絶する私を怒鳴りつけながら、まず第一歩の足を運ばせてくれました。この松本ドクターとの出会いは私のその後の人生を 180 度変えたといっても過言ではありません。辛くてもこの出会いの大きさに比べれば困難とは感じません。まさに運命の出会いとも言えるべきものです。そんなドクターと私を引き合わせてくれた私の父が 2004 年にこの世を去った時、ドクターは私の手を握り、涙を流して勇気付けてくれました。その手の温もりを今も忘れることはありません。
母も治療開始当初から家を離れるまでの 4 年間、毎日漢方を煎じてくれました。母は時に自らのことを「間違った医療に率先して私を導いてしまった A 級戦犯」のような面持ちで私に詫びる事があります。私はそう感じる母の気持ちが逆に痛いほど理解できます。しかしこれは母の責任ではありません。ましてやその当時は度重なる喘息の発作でまさに死ぬかというような私を必死で救おうと命を賭けてくれていたのを知っています。そんな母を心から感謝しています。あなたは世界一の母親です。
弟も私が治療し始めて間もなく松本漢方クリニックに通い始めます。無論彼も幼少期より私と同じような間違った治療法にて育ってきたものですから、すぐに同様のリバウンドで苦しみました。ですが 11 年の歳の差はそのまま治療開始年齢が私より早いということにつながり、今ではすっかり完治してしまったようです。彼も私の弟であると同時に、闘いの同士でありよき理解者です。私は現在結婚し子供もおりますが、妻のみならず 3 歳になる息子までもこの難儀なアレルギーとの闘いに協力してくれています。私は自分の家庭がこんなに温かく思いやりに溢れたものであることに感謝しています。このようにアレルギーとの闘いの中で逆に得られた大きな物の中の一つに、間違いなく家族の絆がより深まったことが挙げられます。この意味で私はアレルギーの「おかげ」で苦しみの中から得られるかけがえのない喜びや感謝の念を見出いだすことが出来たのです。
「アレルギーよ、本当にありがとう。」
今あらゆる苦い思い出を乗り越えこの一言がようやく言えるようになりました。
【わたしの治療史・第一期】
~会社員時代そして離職へ~
12 年という月日の中で私を苦しめたもの。その際たるものはやはり、20 代、30 代と人生で一番体力的にも恵まれ、新しいことや難しいことにチャレンジしていけるはずの時代に激しいリバウンドとの闘いを同時進行的に挑まなければならなかったことです。先ほど「自己実現への正のエネルギーを阻むリバウンドの負のエネルギー」と言いましたが、私は今まで治療開始直後の最も激しいリバウンドを含め、大きく 4 回のリバウンド症状を経験しています。およそ 4 年ごとに波状的に起こるリバウンドのために、私はその都度、やむなくそれまでの人生の流れを変更・修正せざるを得ない局面を迎えてきました。その象徴的なものは、2000 年の秋に起こった大きなリバウンドのためにそれまで勤めてきた大手商社を退社する決断を下したことです。
私はその商社に中途採用として 1996 年に入社しました。そして間もなくこの治療を始めたのですが、案の定強烈なリバウンドのため、早速 2 ヶ月間の休職を余儀なくされました。しかしながら周囲、特に上司からの厚い協力を得られ、「新人のいきなりの休職」という前代未聞の状況から復活することが出来ました。せっかく掴んだ新しい職場でのスタートを挫かれた絶望感と、何ともいえない虚無感は今でも切なく心に残る思い出です。そんな時ドクターは落ち込む私にこういってくれました。「リバウンドという実のない闘いを否応がなしにさせられることに意味があるんや」と。当時はあまりピンと来ませんでした。ですが後から思えば、私の状況にズバリ的を射たご指摘だと分かりました。つまり「実のある闘いの時にはもっとがんばれる」ということなのです。
私はその言葉通り、リバウンドの苦しい経験が、逆に自分にとってプラスとなる闘い、つまり自己実現へのエネルギーを発揮する際の大きな糧となることに気付きました。ただそうはいってもやはりしばらくは辛い思い出が続きます。まだまだリバウンドの影響が強く残り、職場復帰後でも半年くらいは一回につき数日の割合で頻繁に休みをとらないといけませんでした。そんなに休んでもいられない時は、ただれた口の周りを隠すためにマスクをして通勤したのを覚えています。口が開かず昼食はほぼ毎日カロリーメイトとオロナミンCという時期もありました。顔はキズだらけ、ワイシャツはリンパ液が酷いので「白」は着られません。夏でも腕のただれたような湿疹を隠すため長袖が欠かせませんでしたが、今度は汗で余計に酷くなる有様です。
