アトピー性皮膚炎 30〜39歳の患者さんの手記 その27目次
「アトピー 鼻炎手記」匿名希望2006年8月18日
「ステロイド離脱症の経験」32歳男性2006年10月1日
「アトピー手記」匿名希望2006年9月8日
「アトピー手記」30代女性2009年6月23日
「アトピー手記」匿名希望33歳2004年4月1日
「真実の医療に出会えて感謝します」34歳女性2017年5月27日
「アトピー 鼻炎手記」匿名希望2006年8月18日
「ステロイド離脱症の経験」32歳男性2006年10月1日
「アトピー手記」匿名希望2006年9月8日
「アトピー手記」30代女性2009年6月23日
「アトピー手記」匿名希望33歳2004年4月1日
「真実の医療に出会えて感謝します」34歳女性2017年5月27日
アトピーとアレルギー性の慢性鼻炎の治療のために私が初めて松本漢方クリニックを訪れたのが4年前です。漢方を飲み始めて2日にして、慢性鼻炎の症状は劇的に治ってしまいました。いつも鼻づまりがあり、薬が手ばなせなかったのが嘘のように、すっきりと治ってしまいました。4年経つ今でも、花粉の酷い時期に少し症状が出るのと、寝る前に少し鼻が詰まる程度です。アトピーの方は治療を始めた最初だけ普段症状が出たことなかった向う脛に湿疹が激しく出、1ヶ月ほどで引いていきました。向う脛以外はリバウンドを起こすことも無く、みるみる治っていきました。おそらく今までほとんどステロイドを使ったことがなかったからか。。と、リバウンドが出ないことに感謝しておりました。ただ、症状が全くなくなったというわけではなく、痒みは依然としてあるものの、肌質が変わったというか、強くなったというか、掻いたとしても以前のようにすぐ皮膚が破れることが無くなったという感じです。見た目も以前のくすんだような肌ではなく、しっとりとした艶のある肌になりました。治療を始めて2年、どんなに花粉の飛ぶ季節になっても症状が出ることは無く、出たとしても関節が少し痒くなる程度。アレルギー症状で困ることはなくなっていました。症状が出なくなったので安心していたのですが、Ieg数値は依然高いままでした。その後引越しをし、結婚をし、漢方治療から遠のいてしまいました。2年前のことです。住環境が変わっても特に困る症状は出なかったのですが、昨年末、私生活がとても忙しくなり、それに伴って久しぶりに顔に症状が出ました。激しい症状を3回くらい繰り返し、自然に終息していきました。そして今年妊娠が判明したと同時におさまっていたアレルギー症状が一気に爆発しました。アトピーのみならず、鼻や目の痒み、おまけに喘息のような呼吸困難までも・・・。鼻や目の痒み、喘息は夏になるとおさまってきました。肌のほうも1日二回の入浴と保湿で何とか小康状態を保っています。面白いことに今回はまで症状が出たことの無いお腹(しかも子宮がある下腹部)を中心に細かい蕁麻疹が出来ています。妊娠中は食事と肌の手入れに気をつけて酷くしないように努力し、出産と同時に漢方治療を再開したいと今は思っています。その時はどうぞ宜しくお願い致します。
今になって思うことは、「人の記憶、印象というものは意外と薄いものなのだ」ということです。どういうことかといえば、ステロイド離脱症に苦しんだ辛い日々の思いがなぜか他人事のような気がするのです。治ってしまえばこんなものといってしまえばそれまでなのでしょう。もちろん重篤な症状でなかった訳ではありません。IgE抗体はゆうに1万を超えていましたし、苦痛を我慢するストレスからか円形脱毛症にもなりましたし、体重も11キロ痩せました(治ってすぐ戻りました)。言い換えれば、これからステロイドを離脱しようとしている方々、もしくは今この時に離脱症に苦しんでおられる方々、つらいのは今だけです。今頑張れば近い将来、このつらく他の誰にも共感してもらえない経験は、自分の事だったのに他人事というおかしな感覚に陥るまでに回復します。松本先生の代弁をするわけではなく、経験者として保障します。
この手記を読んで他者がどれだけ共感できるかは、極めて薄い期待に留めています。100あるうちの1もご理解を得られないことと思います。実際私がリバウンドと戦っている時でさえ他人の書いた手記に共感することはほとんど出来ませんでした。他人の苦しみは解からないということです。しかし、近い将来絶対この苦難から開放されるという希望への材料になると思います。これから手記を記すにあたって、薄れていく記憶をよみがえらせたいと思います。
松本漢方クリニックの門を叩いて現在で7年半が経ちましたが、未だ完治には至っていません。とは言うものの痒みや痛みで日常生活に支障を来たすことも無ければ、見た目にも「アトピーの気があるかな?」と言う程度まで回復しています。長いか短いかは症例や感覚的なものも含めて個人差があるとは思いますが、実はもう少し早く終結していた可能性があります。それは先生の言いつけを守らなかったことが2つあるからです。事柄については後に記しますが、いずれにせよ長かれ短かれ限定された「期間」であることには違いないということです。ちなみにこの7年半の間結婚して第一子長男が生まれました。彼も1歳になる頃アトピーを発症しましたが、1ヶ月足らずで治りました。いうまでも無く息子にはステロイドは使用していません。私と息子、この時間の差はどのような意味合いを持つのでしょうか。
【離脱を開始するまでのステロイド使用歴】
