「娘のヘルペスとアトピー治療、中間報告」
(お母様記述)3歳2016年10月31日
(お母様記述)3歳2016年10月31日
①はじめに
娘の体に謎の皮膚疾患が現れたのは、2歳6ヵ月の時のことでした。小さな湿疹から始まった症状は、すぐに顔を含めた上半身に広がり、道行く人が振り返るほどのひどい状態になりました。結論から言いますと、3歳2ヵ月の現在、娘は元通りのツルツルの肌をほぼ取り戻した状態になりました。大きな病院でたらい回しにされ、毎日ネット検索に明け暮れていた私が奇跡のように辿り着いた松本漢方クリニックのホームページ。そこには目から鱗の理論が展開されていました。病気とは、体が異物を排出して健康な状態に戻るためのプロセスであること。体にとっての異物とは、細菌、ウイルス、そして人間が作り出した化学物質であること。異物の排出は体の免疫が働いて起こるということ。現代医療、殊に投薬のほとんどは、この免疫を抑え込むことによって症状が無くなったかのように見せかけているに過ぎないということ。薬によって免疫を抑えている間に、体内では静かにウイルスが増殖していること。抑えていた免疫が回復した時、ウイルスや化学物質などの異物との、本当の闘いが始まるということ。体自身が異物と共存する道を選び、免疫寛容が起こることによって治癒が可能であること。「これで治る。」確信のようなものが私の中で生まれました。松本先生の考えは、それまで私が出会ったどんな医者のそれとも違っていたからです。自然の理にかなったやり方であると感じました。後述しますが、本当に先生の理論通りのことが起こりました。私の浅薄な知識ではここで先生の理論を詳しく説明することができませんので、体の中で実際どのように免疫が働いてどんなことが起こっているかを知りたい方は、Naokiさんの手記を読まれると良いと思います。文系の私でも理解できるわかりやすい解説が書かれています。この手記で私は、一人の母親として、また一教育者として、娘の治療を通して知ったこと、考えたことを述べたいと思います。
②娘のアトピー及びヘルペス経過
娘に最初の皮膚疾患が出たのは生後2ヵ月の時でした。頬にポツンポツンとニキビのようなものができたかと思うと、あっという間に顔じゅうに広がり、おでこからあごまでブツブツでいっぱいになってしまいました。産院の新生児健診での診断名は「乳児湿疹」。今思えば娘の体は、こんな生まれたばかりの小さな時から一生懸命異物を出そうと頑張っていたのです。乳児湿疹もアトピであり、アトピーとは体に蓄積された異物を皮膚から排出しようとしている全ての状態を指すのだと理解している今の私なら、それほど狼狽えることなく、小さな娘の免疫を応援できたでしょう。しかし当時の私は、発疹で埋め尽くされた娘の顔に気も狂わんばかりに不安になっていました。幸いだったのは、その時健診してくれた小児科医の先生が、薬を出されなかったことです。「乳児湿疹ですね。そのうち治ると思います。様子を見ましょう。」との診断でした。あの時ステロイドを処方されようものなら、私は飛びついて依存し、娘は0歳の時からステロイド漬けになっていたでしょう。今となっては、あの小児科医の先生に感謝するしかありません。
娘の「乳児湿疹」は、ブツブツの皮膚が乾いて鱗のように剥がれ落ち、その下から新しい皮膚がどんどん生まれて、何事もなかったように治りました。その間、服薬はもちろん塗り薬なども何も使わず、肌のケアもただお風呂に入って清潔に保っていただけです。この時の娘の回復力は私にとって、後にアトピ治療のリバウンドの辛さを乗り越え、治癒を信じる力となります。その後は大きな皮膚トラブルもなく、元気に成長していった娘ですが、1歳の夏頃からあせもが出るようになりました。背中の下の方の紙おむつのゴムが当たる部分や、首や手首のシワの辺りに小さな発疹がポツポツと現れました(松本先生によると、あせももアトピーとのこと。)私自身も夏になるとあせもができやすいのですが、季節とともに治るのでそれほど気にすることもありませんでした。ところが、当時通院していた小児科で、娘がこのあせもを痒がっているのを指摘され、「掻き壊して「とびひ」になる前に、炎症を鎮めておきましょう。」