それでも会社は私に対し、有給消化以外にも特別に病欠扱いの枠を設けてくれ、欠勤分を給料から差し引くなどの処置を免除してくれたのです。そんな会社への恩義もあり、私はますます仕事に打ち込みました。そして僅か 2 年半で当時は驚くほどの昇進を果たし、その内症状自体も落ち着きだしたこともあり、3 年目にはマネージャー職になり営業成績もトップになりました。月に 2 度はアジアの国々へと出張で飛び回り、意気揚々とした日々を送れるようになっていました。アレルギーもその時期は忘れるくらいまでに落ち着いていたように記憶しています。この時まさに「実のある闘い」に邁進していた記憶があります。
そんな中起こった突然の知らせです。最愛の父の肺に癌が見つかったのです。父は急遽癌の摘出手術を決断しました。その時はとりあえず癌は完全に除去され、一旦は成功として事なきを得ました。そして父の癌の問題も解決し、私もこれから会社で次の大きなプロジェクトを担おうとしていた矢先、やってきたリバウンドの第二波です。これは相当なダメージとなりました。やはり全身から吹き出るリンパ液とそれに伴う激しい痒みと痛み、そして倦怠感。またまた悪夢の再来です。しかし今度こそは仮に会社は許してくれても、私が手がける仕事が許してはくれません。何より会社での責任が前回の比ではないのです。以前のように甘えられる上司もいません。自分が「上司」なのですから。非常に困りました。部下にお願いしても限度があります。傷だらけの手でパソコンをベッドの上で打ちました。滴るリンパ液が書類を汚します。しかもこのリバウンドがいつ終わるか分かりませんし、結局この闘いの本当の意味での理解者は会社にはおりません。「いいアレルギーの病院を紹介しようか。」との本来ならば嬉しい進言も数人からもらいました。私のことを心配してくれているのは痛いほど分かります。しかしどうせステロイドなんです。違うんです。しかし何が違うのかも、今の医学の常識を覆すことから説明する気にもなりません。これは本当に孤独の闘いだと思いました。「仕事に戻りたい。」「でも戻れない、いつか分からない。」という葛藤が2 ヶ月続きました。結局回復の見通しも立たないまま 2000 年の 12 月に自宅から辞表を提出しました。その時は悔しくて溜まりませんでした。自分は一体何をやってきたのかと自らを責める日々でした。たくさんの人に迷惑をかけたと思います。ただ結果的にはこの退職を機にその後の私の人生は大きく変わりました。今思うとこの選択は、またもやアレルギーの「おかげ」で正解だったといえるものだったと思います。
【わたしの治療史・第二期】
~会社設立・結婚そして父との別れ~
私にとっての 21 世紀の始まりは、まさにリバウンドとの闘いの中で向かえ、約 5 年勤めた会社を離れて一旦全てをリセットした状態でした。前述のように、仕事が嫌で退社するのではなく、それどころか、どんどんやりたい事が増え、充実感で満ち溢れていたところに半ば運命によって引き裂かれた形になったわけですから当然悔しい気持ちもありましたし、そして何より現実問題として、この身体で果たして社会人として務まるのかという漠然とした不安は更に私を苦しめることになりました。
この頃私の人生のパートナーである妻と出会います。彼女は私のそのような「世の常識に反する闘い」の全てを理解し、また応援してくれました。どんなにひどい顔や身体の状態でも、直視しこれを受け入れてくれました。今こうして手記を書き、過去を振り返る余裕が出来るのも妻がいてくれたおかげだと思います。冒頭に、苦しみを乗り越えられる原動力にまず「家族の支え」を第一に挙げたのもまさにこの出会いがあってのことだと思います。その点で彼女との出会いはドクターとの出会い同様、まさに私の人生の大きな幸運であったと言えます。