現在32歳の私が「アトピー性皮膚炎」を発症したのは2歳頃と母から聞いています。ステロイドや抗ヒスタミンの内服を服用していたかどうか定かではありませんが、リンデロン軟膏とベトネベートクリームを使用していました。母は当時私を観た皮膚科医に副作用を確認したところ、「塗布した部位に皮膚の黒ずみが発生することはあるがその他副作用はない」と説明を受けたとのことです。膝窩・肘窩を中心に5歳頃まで使用していました。小学校に入り、皮膚に発生するアトピーは小康状態に入り、この頃よりアレルギーの出所は目に移り、アレルギー性結膜炎として高校を卒業する18歳頃までステロイドの点眼薬と眼軟膏を使用していました。18歳を過ぎる頃、アレルギー性結膜炎は小康状態に入り、今度はいわゆる花粉症に悩まされました。1月末から7月末までまともに呼吸ができないほどの鼻炎でした。この花粉症はステロイド離脱を開始したとともに治りました。いや、治ったと言うよりこの経歴を思い返してみると、結局アレルギーとしての肉体的な反応は出所を変えただけで2歳の頃からずっと継続しており、アトピー性皮膚炎も小、中、高校時代治ったかに見せかけていたに過ぎないことが解ります。そして松本漢方クリニックの門を叩く決定的なステロイド使用歴が21~25歳でした。
私は21歳で高齢者の介護福祉の仕事に就職しました。当時の業務内容は介護全般とリハビリの助手の仕事だったのですが、毎日の入浴介助とリハビリを施行した後の手の消毒により手荒れがひどく、22歳の頃には手荒れから湿疹に変わり、近所の皮膚科でステロイドの軟膏(リンデロンVG軟膏)を処方され塗布していました。ステロイドを塗布するも症状の落ち着きはごく一時的であり、手の湿疹は徐々に悪化していきました。当時の私はステロイドの脅威など知る由も無く、ハンドクリームの如く常用しており、25歳の頃にはリンデロンやベトネベートは全く効かなくなり、デルモベート(very strongクラス)の軟膏を常用するまでになっていました。ここまで来ると仕事どころか日常生活のあらゆるところに支障を来たし、夜も痒くて眠ることもできませんでした。しかし症状を抑えることしか知らない私にはステロイドを塗布することしかできませんでした。そして近所に住んでいた方から松本漢方クリニックの話を聞き、藁をもすがる思いで受診することとなるのです。
【ステロイド離脱開始~3ヶ月】
(平成11年2月23日初診・初診時IgE抗体数:2,158)
上記のように22歳から25歳にかけて多量にステロイドを使用していたわけですが、この間実に5件もの皮膚科をハシゴしており、藁をもすがる思いではあるものの、皮膚科というものを殆ど信用しなくなっていました。しかし松本先生のお話を聞き、これまでの常識である「症状を抑える」という治療方法から「悪化(症状的に)させる(=正常化)」という治療方法であり、今思えば全く疑いもせず先生のお話を受け入れることができたことがとても印象的です。どちらかと言うと先生のお話(理論)に疑う余地やスキが全く無いと瞬時に判断していたように思います。先生のお話(理論)の内容はここでは記しませんのでしっかり先生に聞いてください。
いわゆる「リバウンド」はステロイドを絶って3日後から急激に発生し、まずステロイド断絶直前まで塗布していた部位である手指が強烈な痒みに襲われ、手の甲全体に湿疹が広がり、これまで我慢していた「掻く」という動作が解き放たれたのも相まって、1週間後には手の甲と指は元の皮膚の面影を残さないまでになってしまいました。開始後1ヶ月が経つころには肘窩・首全体に及び、とても我慢など出来ないレベルの痒みではあるのですが、掻くどころか擦ったり頭を「振り向く」動作をするだけ(皮膚が突っ張る状態)で皮膚が潰れて真皮まで到達し、真夏の汗の如く浸出液が出てきました。このころはまだ介護の現場で働いており、この状況にありながら入浴介助やリハビリを行うことは限界を超えていたように思います。その後も順調に(?)症状は悪化していき、首の炎症は顔全体に広がり、肘窩と手指の炎症は腕全体に広がり、当時私は独り暮らしをしていたのですが、洗濯物のタオルをパンッとはたいた時にタオルの端が腕に当たっただけで皮膚剥離し、そこから浸出液が湧き出てくる有様でした。もちろん夜もまともに眠ることは出来ません。驚いたのは、ある夜中、腕全体に突然今まで経験したことの無い痒みが発生して目を覚まし見てみると、炎症で真っ赤になっているはずの腕が、ピンク色がかった黄色に変色していました。我慢できないので掻くのですが、指1本で撫でるように掻いただけで熟した桃を伸びた爪で掻くかの如く皮膚が剥離し、そこからおびただしい浸出液が出てきました。どうやら腕全体の皮下で浸出液が放出されるのを「待機」しているような状態で、激痛ならず「激痒」感が発生したのでしょう。それからが大変でした。一度掻くと痒みが倍増していき、腕全体の皮膚がほとんど無くなり、真皮むき出しの状態であるにもかかわらずまだ痒いのです。松本先生は痒ければ思い切り掻けば良いとおっしゃっていましたが、「掻けない」のです。掻く皮膚が無いのですから。もちろんここまで皮膚が剥離している状態なので激痛も伴います。激痛と激痒が共在している感覚は非常に貴重な経験と言えるでしょう。痛み痒みだけでなく全身の極度の倦怠感を伴い、精神的に追い詰められていた私は「激痛は我慢できるが激痒だけでもどうにかしたい」一心で患部に塩をかけてしまいました。確かに痒みは治まりましたが、激痛の上の痛みを経験することになりました。痛いので撫でることもできず、結局その夜は漢方浴に浸かったまま寝てしまい、夜を越すこととなりました。
離脱開始3ヶ月のころには、上記のような体験は日常当たり前となり、患部は膝窩や脇窩、背中全体に渡るものとなり、布団の周囲は掻き毟った皮膚が大量に散乱し、着ている衣服は着衣後間もなく浸出液でカパカパになり、長期的な夜間不眠のため日中帯も意識がまばらになることもあり、厚生労働省が認可したステロイドの影響で「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことは到底出来ない状況で、とうとう同年5月10日から仕事も病欠することとなりました。仕事から放たれたものの、激痛激痒の連続で昼夜の区別も無く、漢方浴に浸かっている2時間弱だけが精神的な平安を取り戻す唯一の時間でした。しかしお風呂から上がった後は体中の激痛に見舞われ、どうしようもない状態になります。このころ57kgあった体重は46kgまで減少しました(身長165cm)。