と言われて軟膏を処方されたのです。これが最初のステロイドでした。ロコイドをプロペトでのばしてプラスチックの容器に詰めたものでしたが、当時の私は、自分の家系がアトピーに無縁だったためステロイドに関しては無知で(ロコイドがステロイドであることすら知りませんでした)、言われるがままにこの軟膏を娘の皮膚に塗っていました。ステロイドの恐ろしさなど知りもせずに、あせもが治るなら助かる、とさえ思っていました。診察のたびにあせもを見られ、治りが遅いということで、塗布指導を受けました。薄くのばしているようでは足りない、皮膚を覆うようにたっぷり塗りなさい、とのことでした。今思い出すとゾッとします。思えばそもそもこの小児科にかかっていたのも、風邪の後の咳と痰が治まらなかったことが発端で、「予防として」喘息の薬を服用、吸入するためでした。つまり、娘の体は皮膚からも気管支からも異物を出そうと頑張っていたわけです。私のしていたことは、それを無理矢理抑え込んで、異物の存在に対して見て見ぬふりをすることだったのです。
その夏の終わりに娘は2歳になりましたが、喘息の予防治療は長引いていました。いつまで経っても咳が治まらないのです。当たり前です。免疫力を上げるという一番大切な治療を行っていなかったのですから。ステロイドの軟膏も、治まったり出たりを繰り返す湿疹に、中止したり再開したりしてだらだら塗布を続けるという最悪の使い方をしていました。松本先生に怒られそうな使い方です。
そのようにして秋が過ぎ冬になり、あせもは治まりましたが、年が明ける頃、違う部位に異変が現れました。右目のまぶたが赤くただれ、いつまでも治らないのです。もちろん、くだんの小児科では眼軟膏が処方されました。プレドニンをプロペトで伸ばしたものでした。このあたりで私は気づくべきだったのです。どれだけ薬を塗っても、薬を変えても、いたちごっこのように湿疹が出てくることに。湿疹はまぶたのみならず、左目尻にも出始めました。小児科ではダメだと思った私は、眼科を受診しました。そこでも、出されたのはステロイドの点眼薬でした。さすとたちどころに湿疹が治りました。ここでようやく私は気づくのです。「ステロイド、効きすぎや・・・怖い。」そして予想を裏切ることなく、薬をやめた途端に湿疹は堰を切ったように広がりました。その頃には、背中も湿疹でいっぱいだったのです。私は血眼になって病院を探し、ドクターショッピング状態でした。「ステロイドは使いたくない」ということを伝えると、ゲンタシン軟膏や保湿剤が処方されましたがやはり気休めに過ぎず、湿疹は一向に治る気配がありませんでした。
そして娘が2歳7ヵ月のある日、こんな私に引導を渡す出来事が起こります。初めに異変の出た右目まぶたを中心に、撒き散らしたように水疱ができたのです。水疱はあっという間に顔じゅうに広がり、首や背中にもできていました。見た目は水疱瘡にそっくりでしたが、予防接種は終えていたので、なぜだろうと思いました。市内にある一番大きな中央病院の小児科を受診すると、水疱瘡の診断が出ました。予防接種をしても稀にかかるケースがある、と。抗ヘルペス薬のアシクロビルの飲み薬と、昔ながらの塗り薬(通称カチリ)が処方されました。2週間ほどで完治するだろうとのことでした。しかし、受診した日の深夜、みるみるうちに娘の顔全体が腫れ上がり、目が開かないほどになりました。水疱は増える一方で、破れた所から浸出液が出てきました。水疱どうしがつながって皮膚がめくれ、顔全体が赤いあざで覆われたようになり、娘の人相が変わってしまいました。これは、水疱瘡ではない。素人の私でもわかりました。すぐにその病院で救急受診しました。診断は「カポジ水痘様症」。アトピーの患者がかかりやすい病気で、アトピーで皮膚の弱ったところからヘルペスウイルスに感染する、と説明されました。皮膚が弱ったからではないのです。ステロイドで免疫を下げ続けた結果、ウイルスの侵入、増殖を許していたのです。そして、この水疱が発生したことで結果的にステロイドの使用を中断することになり、抑えられていた免疫が爆発したように異物の排出を始め、皮膚が崩壊してしまったのです。