彼女とはこの後 3 年後の 2004 年に結婚します。しかし同年に結局手術の後、癌を再発させた最愛の父との別れもありました。更に翌年の 2005 年息子を授かりることになります。私はこの時期ほど家族というものを意識した時期はありません。「家族こそ全ての人間が尊ぶべき心の故郷(ふるさと)であり、全ての運命の出発点である。」私は自らの体験を踏まえこれを確信しました。余談ですが、昨今のおかしな犯罪をはじめとする社会不安は結局、長い間家族というものを軽視され続けた結果ではないかと思います。この国の将来を考えたとき、本来の家族の尊さをこのまま取り戻せないままで行けば、私には崩壊という二文字への道筋がはっきりと見えます。
さて仕事の話に戻ります。一旦リセットした(させられた)私がその後どう再起動を遂げたのかですが、実はその前に、特筆すべきことがあります。それは体調も順調に回復してきた 2001 年の夏、とにかく何かを始めるにも、ます大きな何かを達成してから出直したいという気持ちから「北米大陸横断」を敢行しました。車で約 2 万 5 千キロを 40 日、西海岸から東海岸までの横断の旅です。途中、あの 911 同時多発テロを現地で経験しました。まさにあの時から世界は変わりました。しかし私個人の考え方も、あの旅でさらに大きく変わったような気がします。30 歳という人生の節目の歳にあの貴重な体験は生涯忘れることはありません。そして私のアトピーも傍目では全然分からないといわれるくらい、症状もほとんど出なくなっておりました。この時にはもはや僅か一年前に起こった強烈なリバウンド第二波の地獄のような苦しみや、それによって味わった意に反した仕事のリセットの悔しさはすっかり消えていました。大陸横断という大きな目標達成が体調回復と共に、そのまま自信につながっていったのです。
そして、その後様々な運命的な出会いや幸運を経て翌年の 2002 年、一つの決心をします。それは現在の妻が仕事で居住していた香港で事業を起こすということです。周囲は皆びっくりしておりました。いきなり何をしでかすのかと。今思うとかなり大胆というか無謀な賭けだったと思います。ただ当時の私の中ではまたどこかへ再就職をし、組織の中でもう一度自己実現の道を進むという選択肢は全くありませんでした。その理由の一つはやはり心のどこかでまた再度同じようなリバウンドに見舞われ、そして同じく道半ばでその志を断念することになるのが怖いという気持ちも当然ありました。ただそういうネガティブな部分だけではもちろんありません。とにかくごく一般的な人が普通に送ることの出来る人生のサイクルを、リバウンドとの闘いを続けている上では得られることが期待できないとあれば、いっそ誰も思いつかない、いわば「奇策」を人生に仕掛けることで、不安や苦難を乗り越えようという私なりの体当たりの挑戦でもあったのです。
そこからの月日はまさにがむしゃらでした。アレルギーもありはしましたが、仕事や生活にさえ影響が及ばなければ少々痒かろうが痛がろうがもはや問題ではありません。それ以上に仕事を軌道に乗せることに必死であり、それが大変でもあり、楽しくもありました。その頃の世の中はデフレ真っ最中で、おまけに SARS やイラク戦争などの逆風もありましたが何とか色々な人たちの助けも頂きながら窮地をしのいできました。
そしてやっとビジネスがある程度軌道に乗ってきたかなと感じ始めた頃、先ほど述べた突然に訪れた父との別れが待っていました。2004 年の新春間もない冬の出来事でした。私は人生この時ほど泣いたことはありません。小さな頃から心から敬愛していた父です。分野は全く違いますが、私にとって父の存在はあまりにも大きく、そして目標でもありました。反発や口論も耐えない親子でしたが、それは結局父に自分を認めて欲しいという気持ちの裏返しだったのでしょう。そんな私から父が去ってしまいました。アレルギーも父は最期まで心配してくれていました。そんな父に結局松本ドクターの下で完治した私の姿を見せることが出来なかった。ビジネスも立ち上げ当初の苦しんでいる姿しか見せられず、軌道に乗り出した少し余裕のある姿を見せることは出来なかった。仕事で後回しになった結婚や、「何時になったら孫の顔が見れるんや。」と冗談めかしに言っていた希望も果たしてあげることが出来なかった。私はついに父に何も十分に誇れるものを見せられず、全て中途半端なまま去られてしまったのです。