この手記の冒頭で松本先生の指示に従わなかったことが2つあると記しました。その一つがタバコです。もともと喫煙者であり、松本先生からは止めるように言われていましたが、この極限の生活の中、「少しの休息」がどうしても必要でした。今は止めています。
このころ気づいたこととして、
①リバウンドの進行が、手指→肘窩→首→膝窩→腕全体→背中全体→下肢全体という順番になっており、過去2歳のころより、ステロイドを使用していた部位の順番を逆に辿っているということです。松本先生の書に「解明はされていないが免疫機能は記憶の機能も備わっている」と書かれてありましたが、それが実証されたように思います。
②ステロイド離脱前までは毎年この時期に悩まされていた花粉症ですが、離脱と同時に治癒しており、以後現在に至っても花粉症は発生していません。アレルギーの病名は眼科・皮膚科・耳鼻科・内科等多岐な渡り存在しますが、結局は「出所」が違うだけに過ぎないということでしょう。ですので、アトピー性皮膚炎を治療しようと思えば、皮膚科ではなく「免疫科」が該当となると考えます。もしかするとあのままステロイドを使用し続けていると気管支喘息を発症して最悪の場合命を落としていたかもしれません。
③リバウンドの症状には個人差があると思いますが、当時松本漢方クリニックの待合室で知り合った方々と比べてみると、私のように炎症と腫れが強くて皮膚が薄くなってすぐに皮膚剥離して局所的に強い症状が出現する人と、体全身が赤黒く変色してごわついた硬い皮膚になってしまう人と大きく2つに分かれていました。なぜかは解かりません。
④天候が免疫反応と関係していると感じます。雨が降る前や台風や熱帯低気圧が近づいている時に症状が悪化しました。仕事柄よく聞くのですが、高齢者のリウマチ患者が、雨が降る前は関節が痛むとの訴えが多くあります。リウマチも同じ免疫反応であり、松本先生のおっしゃるとおり「アトピーとリウマチに関しても同じ免疫反応の結果であり出所が違うだけ」ということなのでしょうか。
【ステロイド離脱後4ヶ月】
今思い返してみると、この苦痛の極限生活の中、ある種リバウンド症状を「楽しんでいた」感があるように思います。人体実験との認識だったのでしょうか。仕事を休んでいる間、インターネットなどでアトピーについて自分なりに色々調べたりもしました。そして松本先生の理論をあえて疑ってみようと思いました(無駄な事とは解かっていながら)。松本先生は「たんぱく質を多く摂取しなさい。朝食にステーキを食べなさい」とおっしゃっていましたが、世間一般的にアトピーはたんぱく質が引き金となるとされています。しかし私はこれだけ皮膚から高たんぱくの浸出液を排出している上にたんぱく質を控えようものなら立つ事もできないくらい体力を喪失していたでしょうし、たんぱく質と抗体が結合して異物を除去するシステム「記憶機能を持つ免疫反応」を経験実証している私に「免疫反応を抑える」治療法は無利益なものである事は明白でした。他にも種々他方法を自分に置き換えて比較してみたりもしましたが、何より「リバウンド=正常な肉体反応」を覆すものは無く、結局松本先生の理論に疑いの余地やスキといったものは見つけられませんでした。というか当然のことでした。
話を私のリバウンドに戻します。ステロイド離脱開始後107日目の6月9日の事でした。なぜか良く眠れたその日の朝、とても驚きました。体が痒くないのです。昨日までの苦痛と比べて極端の違いです。皮膚のゴワつき感は変わらずとも真っ赤な炎症は抑えられており、皮膚剥離することが無くなっていました。本当に不思議な現象であり、自分の体に対する不信の塊でもありました。しかしその後1週間を過ぎてもその状態であり、私は「終わった」と確信しました。その約1ヵ月後の7月6日に受診、IgEを測定しましたら、9,650という数字でした。症状が治まってこの数字ならあの極限状態の時はいったいどれくらいだったのか知りたかったという印象でしたが、特に疑いもせず納得していました。
【ステロイド離脱後5ヶ月~3年】
症状が治まった為職場復帰しました。しばらくは若干痒いながらも普通に仕事をこなし普通に生活できるようになっていましたが、突然治癒した6月から約2ヶ月を過ぎたころから再び湿疹と炎症が発症し始めました。最初は一時的な不調かとも思っていましたがどんどんリバウンドが進行し、以前の極限状態には至らないものの同じ様に腕の皮膚がなくなるほど掻き毟る状態でした。このときばかりは本当に落胆しました。どちらかというと、ステロイド離脱直後の症状悪化時よりも精神的にきついものがありました。一旦苦痛から解き放たれた安堵感から一気に地獄へ逆戻りしたといえます。症状の範囲は両上下肢と首・顔の症状がひどく、背中や腹は若干「まし」な感じではありましたが、掻いて皮膚剥離したときの傷の深さは以前と同状でした。先生曰く、「症状は上がり下がりを繰り返しながら大きなリバウンドを数回繰り返すこともある。いかにステロイドを乱用していたかが伺える」との事でした。2回目のリバウンド時のIgE数は11,450で1万の大台を超えていたものの症状的には1回目より若干軽いものでした。苦痛を我慢して仕事をしていた為のストレスからか円形脱毛症になってしまいました。それも500円玉大が5つも、です。