いわゆるリバウンドです。当時の私はこういう理解ができていなかったので、ただおろおろし、女の子なのにこんな顔になってしまって、どうすればいいのだろうと頭を抱えました。翌朝その病院の小児科を受診して、水疱瘡ではなかったが、カポジでも処方される薬は同じなのでそのまま続けるように言われ、眼科と皮膚科に回されました。感染症ということで、奥まった廊下で待たされましたが、そこを通って行く看護師さんがみな娘の顔を見て驚き、「かわいそうに」と言葉を洩らすのがとても辛かったのを覚えています。眼科では、まぶたの腫れとただれはあるが眼球は異常なしと言われてホッとしました。皮膚科では、ずるむけになった顔と体にテラジアパスタという抗菌の塗り薬が塗られました。「水疱の跡が「とびひ」になっている」と言われ、抗生物質の飲み薬が処方されました。娘は抗生物質で下痢をするのでそれを伝えると、整腸剤も出され、アシクロビルと合わせて一体この小さな体でどれだけ飲まなければならないのかと思うほどの大量の薬が袋に入っていました。この皮膚科にはこの後も通院を続けるのですが、水疱の後にどんどん出てくる湿疹(リバウンドによるものだったのでしょう)を娘が痒がっていると言うと、アレジオンやアレロックという抗アレルギーの痒み止めの飲み薬を出されたり、皮膚がめくれた部分から浸出液が出続けて上皮化しないとみると、菌の種類と抗生物質が合っていないと言ってまた別の抗生物質が処方されたりして、娘の体はどんどん薬漬けになっていきました。私は医療に関しては全くの素人ですが、この薬の量には不安になりました。こんなに飲んで大丈夫なのか?それに、飲んでも飲んでも一向に良くならない・・・。数種類の抗生物質を飲み続けて娘は下痢をしましたが、その後は便秘になり、真っ黒く固い便がポロポロと出ました。腸内細菌叢が壊滅状態にあることがわかりました。何度目かの診察で、もう一度抗生物質を変えると言われた時、「娘はモルモットじゃない!」と怒りに似た気持ちがこみ上げてきました。医師には何も言い返しませんでしたが、その日を最後にこの皮膚科の受診をやめました。
眼科でも同じことでした。ただれたまぶたが治らず受診を続けていましたが、やはり「菌が入っている」と言われ、眼軟膏が処方されるのですが良くならず、薬が変わります。それを塗ると娘のまぶたはお岩さんのように赤紫に腫れ上がり、娘の体がその薬を拒否しているのがわかりました。医師は娘の顔を見て絶句していました。私は「もう薬は塗りたくありません。」と言って静かに診察室を辞しました。
もうこの病院には頼るまいと、連日インターネットで治療について検索する日々が続きました。キーワードは「脱ステロイド」。でも、だいたいどこの病院のホームページにも、同じようなことが書かれているばかりで、病院を変えたところで今までと大差ない治療しかされないだろうと思われました。どうしたらいいのだろう。娘は奇病なのか・・・。途方に暮れていた私の目にある日、飛び込んできたのが、一人の患者さんの手記でした。ステロイドを一切使わず、漢方でアトピーを治療する病院がある・・・。急いでその病院のホームページを見てみました。「ステロイドは麻薬」「病気を治すのは患者自身の免疫」これまでかかった医師とは違う、自信と熱意が伝わってきました。それに、膨大な量の手記と医師の論文。読めば読むほど、全てがつながるというのか、なぜ娘がこんなことになったのかの合点がいくのです。気がつくと夢中になって読んでいました。そうか、そうだったのか。ああ、今まで何をしていたんだろう。でも、やっと辿り着くことができた・・・。光が見えてきたように思えました。後は場所です。調べてみると、高槻市にあるといいます。「通える!」私たちは京都に住んでいますが、高槻までの距離なら問題ありませんでした。もう病院は信用できないと思っていた私でしたが、この病院で娘の治療を受けることに決めました。それほど、手記や論文には説得力がありました。この病院こそ、松本漢方クリニックだったのです。