ところで父は肺癌という厄介な病に、本来風邪も引かない丈夫な身体を蝕まれ、そしてこの世を去ることになったのですが、私は今でも、その死を早めたのはあらゆる抗癌剤で免疫をどんどん下げた結果であると思っています。つまりはアレルギーであれ、癌であれ、人間が本来持つ免疫は絶対落としてはいけないという教訓が父の死をもって実感として得られたのは何とも皮肉です。もし父が免疫を落とす化学療法を積極的に取り入れていなかったら・・・少なくとも、その後たったの数年の内に訪れる私と妻の結婚や、心待ちにしていたはずの息子の誕生は見せることが出来たのではと思うたび、込み上げる無念の情を今でも禁ずることが出来ません。
【わたしの治療史・第三期】
~人生の転機、さらなるリバウンド、そして次なるステップへ~
父が去った翌年の 2005 年、私は結婚を果たしそして自身が「父親」となるわけですが、これはまさに人生の転機といえるものでした。私の妻は全くアレルギーとは無縁であります。従って付き合いだした当初はアレルギーの知識なんて当然全く有りません。ですからこのリバウンドとの闘いのことや、世の中の常識のまさに逆を唱える松本理論のこと、更に「現代医学」が抱える大きな矛盾や不条理に関することなど、最初は戸惑い以外の何者でもなかったようです。
こんな私の事情を理解し、またこの私の人生の伴侶となる道を選んでくれ、そして今では私の最大の理解者となって共にこの闘いに挑んでくれている妻には改めて感謝しています。息子も生まれて間もないころは、乳児性湿疹がひどく、やはり「母親の愛情」があるのでしょう、妻は理屈では松本理論を既に理解はしていましたが、やはり目の前にある酷い症状を目の当たりにすると、どうしても慌ててしまいます。周囲も何度も塗り薬の必要性を訴えます。ですが、私はもうこの湿疹の「からくり」が分かっていましたから一切何もせず自然に任せました。すると一ヶ月足らず(ステロイド投入していたらこの 10 分の 1 のスピードで見た目の「改善」はなされていたでしょう)で見事に綺麗な肌が現れてきました。妻はこの時、私や松本理論の正しさを目の当たりで実体験することとなったのです。今ではわが子は、たまに湿疹が出る程度で、全く問題ありません。私はやはりここに「地獄と天国の分かれ道」があると感じました。「知っているか知らないか」でその子供のその後の人生を大きく変える怖さがここにあります。12 年前に書いた手記でも述べたとおり、「親によるわが子に対する愛情が、実は症状をどんどん悪化させる源となる皮肉」から、今度は私が親の立場となり、わが息子をそこから救い出すことが出来ました。私はここでも夫婦で松本ドクターの存在の大きさを改めて知ることとなったのです。
それから間もない 2005 年の 8 月、ついに私に 5 年振りの大リバウンドが来てしまいました。この時私を最も苦しめたのは、前回のリバウンドまでは「自分自身だけ」を考えて治療に専念すればよかったのですが、今回は違います。今回は生まれて間もない息子がおり、私は親としての責任を背負っています。ただ幸いなことに私は前回と決定的に違うものがありました。「時間的な融通」です。こうなることを期待したわけでは全くありませんが、それでもこのように大きなリバウンドが来た時に「自営業」は組織に気兼ねすることなく治療に専念できます。実はこの年、妻も香港での会社組織を離れ私の設立した会社に合流をしておりました。ですので、私が仕事を離れることは、ただ私の人的資本から生み出されるリターン(収入)がストップするだけです。それもそれで大変なのですが、会社設立から 3 年経ちそれなりの蓄えもありましたし、何より妻が本格的に合流を果たしてくれていたおかげで、私が息子の面倒を見るという形をとり、妻が私の抜けた分を補いながら会社を切り盛りしてくれました。そんな期間が 3 ヶ月ほど続きました。
リバウンドを耐えながらの子育てはまた困難を極めましたが、それでもこの時味わった息子とのふれあいは、生涯忘れられない貴重な思い出です。この意味でも、もし大リバウンドがなかったら、到底味わえなかった息子との時間を、アレルギーが運んでくれたと思えば、やはりアレルギーの「おかげ」だと今となって思えるのです。その後息子も順調に成長をしてくれています。