結局大きなリバウンドの山はステロイド離脱から3年間で合計3回あり、考えてみると2歳から25歳までの間にステロイドを多量に使用するアレルギー症状が大まかに3回あり、これも免疫反応の記憶力なのかとも思います。3回目のリバウンドは離脱後2年~3年目のことでした。1回目より2回目、2回目より3回目の方が症状はいくらか軽いものになってはいますが、本当に精神的につらいものがあります。3回目の症状は手指と両上肢と首に発生していました。掻き毟った傷は幾分軽いものの急激に襲い掛かる痒みは健在で、離脱から3年に至り体力の衰えも自覚し始めていました。
そして先生の指示に従わなかった事柄の2つの内のもう一つ、3回目のリバウンドから煎じ薬を中断しました。1回目のリバウンドのときに2ヶ月仕事を休職させてもらっていたこともあり、これ以上仕事に影響させたくなかったため、松本先生に相談の上長期戦を選ぶことにしました。煎じ薬を飲む時と飲まない時の症状の出方は歴然の違いがあり、飲まないときは「症状の山」があまり感じられず、それほど強くない、でも辛い症状が満遍なく続くという感じでした。
【ステロイド離脱後3年~7年半(現在)】
煎じ薬を止めてしまったせいもあり、3回目のリバウンドが一番長期間にわたり続いていました(4年目~6年目の約2年間)。そして松本先生からずっと勧められていた海水浴に4年目にしてようやく行くことができました。この丸3年間は、あまりにも症状がひどすぎたために普段日常と違った行動を極力行いたくはなかったのですが、少し軽くなったこの時期に(それでも大いに皮膚剥離していましたし痒みもひどいものでした)行くことができました。松本先生は、「海水の消毒作用と日焼けによる皮膚の入れ替え新陳代謝の一石二鳥」とおっしゃっていましたが全くその通りで、海水浴に行った後1週間はとても症状が軽くなりました。原因を自分なりに考えてみました。日焼けは軽い火傷と同様で炎症を伴います。炎症を伴えば皮膚を再生させようとする新陳代謝の働きが発生し、アレルギー反応と類似した免疫反応も行われます。要は元のアトピーの免疫反応より日焼けによる免疫反応(新陳代謝)を優先させた結果ではないかと言うことです。しかし不思議なことに、湿疹の症状が強く出ている患部は日焼けしなかったのです。そのほかの背中や太ももは皮がめくれるくらい日焼けしているのに一番皮膚を入れ替えたい部分が焼けなかったのは期待はずれでした。先生に尋ねると、「それだけ皮膚の正常機能を失っている証拠だ」との事です。それから毎年行くことにしています。(3年後のIgE抗体数:6,280 4年後のIgE抗体数:3,193)
そして劇的に症状が軽減したのが離脱後5年経過した頃でした。この頃になると、患部は肘窩と手首、手甲、首に残る程度で、痒みはあるものの皮膚が剥離することはなくなりました。現在もこの時とほぼ同じ状態もしくは若干軽減した状態が継続しています(5年後のIgE抗体数:4,119 6年後のIgE抗体数:2,498)。今となってはその頃の症状や精神的な変化を思い出すのが大変なほど治癒しているわけですが、冒頭に記した通り、他人事を手記として記しているような気がします。急激なリバウンドが発生してまともな生活を送ることができなくなっている時、私の母は(脳梗塞の後遺症で体が不自由なのですが)、「できるものなら自分が身代わりになりたい」「幼少の頃にステロイドの影響を知っていれば絶対に使わなかった、悔やんでも悔やみきれない」とよく言っていました。私もこの間父親になり、息子が軽いアトピーを発症した時は自分の身を忘れるくらい心配しました。親から見る子どもの痛ましさと言うのは、自分で感じる苦痛の何倍もの事となるのでしょう。冒頭に他者は絶対に共感することができないと記しましたが、家族、特に親は別だと思います。
まだ松本先生から「完治宣言」を受けていないのですが、近いうちに完治することを確信しています。完治した際にはこの手記の追記を書きたいと思います。この手記がこれからステロイド離脱症と戦う方々への希望の材料となること、厚生労働省が悪薬を放認しなくなること。かすかな期待ですが、この手記の命題とさせていただきます。
私は松本漢方クリニックに通院して約5年になります。もともとアトピーの症状自体は、あまりひどくはなかったのですが、以前に通院していた病院でのステロイドの治療の影響で完治することない状態でした。松本漢方クリニックに通院するようになってからの最初の一年はかゆみとの戦いでした。私は外で仕事することが多く、汗がでるたびにかゆみに悩まされました。先生からかゆければ、かいたら良いといわれたものの初めは我慢していましたが、あまりのかゆさに毎日体中を掻いていました。衣服は血と塗り薬の色でひどく汚れました。本当に治るのか疑問でしたが、どこの病院でもステロイド治療しており、完治することは無いのだからと思い、先生の治療を信じ、頑張りました。初めは顔に症状が出ており、顔に赤い薬をつけるので人から何がついてるのか聞かれるのがとても嫌でした。また、首が一番かゆくて書いていました。そのうち、血が出るので服も襟のついたシャツしか着られなくなりました。治療を開始してから2年目の夏は仕事して汗をかいて、かゆくなりましたが、顔には症状が全く出なくなりました。首は相変わらずかゆかったですが、以前に比べてもかなりましになっており、血が出るほどかくことはなくなりました。治療の成果を確信しました。その後は、粉薬で治療を進めて行きました。現在ではかゆみは若干残っていますが、外見ではほとんどアトピーであるとわからないぐらいまで回復しました。ただステロイドの副作用から顔や首が黒くなっているのが気になりますが、今夏、松本先生から顔や首の黒さがだいぶきれいになってきたと言われました。私の治療もだいぶ時間がかかり根気のいるものですが、だいぶ終盤にかかってきていると思います。検査の数値も下がっており、完治までもう少し時間がかかりそうですが、治療のピークは過ぎ、後は時間の問題であると確信しています。気長に治療を頑張ろうと思います。
アトピーと戦って勝ち得た物