早速高槻へ向かいました。片道1時間の距離を、祈るような気持ちで車を走らせました。ホームページで見た写真の通り、ドーナツ屋さんの2階にその病院はありました。ドアを開けると、初めて嗅いだのに懐かしいような、不思議な匂いがしました。漢方薬の匂いでした。受付には「ステロイドは一切使いません」の大きな文字。ステロイドが欲しいなら、即効性を求めるなら、よそへ行って下さい、ということなのだなと思いました。医師の強い信念が窺えました。
受付で初診であることを伝え、ホームページに書いてある通りに、記憶の限りの詳しい問診票をあらかじめ書いておいたので、それを提出しました。以前にアレルギーの血液検査もしていたので、その結果表も一緒に出しました。(娘は食物アレルギーは皆無でした。アトピーが食べ物そのものではなく、食べ物にくっついている化学物質によって起こることがわかりますね。)私はやや緊張しながら待っていましたが、場所見知りの娘がなぜかリラックスした様子だったのを覚えています。2歳の娘はじっと座って待っていることなどできません。娘の様子を見ていた、やはり同じぐらいの女の子を連れたお母さんが、絵本やぬいぐるみを持ってきてくれました。娘の顔を見て、「大変ですよね。でも、ほんとに治りますよ。」と笑顔で言ってくれました。治療について説明しに来られた看護師さんも、娘の顔を見ると「まぁ、こんなにひどいことになって、かわいそうに・・・でも、大丈夫ですよ。よく来てくださいました。」と声をかけて下さいました。ああ、この病院でも娘の症状はひどい方なのだな、と思いましたが、こうやってスタッフの方や患者さんまでもが温かく迎えてくれる病院の雰囲気に、安心感も覚えました。
名前を呼ばれ、診察室に入るとそこに松本先生がおられました。一風変わった感じのおっちゃんでした(先生ごめんなさい)。問診票に、治療の理論を理解している、と私が書いていたものですから、先生はいきなり私に質問を投げてこられました。「病気はなんで起こるんや?」「い、異物を出すためです」「異物って何や?」「えっと、ウイルスとか、化学物質とかです」「化学物質なんか無限に入ってくるぞ。どうするんや?」「共存していくしか・・・ありません。」先生の迫力にしどろもどろになりながらも、読んできた手記や論文で腑に落ちていた通りに答えました。圧迫面接みたいやなぁ、と私がドキドキしていると、いかめしい顔つきの先生が笑顔になり、「よっしゃ、よう勉強してきたな。」と握手してくださいました。その手の温かさに、「治る」という思いを実感として持つことができました。肩の力が抜けたような気がしました。
この時の娘の湿疹は、顔、首、背中、両腕と上半身全体を覆い尽くしていましたが、一目見て先生は、「ああ、これはな、全部ヘルペスや。アシクロビル飲んで、塗り薬や。あとは、漢方で免疫を高める。」とあっさり言われました。あれほど何回も診察を受けてはとっかえひっかえ薬を出されていたのは何だったのかと、拍子抜けするほどでした。先生は娘に「大丈夫、大丈夫。治るで。かわいい子やな。」とニコニコ話しかけてくださいました。人見知りの娘ですが、泣きもせず、先生の顔をじっと見ていました。娘にも、先生の自信が伝わっていたのかもしれませんね。
先生の診察のあと、看護師さんから薬草風呂と塗り薬の丁寧な説明を受けました。薬草風呂は、真空パックされた生薬を、湯船に3分の1ほど張った熱湯に入れて蒸らし、エキスを充分抽出してからお湯を足して適温にし、なるべく長い時間浸かるというものでした。娘はまだ2歳で体が小さいので、薬草は一度に半パックでよく、プラスチックの衣装ケースで同様にすると良いと教えてもらいました。蒸らした薬草を絞る際、最初の絞り汁をとっておき、化粧水のようにパッティングするようにも言われました。塗り薬は、娘の場合はヘルペスウイルスに感染しているので、まず抗ヘルペス剤の軟膏を湿疹にすり込み、その上から炎症を鎮める中黄膏という漢方の塗り薬、さらに傷を癒す紫雲膏という赤い塗り薬をよくすり込みます。(この2つは本当に鮮やかな美しい黄色と赤色をしています。私は染色をやっていたのでわかりますが、ウコンの黄色と紫根の赤です。どちらも古来から人々に珍重されてきた天然の染料であり、薬草です)。最後に、傷の化膿を防ぐため、エルタシン軟膏という抗生物質の軟膏を塗ってくださいとのことでした。あとは、毎食後にアシクロビルの粉薬を服用するように言われました。