その後の 4 年は再び症状的には「何事もなかった」様な状況が続きます。その間私は、さらに「資格取得を要する職」の獲得を目指し、再び動き出しました。繰り返しになりますが、もともと「組織には属することが出来ない」というある種ネガティブな一面が、私を独立という道に進ませたという背景があり、しかしそれ以上に得られるものの大きさをこの時期改めて実感するという時期でした。「自由な時間」というのもその大きなものの一つでした。ただ、やはりその「自由な時間」はメリットではある反面、当然ながら収入が不安定になるというリスクもついて回ります。ここで思い立ったのが、業種の全く違う仕事をもう一つ持ち「履ける二束のわらじは履いてみよう」ということで、そのリスクを分散するということでした。結局一方の鼻緒が切れたら、もう一方があるという状態にしたかったのです。
そしてついに資格を取得し香港の大手企業とエージェント契約が出来たわけですが、完全歩合制という内容を選んだので、組織的拘束もありません。つまり「時間的自由」を手放すことなく、収入の不安定リスクを軽減することが出来ました。ちなみに、幼い頃から勉強が嫌いで成績も常に「普通以下」だった私が、この資格取得をきっかけに、火が付いたように勉強(というか学ぶ楽しさがこの年になって気付いたのですね。)するようになりました恐らく 20 代までの私を知る人は今の私を見て相当驚かれるでしょう。かなり遅咲きではありますが、今では人の 3 倍は学んでいると自負できます。その甲斐あってか私は契約した会社の社内では数少ない日本人の中ですが、香港人の同僚と共に 2007 年と 2008 年と連続して成績トップ受賞者(Top Producers Award)の一人に選ばれました。
ここで一つ言えるのは、人間何歳になっても「変われる」ということです。その気になれば 40 歳であろうが 50 歳であろうが「成長できる」ということです。やはりここでもドクターに言われたこと、つまりリバウンドと言う度重なる実のない闘いを経験しているからこそ、「実のある闘いの時にはもっとがんばれる」ということが生きたのだと思います。
【わたしの治療史・第四期】
~金融危機と共に訪れた 4 度目のリバウンド、そして未来へ~
前回の大リバウンドから 4 年半という歳月が流れ、私はまたもや通算 4 度目の大リバウンドの波に襲われることになりました。折からの経済危機で世界中の景気がまさにどん底状態に陥っていた 2009 年の 3 月のことでした。今回は若干ではありますが、前回や前々回に比べると症状自体はましになってきた印象です。とはいってもいつもながら語り尽くせない辛さは伴います。ところが今回、ある種の「リバウンド症状のへの免疫」のようなものができた感覚がありました。つまり過去における大リバウンドでは、症状のまさに激しく苦しい最中にあっては、松本理論を頭では理解していても、やはり身体はかすかに「この症状がひょっとしたら永遠に続くかもしれないという恐怖感」を感じていました。今回はそれが一切なかったのです。最初からゴール(大リバウンド症状からの回復)の時期が大体予想できていましたし、やるべきことが感覚の中で既にパターン化され、それを最初から淡々とこなすだけでした。具体的には、しっかり寝る、煎じ薬を飲む、プロテインを多めに取る、消毒をする、風呂につかる、紫雲膏を塗る。日々のたったこれだけの単純な繰り返しで、ひたすら回復を待つのみでした。これ以上もこれ以下もありません。
ちなみにこの手記を書いている今現在は 4 度目の大リバウンド発生からちょうど 5 ケ月が経とうとしている 7 月下旬です。まだ症状はかすかに残りますが、日常生活はいつものサイクルに完全に戻っています。今回実質「外にも出られない時期」は 41 日間でした。発生当初感じた「見積もり」よりも短かった印象です。このように私はこれまで 4 度もの大きなリバウンドを乗り越え、ようやく症状そのものに心身とも動じず、ひたすら「一本道を歩むのみ」の心境になれた気がするのです。ところで治療開始からこれまでの大リバウンドの発生タイミングを振り返ると、どうやら 4~5 年のサイクルで「きっちり」訪れています。