私のアトピー歴は、特に他の人と変わった事はなく小さい頃から喘息で薬を飲みその後肘や膝の裏に湿疹ができ同じ内科の医者からステロイドの塗り薬をもらい、塗るとすぐに治っていました。そのため高校生になった頃も体のところどころに湿疹はありましたが目立たなかったので私は決して自介からアトピーといわずむしろ隠していました。その後、私は看護学校に進みましたいその中でアトピーについて初めて医学的に学びましたが教科書には[アトピーは体質的なもので治るものではないいかにステロイドや抗アレルギー剤で症状を抑えるかが課題である」というような事が書かれていましたい私はこの時、ある意味
アトピーと戦う事を放棄し、ステロイトドと仲良くつきあっていこうと思いました。そして決してアトピーと正面から立ち向かう事なくステロイドを塗る事でいつかは症状も落ち着くだろうと思っていました。しかし、看護学校を卒業し助産婦学校を卒業するころになるとほっぺたはいつも赤くなり湿疹がある所は黒く色が着きステロイドの限界を体で知って行きました。でも、もうその頃にはステロイドのない生活なんて考えられない程薬を塗りまくっていたので私には何もできませんでした。そこで医者を変え、その医者に塗り薬だと色素沈着するからといわれステロイドを1年内服したりしていました。助産婦として仕事をするようになり夜勤がはいったりストレスを受けてくると湿疹は更にひどくなり何をしても目立つようになり薬を強くしたり抗アレルギー剤を内服したりしましたが結果は同じでした。そのうちに丈夫だと思っていた体がどんどん弱くなって行きへルペス(熱の花)で入院したりすぐに熱を出したりし就職して1年で病院を退職し大阪の市民病院に就職しました。新しい病院のスタッフはいい人ばかりで人間関係も良くストレスが少なくなってアトピーも落ち着くだろうと期待しましたがやはり結果は同じでした。そんな時スタッフから『子供に湿疹ができた。あんたみたいに汚くなったらどうしよう』と言われました。看護婦であるスタッフからのその言葉が胸を突き刺し涙がでて止こまりませんでした。そんな時、先輩のスタッフから松本漢方クリニックを紹介されました。忘れません平成7年7月30日でした。その日松本先生に会い「治してあげます。」といわれ看護士さんに、今までの症例についてスライドを交え治療法などについて説明を受けました。この日、私は『これから自分の体がどうなるのか」と不安で眠れませんでした。でも、ステロイドの限界を体で知った日から『いつか効く薬が無くなって苦しむ日が来る・・・』と罪悪感をもちながら覚悟していたので『もう1度だけ頑張ってみよう』と,思いました。それからのリバウンドは本当につらく体中が赤く腫れあがり外に出ると知らない人に『どうしたの、殴られたの?」と声をかけられるほどでした。痒くて痒くて眠れない日が続き顔や体がむくみ、体中のリンパ腺が腫れ助産婦としての仕事が難しくなりましたが実家にも給料を送っていることもあり収入が無くなると漢方の治療も続れなくなるので必死で仕事に行きました。私の働く病院では婦人科もあり、癌の末期の患者さんの所に私がいくと癌の壮絶な痛みや体の衰弱と戦う身でありながら私の体のことを自分の事のように心配して『かわいそうね、私の肌と変えてあげられたら・・」と腫れ_上がった手をなでて励ましてくださいました.このとき私は何があっても頑張ろうと心に決め患者さんに助けてもらいながら私も仕事を休まず続けることができました。とはいえ、仕事中も痒さから解放される事はなく患者さんの前でかくことを我慢していると冷や汗がでたり手足がびくびくと痙攣しトイレで下着一枚になり10分間全身をかきまた白衣が体から出る汁でひっついて脱げないこともしばしばあり睡眠薬を2倍の最内服しても眠れず体中から汁がでて痛くて横にもなれず足を抱えて座りながら朝をむかえ仕事に行くことのつらさは
体験した人でないとわからないと思います。
夜、漢方の湯につかりながら水面-杯に浮かぶはがれた皮膚を見ながら末期の患者さんや家族など私のまわりの人の優しい言葉を思いだし毎日泣いてばかりいました。松本漢方クリニックにも2週間毎に診察にいきましたがそれは体のつらさを無くしてもらうためにではなく『大丈夫』だという言.葉だけを聞きにいっていました。なぜかというと私の状態をみたおなじ病院の医者、看護婦の中の殆どは私が習ったように「アトピーは治らない」とイ言しる人が多く私が生理学的に説明しても騙されていると言ったり『教祖様みたい』とばかにする医者もいたからです。医学的な知識をもつ医療従事者がこんな調子ですから松本先生の考えに納得し頑張ろうとしていてもみなさんがまわりの人に理解してもらうことは本当に難しいと思います。でも私も松本先生を信じて治療を続けてきましたが100%信じられていたわけではありません。特に私のように医療に携わる仕事をして今実際に行われて知られている治療法が本当に正しいのかはわからないということが分かっていても松本先生の理論が正しいと思っていても一般的な治療法ではないだけに不安はありました。でも、松本先生のいう通りに必死で頑張のましたいそれは『もし、治らなければ訴えてやる」と言う程の気持ちがあったからです。私は有識姉でありながら松本先ノ籾)前では平凡な一人の患者でした。
その結果はどうだったでしょうかいそうです。
松本漢方クリニックに来てから3年と3カ月経った私の体は明らかに治る方向にあります。ばかにしていた医者も騙されていると同情していた同僚の看護師も今は『アトピーも漢方で治るのやね』と言っています。お風呂の漢方もなくなり痒いと思う時は24時間でいうと15分程度です。
顔の赤みも無くなりくろずみも目立たない様になり一目見ただけではアトピーとわからないようになりました。女性として一番美しいといわれている二十代後半の殆どをアトピーと戦うことで費やそうとしています。