ここまでが医院での診察で、医院でもらう薬はすべて保険適用外なので、会計時に払った代金は2万円ほどかかりました。(誤解のないように書いておくと、先生は診察代をほんの少ししか取っておられません。抗ヘルペス剤が保険適用になるように先生はずっと戦っておられます)保険の利かない薬を買うことで、医療費というものがどれほど莫大なものなのかがわかりました。今までにかかった病院で、無駄に国の医療費を使っていたんだなぁ、と考えたりしました。
その後は、医院の裏手にある薬局で煎じ薬(飲み薬)の処方を受けます。出てきたのは本当に「ザ・生薬」という感じの、木粉や草の入った袋でした。これを鍋で30分煮出して飲むように言われました。小さな子どもですから、苦くて飲みにくいため、ハチミツを入れたりリンゴジュースで割ってもよいとのことでした。この薬は保険が利くので、数百円で済みました。
たくさんの薬が入った大きな袋を抱え、娘を連れて帰りました。でも、同じ大きな袋でも、「こんなに飲ませたくない。」と思いながら持って帰った時の気持ちとは全然違いました。真剣に、娘の治療に取り組もうと思いました。娘はその時すでに2ヵ月も保育園を休んでいました。私は教員をしていますが、その帰り道に休職を決意していました。この治療の経験が、必ず多くの人の役に立つだろうと思ったからです。翌日、上司に休職したい旨を伝えました。娘の写真を見せると、上司も、同僚もみな、「すぐ休んであげて!」と言ってくれました。「先生は代わりがいるけど、この子のお母さんはあなたしかいない」と。ありがたくて涙が出ました。この時理解を示してくれた上司、同僚、そしてクラスの子どもたちと保護者には、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。手続き上、休職するには医師の診断書が必要でしたが、松本先生は快く診断書を書いてくださり、私は2ヵ月間の介護休暇を取ることができたのです。
しかし、ここからが本当の闘いでした。治療は壮絶を極めました。医院のホムページからも、先生のお話からも、治療を開始してからきついリバウンドが起こることは覚悟していましたが、あまりにひどい娘の症状に、私は辛くて胸が張り裂けそうでした。全身を掻きむしって血を流し、その痛みに泣き叫ぶ娘の声に誰かが通報し、深夜1時に警察が来たこともあります。その時の二人の警察官さえ、娘の顔を見て言葉を失っていました。「アトピーの治療中です。痒みと痛みで泣きます。お騒がせしてすみません。」と頭を下げるしかありませんでした。「そうでしたか。大変ですね。どうぞお大事に。」と言って警察官が帰った後、私は娘を抱き、床にへたり込んで泣きました。一体どうしてこの子がこんな目に遭うのだろうと思いました。それでも、心のどこかに確信がありました。この2ヵ月でこの子は絶対に回復する・・・。その確信の根拠となったのが、あの乳児湿疹の時の娘の回復力だったのです。松本先生が何度も言われました。「治すんはわしやないぞ。この子自身や。この子の免疫力が治すんや。」先生の言葉とあの時の回復力の記憶が、私に勇気をくれました。負けるもんかと思いました。ただひたすら、先生に教えられた通りに治療に専念しようと思いました。