これには何か特別な理由があるのか、是非ドクターに分析をして頂きたいと思います。
【終わりに】
~真実が明らかになるまで~
12 年と言う歳月は私にとって、常にアレルギーとの闘いと共にありました。そしてこの闘いはこれからも続くでしょう。ただ心中は極めて平静です。その理由ははっきりしています。それは私が松本理論を理解し、この病気のメカニズムの真実を知っているからです。よく松本漢方クリニックに訪れる患者さんの中に、「先生を信じています。」であるとか「先生にお任せして。」と言う表現を使う人を見かけます。こういう患者さん達は、全てとは言いませんが少なくとも私が知る限り、途中で挫折するなり、あきらめるなりで姿が見えなくなる可能性が高い。つまりは「信じられなくなった」のでしょう。
私は同じアレルギーで苦しむ言わば「同士」の中にこういうレベルの低い人たちがあまりに多く存在することを知り、残念に思えたことがありました。私は少なくともアレルギーの治療に関しては松本ドクターを「理解」はしても「信じた」ことは一度もありません。何故なら松本理論は「信仰」ではないからです。医者に対し、「信じる」または「お任せ」するような場面は、難しい手術など、その医者の技術的な力量が求められる時だけであり、病気のメカニズムの真実を立証する医者に対しては本来「理解」しか存在し得ないのではないでしょうか。
冒頭にも同じようなことを述べましたが、この現代社会において、「真実」と「事実」は必ずしも一致しません。真実はもちろん一つしかありませんが、事実はしばしば歪められたり消し去られたりして、「真実」を見えないようにされてしまうことがあります。それはどんな時に起こるかと言うと、世に「真実」が明らかになることは、それまでの間違った「既成事実」で利益を得て来た人間にとって非常に都合が悪いからです。いわゆる既得権益享受者です。現代医学の裏には莫大な製薬会社の利権が存在します。この利権を支える柱の一つに「アレルギー関連薬」があるのは間違いありません。「アレルギーは適切な医師の投薬によって一生付き合わなければいけない」という「事実」が、多くの製薬会社の既得権益になっています。
ところがこの事実が実は間違いで、何もしないことがアレルギーを起こさない唯一の方法が「真実」であると白日の下にさらされれば彼らは一体どうなるでしょうか。これは大変です。彼らは死んでも「真実」が明るみにならないようにあの手この手の手を打つはずです。私は、最近これは仕方がないと思うようになってきました。何故ならこれが資本主義の行き着くところだからです。「真実」が尊いものであるのは誰もが知っています。ですがそのために今まで得られてきた利権がなくなるどころか、職さえも失う不安に直面した時、それでも人間は「真実」を受け止められるでしょうか。私はここに資本主義の限界を感じます。
私は、この意味で 12 年前の手記に続き、続編をいずれは書き記さないといけない必要性をずっと感じておりました。ドクターが述べられている「いかに私が大声をあげてアトピ-やリウマチが治るといっても変人扱いされるだけでしょう」の通り、今の世の中の常識からは、ドクターはまさに変人中の変人でしょう。その時代の大権力によって、「真実」が大きく捻じ曲げられている場合、それを是正できる唯一の方法は、結局は小さなことかもしれませんが、ひとつひとつ「真実の実例」を積み上げていくほかありません。それは決して楽な道のりではないでしょうし、もしかするとガリレオの地動説のように我々が生きている間にそれが真実として世間に認知されないかも知れません。ですが真実はいずれ必ず明らかになると信じています。そしてこの手記がささやかながらそのための一助となればと思っています。
明治維新は全国当時 3000 万人口のうちのたった 3000 人による志士が成し遂げたと言われています。前回の手記で松本ドクターは私に「彼は私の分身のようです」と書いていただきました。さらに「必ず責任を果たします」とも言っていただきました。ですから今回はドクターに分身たる患者の私から責任を果たす番です。この手記をドクターの元に親愛と感謝の念を込めて、またこれから治療という名の下の闘いを開始される患者さんに深い同情と激励の気持ちを込めて送り捧げたいと思います。 2009 年 7 月 24 日 香港にて