汚い肌でおしゃれも出米なかった私に残った物は、松本先生と共に勝ち得ようとしている普通の肌と人の優しさ、そして強い意志そして私のことを心から思ってくれている人に対しての感謝の気持ちです。看護師としての私は今まで患者さんに何もできなかったように思います。でも、今回自分が患者になる事で様々な気付きがありました。だから、これから出会う患者さんにも今までと違った看護ができるとおもいます。松本先生や看護婦さんがしてくださったように・・・今これを読んでいる方も不安と恐怖で一杯だと思います。もしかしたら、「なんて自分は不幸なんだ」と思っているかも知れません。私がそうだったように、でも、この松本先生との出会いによって、アトピーと戦うことによって普通に生きている人が逆立ちしても得られないものを本当にたくさん得ようとしています。人生は常に自分との戦いだといわれていますが、私はアトピーと戦うことによって少し強くなれた気がして勇気をもって戦える気がしています。長々と書いてしまいましたが、最後まで読んでくださってありがとうございました。あなたも最後まで頑張れるよう祈っています。
僕がアトピーと付き合い始めたのは、小学校ぐらいからだと思います。それから、20代後半までは、それほどひどくはなりませんでした。アトピーがひどくなってきたのは、喘息が出だして、近所の医者に時々通い出してからです。そこで喘息の薬を貰って使っている間は、喘息もアトピーも治まるのですが、時間がたつとアトピーがひどくなって、掻いた後の傷跡が腫れ上がっていました。
その時に、少々遠くてもいいから、アトピーを治してくれるいい医者がないだろうかと思ってインターネットで探していたら、松本漢方クリニックのホームページがありました。そこに治った人の手記が載っていて、自分よりひどい人がかなりいるんだなと思いました。そういう人が治っているんだったら、自分のアトピーも治るんじゃないかと思い、松本漢方クリニックに行きました。
最初、松本漢方クリニックに行って、先生に会った時は、「これでアトピーも治るんだな。」と思いました。なぜなら、あそこまで患者に説明をしてくれる先生が、今までいなかったからという事と、診察の時に「必ず治してあげます。」と言ってくれた時の、先生の熱意を感じ取ったからです。
それから、本当の意味でのアトピーとの戦いが始まりました。毎日煎じ薬を作り、それを飲み、風呂前後に薬を塗る事によって、アトピーがだんだん良くなってきました。IgE抗体の数値も、最初は4930あったものが、1年ぐらいで2000台になり、その後ちょっとリバウンドがありましたが、今は2000台を切りました。
家族も「アトピーが治ってきているね。」とよく言ってくれます。治している途中で、喘息が出てきた時でも、先生は、怒りつつも「必ず治してあげる。」と言って治してくれました。春になって、花粉症の症状が出てきたときにも、適切なアドバイスなどを頂き、花粉症の方も大分ましになってきました。
まだ、アトピーは完全には治っていませんが、松本先生と看護師の方と共に治していきたいと思います。
いつもお世話になりありがとうございます。松本先生に数ヵ月前、「君が手記を書くのはもう少し先や。」と言われていたのですが、今は「どんだけ辛かったか書いたらいい。」と言ってくださる段階まできたことに大変嬉しく感謝します。何を書こうかな、上手くまとめられるかな等と考える余裕がある状態になり松本先生には感謝しかありません。
私の学歴は至って普通で、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学を卒業しました。学校の先生の言う通りに考え行動するのが良い子、先生の考える答えを出すと成績も良くなるという環境で育ちました。自ら考え、疑問を持ち、行動する、自立した子どもを育てるのが学校と唱いながら、実際は真逆の教育を受けていたのではないかと松本漢方クリニックに通院中に考えるようになりました。松本先生は「何故?と疑問を持ち考えることが大事や。」と何度も言って下さいました。初めの頃は全く理解できませんでした。今も理解できていないと思いますが、自分が疑問を持たずに生きてきたことに何となく気づき始めたこの頃です。
生後3ヵ月でアトピーと診断され、ステロイドの塗り薬、オレンジ色の水の甘くて美味しい飲み薬、目薬、小学生の頃は錠剤も飲んでいました。お薬の種類はわかりません。春先は毎年全身荒れていました。手は春先だけでなく荒れていました。中学生の時は春先、顔がパンパンに腫れました。ステロイドを塗っても効きません。なので、感覚的にステロイドは効かない薬と思っていました。だけど、病院を変えても出されるのはステロイドの塗り薬でした。これしかないんだろうなと思い、ひどい時は使いますが、堪えられる時は市販のハンドクリームでやり過ごす日々でした。ステロイドの副作用なんて考えたことすらありませんでした。だけれど感覚的に良くない薬だろうと思っていました。
松本漢方クリニックを初めて知ったのは大学4年生の時でした。ゼミの担当教授のお子さんが松本漢方クリニックでアトピーの治療をされていて、教授が「腑に落ちる医療をしている最高の病院。時間もお金もかかるがアトピーは治る。お金に余裕があるなら行ってみた方が良い。」と教えてくださったからです。当時は学生でしたので「お金ないし無理やな、でも、いつか治したい。」と思い、頭の片隅に「高槻の松本漢方クリニック」というワードは残っていました。
社会人になり働き始めた時に手荒れで辛く、松本漢方クリニックに行ってみようかと悩んだのですが、私は回り道をしてしまいました。今、思うとその回り道も何故?と疑問を持たない私には必要なことだったと感じます。社会人1年目から6年目まで民間療法の脱ステロイドをしました。手にばかりリバウンドが出ました。リンパ液も、もちろん出ました。松本漢方クリニックだったらリンパ液の正体も理由もすぐに解るのに民間療法は素人の集まりなので、堪えるのみでした。クリームも使いましたが、治っている感覚はありませんでした。洗剤、化粧品まであり全てそこの製品にしました。300万円以上は使っています。それなのに、治らない。「どこも一緒か」とアレルギーの治療を半ば諦めていました
社会人7年目、第1子出産。子どもが卵の白身に反応したので、それを期に松本漢方クリニックに行きました。お盆の時だったと思います。3時間ほど待ちました。何の予習もせずに行きました。他の患者さんに松本先生が話をされているのを聞いていたので、化学物質が良くないとおっしゃっているのは分かりました。先生には、「何でうちに来たん?アレルギーの原因は何かわかる?」と聞かれたのを覚えています。しっかり勉強していなかった私は、「化学物質」と言うところを「化学製品」と答えました。先生はすぐに「化学物質やな」と訂正してくださいました。診察して頂いている間も電話が鳴り止みませんでした。電話で先は患者さんに「君の免疫が病気を治すんやで。」と何度もおっしゃっていました。そして私に「君にも言うてるんやで。」とおっしゃられました。しかし、私はまだ先生の凄さを分かっていませんでした。「免疫?自分で治す?漢方で治すのに?治るなら何でもいいや。」と思っていたのを見抜かれていました
1度目の診察で何十回も「君の免疫が治すんや。」と言われたのを今でも情景とともにはっきりと覚えています。先生の診察だけでなく看護師さんからは、お薬の説明、治っていく過程のお話を聞きました。当時の看護師さん自身もアレルギーの治療をされていて、ご自身の血液検査の結果を見せてくださり説明をしてくださいました。その中で最も印象的だったのが、「化粧水、保湿剤はいらない」との内容です。何故印象的かというと、殆どの説明は理解できていませんでした。ただ、この一点に関しては「化粧水、保湿剤がいらないなんて
それはないわ」と反発ではないのですが思ったからです。こんな状態で松本漢方クリニックに通いましたが、今の私は化粧水、保湿剤がいらない生活ができています。看護師さん、信じなくてごめんなさい。真実を話して下さったのに本当に申し訳ない解釈をしました。
授乳中でしたので、状態に合わせて漢方薬、赤と黄の塗り薬、漢方風呂が処方されました。2週間ほどして目が痒くなり、鼻水が出て鼻周りが痒くなりましたが数週間で落ち着きました。「民間療法をしていたし、脱ステロイドが殆ど終わっているのかな。」なんて思いました。しかし真面目に続けていなかったので本格的なリバウンドはまだ始まっていなかったのです。
第1子が1年目の冬、渇いた咳をしだしてなかなか治りませんでしたが、なんの薬も使わずやり過ごしました。第1子が2年目の冬、渇いた咳だけでなくクループ症候群みたいになりました。第2子を妊娠中で、夜中の咳に付き合うのも辛くなり小児科を受診。吸入しました。今思うとステロイドが入っていたと思います。
第2子出産直前、私の顔にヘルペスができました。お薬は使いたくないので放っておきました。治りません。ヘルペスのまま第2子出産。産後は高熱、ヘルペス、高熱と毎週なりました。2ヵ月は、続きました。楽しいはずの子育てが辛くしんどいという気持ちしかない日々になりました。そんな時に、母が若年性アルツハイマーと診断されました。そして父が精神病と診断されました。父が躁状態のとき、いつも母に当たっていましたが母が若年性アルツハイマーと診断されてから私に当たるようになりました。ある朝、私の顔にできたヘルペスを第2子が噛みました。数日後、第2子の首もとにブツブツができ、背中にも広がりました。第2子は痒がり夜中も寝られなくなり私も付き合って起きることになり、母子ともに寝られず疲れ果てていました。小児科に相談に行くとすぐに皮膚科へ行くように言われました。皮膚科の女医は「トビヒになりかけています。こんなひどいのはステロイドを使って落ち着かせて、まずはぐっすり眠らせてあげなさい。化粧水も出すから、これはずっと使うように。」と言われ、第2子の全身写真を撮り、タオルでぐるぐる巻きにして採血されました。
平成28年4月、第1子第2子ともに目やにができました。眼科に行くと第1子にステロイドの目薬が出ました。主人に伝えると、「今日なら高槻まで一緒に行ける。これから治るまで通うのは距離があるから大変やろうけど治すために頑張って行けへんか?」と背中を押してくれました。
第1子は目やに。第2子は顔、背中、首元、頭皮にアトピー。私は顔、首にアトピーが出ていました。漢方薬と漢方風呂を処方してくださいました。本格的なリバウンドが私と第2子はすぐに始まりました。第2子の頭皮からのリンパ液は3日ほどで治りました。皮膚症状は全身荒れましたが、1ヵ月程で落ち着きました。1年たった今はヘルペスと戦っているだけです。1ヵ月間は夜中、寝られずかきむしりました。私は4月から9月までドンドンリバウンドが出ました。9月以降も生理の周期に合わせてひどく出たり、少しましだったりしました。1年たったぐらいから皮膚症状の強いところも限られてきました。
第1子は5月からリバウンドが始まり、幼稚園は休みました。首から下はリンパ液が出ました。膝裏が一番ひどく、歩くことも出来ません。お風呂上がりは号泣でした。私もリバウンドでしんどかったのでなだめる余裕はありませんでした。第1子と私は昼夜逆転生活になりました。テレビを見たいのではなく
痒みを、ごまかす為に夜中テレビをつけていました。2人で励まし合って何ヵ月も過ごしました。9月、私のリバウンドがピーク時。起き上がることも出来ませんでした。第1子は少し元気になり、起き上がることもできない私に代わって、第2子にご飯やフルーツを食べさせてくれました。2人で仲良く遊んでくれました。それなのに、リバウンドでしんどすぎた私は、ただ生きているのが辛く、このまま意識が飛んで死ねたらどんなに楽かと考えてしまいました。子どもたちの笑い声が聞こえているのに痒さ、痛さ、辛さから逃れたい気持ちしかありません。「この子どもたちなら力を合わせて生きていけるだろう」などと考えてしまいました。痒くてしんどくて辛い日々。起き上がれても泣いていました。子どもが頭を撫でてくれました。辛すぎて、松本先生の「絶対治る、頑張れ」の一言が聞きたくて仕方ありませんでした。でも、電話は迷惑だろうと思いました。そんな時、手記に救われました。手記の中に先生の言葉が沢山ありました。リバウンドでしんどい時、先生のパワフルな声がどんなに励みになるか、どれ程救われるか。「絶対綺麗になるからな」と言われて、「頑張れ自分」と前向きになれました。狂ったように手記にすがる日々でした。1度全て読んだのに、再度読み直すと、有難い一文に出会いました。「鍼灸をしたら回復が早くなった。早い時期からすればよかった。」みたいなことが書いてありました。私も真似して鍼灸を始めました。鍼灸の先生に的確なアドバイスを頂き、少しずつ自分の体のことがわかってきました。だいたい週1回のペースで通いました。1ヵ月後、肌のターンオーバーの時ポロポロと古い肌が取れて止まらないのに驚きました。
私も、もっと早く鍼灸を始めればよかったと感じました。それでも、なかなか体も気持ちも前向きになれない日々を過ごしていました。しかし3月のある日、「幸運のアレルギー」の手記を見て、何故か頭がクリアーになりました。
私は子ども2人を連れて両親の通院の付き添いをしていました。診察後は、毎回、姉や叔母に診察内容を報告し、叔母からはドクターに「これを伝えてくれ、この質問をしてくれ。」と頼まれ、全ての負担が私に来ていました。「そんなの無理。これが原因だ。自分の体、子どもの体を大事にするのが一番だ!」と考えるとスッキリしました。それをきかっけにして、過去の自分を受け入れられたというか・・・色々なことに感謝できる余裕がでてきました。民間療法も経験したからこそ松本漢方クリニックでの体の変化の有り難さをしっかり理解できたので回り道してよかったです。皮膚の入れ換えができてきたことも実感できるようになってよかったです。だから「早く治したい、早く体も心も元気になりたい、早く仕事復帰して楽しみたい。」と考えるようになりました。鍼灸の先生に、「すごく良い状態になってきた。だけど“早く早く”と思わず今年いっぱいゆっくりしてもいいんじゃない。気持ちと体に少し距離がある。“早く”と思う癖があるよね。」と精神面のアドバイスを頂きました。
松本漢方クリニックに通いだして疑問を持つことの大切さを教えて頂きました。以前の私はステロイド副作用すら知ろうとしていませんでした。ドラッグストアが町に溢れていることに違和感はあっても何故?と思いませんでした。2人に1人が癌になると言われている理由を考えようとしませんでした。世界の医療費の4割を日本が使用しているという一説がありました。日本人は安心安全に過ごせる代償に医者に薬漬けにされて体を病んでいるのではないでしょうか。もし、安心安全に過ごせなくなると政治に不信感をもち、不安を感じ、日本人が物事を考えるようになってしまうでしょう。考え出したら大衆が立ち上がり、真実を見抜き出します。そうさせないために安心安全に過ごさせているのです。日本人は言われるがまま病院に行き、治らない薬を処方され免疫を抑えて癌になり抗がん剤を使用されて世界にお金をばらまいている、等と想像したりするのが今までの自分と違う変わった点です。
アトピーだから松本先生に出会えました。アトピーだから真実の医療に出会えて子どもたちの体を元気にすることが出来ました。アトピーで苦しんだから真実を見ようと思えるようになりました。今の状態までくるとアトピーも悪いものではないと思えるようになりました。子どもは元気に産まれることが親孝行と聞いていました。でも、うちの子どもたちはリバウンドで何も出来ない私を2人で明るい雰囲気を作ってくれて支えてくれました。2回も親孝行をしてくれました。だから私は子どもたちに真実の医療をしっかりと伝えるのがお返しだと考えます。主人は医療費を沢山使っているのに、文句ひとつ言いません。「早く良くなったらいいね。」と言ってくれます。元気になったら、しっかり働いて家事をこなして恩返しをしたいと思います。まだまだ痒いところはあるし、体力もないし、完治まで遠いので「幸運のアレルギー」とは思えませんが、真実の大切さを少し感じられたのはアレルギーのおかげです。松本先生のおかげです。心に余裕ができてきた感覚があります。自分で勉強せずに、松本先生に質問をしたら、お叱りになられますが、叱りながらも答えてくださいます。勉強したことを質問すると質問以上の次の段階まで教えてくださいます。他の患者さんが先生に質問をされた時、先生が質問内容をとらえ間違えられたことがありました。先生はすぐに、そのことに気付き、患者さんに勘違いしてごめんなさいと謝っておられました。先生の性格の真っ直ぐさが表れていた一場面だと感じました。先生は「間違った医療の後始末しかしてない、治しているのは君の免疫や。」とおっしゃいます。真実はそうかもしれません。でも、後始末をしてくださって免疫を目覚めさせる医療をしてくださっているのは先生お一人です。
真実を知っても行動に移せない医者ばかりの世の中を、我々が変えていかないといけないと感じました。日本人は世界と戦わないといけないのではないかと感じます。アトピー途中経過の手記なのですが、やはり、私の頭では書きたいことがまとまりませんでした。すみません。
松本漢方クリニックで治療してよかったこと
皮膚の入れ替えができる
鍼灸の治療ができる
完治の兆しが見える
色々と考える機会に出会える
人に感謝できるようになる
完治と言われるまで絶対に通い続けます。よろしくお願いします。