娘の具体的な経過についてです。松本漢方クリニックでの治療を始めるとまず、ものすごい量の浸出液が湿疹から吹き出すように出ました。お風呂で顔と体を洗い流し、薬草風呂に浸けて上がると、湿疹が乾く間もなく浸出液が染み出してきます。急いで教えられたとおりに塗り薬を塗るのですが、浸出液で薬が浮いてしまってすり込むことができません。仕方なくベタベタのまま寝かせるのですが、翌朝になると浸出液と薬の混じったものが髪の毛を巻き込んでいます。顔じゅうにへばりついた髪の毛をはがし、目を開かせることから一日が始まります。日中は退屈して外に出たがる娘ですが、浸出液がダラダラ出ている状態ではなかなか連れ出せず、スーパーに買い物に行くのがせいぜいでした。しかも、どこに行ってもみんなが娘を見て振り返ります。小さな子どもなどは遠慮がありませんから、じーっと娘の顔を覗きこむのです。当の娘はそんなことはわかりませんから、屈託なく覗き返すと、やはり娘の顔が怖いのか、逃げられてしまいます。見ていて胸が痛みました。家で食事をし、昼寝をさせ、人がいなくなる遅い時間に公園に連れていって遊ばせました。幸い夏だったので、7時頃まで明るくて助かりました。夜は食事のあと薬草風呂を用意し、30分~40分、長い時は1時間近く浸からせました。紫色のお湯におもちゃをたくさん浮かべ、歌を歌ったり、絵本を読み聞かせたり、いろいろ話しかけたりして、できるだけ長く浸かれるように工夫しました。暑い夏だったので、嫌がってぐずることもありました。それでも、よく頑張ってくれたと思います。時には、私も足湯のようにして膝から下だけ一緒に浸かりました(何せ衣装ケースなので、私は入れないのです)冷え性の私ですが、この薬草風呂で足湯をするととても温まりました。夏ですから汗がたくさん出ました。お風呂から上がると、また塗り薬です。患部が広範囲に及び、薬は4層に塗らなければならないので、塗り終わるまで1時間以上もかかりました。くたくたになり、やっと娘が寝てくれたとホッとするのもつかの間、1~2時間おきに痒みで目を覚まし、掻きむしります。特に手首から腕の痒みがひどく、血まみれになるまで掻いてしまいました。先生は「掻きたいだけ掻かせたらええ。」と言われましたが、皮膚がなくなるのではないかと思う勢いで掻くので、心配でした。流れる血を拭き取り、その傷口にエルタシン軟膏を塗ってまた寝かせる、の繰り返しでした。私自身が疲れきって気絶するように寝てしまうこともたびたびでした。朝になって目が覚めると、髪の毛が貼り付いた娘の顔と、血だらけのシーツにため息が出る。そんな毎日が続きました。
薬草風呂、塗り薬、アシクロビルの服用と煎じ薬、この4つの治療を続けて1ヶ月が経った頃、娘の症状に変化が出てきたことに気づきました。浸出液でグシャグシャだった皮膚が少しずつ乾いてきたのです。湿疹のあとが鱗のように浮いてきて、あとからあとから剥がれ落ちました。シーツの上が落屑だらけになり、血だらけのシーツを洗濯する毎日が、今度はベッドに掃除機をかけ、粘着テープをコロコロする毎日になりました。何度も何度も脱皮のように皮膚が剥がれたあと、ほんのわずかずつですが、新しい健康な皮膚が隙間からのぞくようになりました。そう、あの時と同じです。乳児湿疹が治った時と同じように、崩壊していた皮膚が回復し始めたのです。この頃、下半身にもポツポツと赤く小さな発疹が出ていたのですが、それはひどくなることなく消えていきました。下半身には一度もステロイドを使ったことがなかったからでしょうか。一番頻繁にステロイドを塗っていた手首周辺には、しつこくいつまでもヘルペスの発疹が出続けていました。
湿疹が乾いてくると、娘はどんどん元気になっていきました。浸出液が出ていた時は、ぐったりするとまではいかないまでも、何となく覇気がなく、食欲もやや落ちぎみでした。治療にあたり、先生から注意するように言われていたのが、熱がないかどうか(感染症にかかっていないか)、おしっこがちゃんと出ているか、体重が落ちていないかの3点で、毎日体温と体重を測っていたのですが、確かに体重の増えはピタリと止まっていたのです。「浸出液とともにたんぱく質が失われる」とどこかに書いてありました。浸出液が止まり、食欲が戻ると体重は見事に増え始めました。「峠を越えた。」と思いました。鱗が落ちたあとにようやく状態のわかる皮膚が見えてきたのですが、円く小さな赤いかさぶたがたくさんできていました。ヘルペスによる発疹を掻いて出血したあとでした。2週間おきに先生の診察を受けていましたが、このかさぶたを見ると先生は、「まだヘルペスがおる。アシクロビルの服用を続けて。」と指示されました。薬草風呂は終わり、塗り薬、アシクロビル、煎じ薬の治療が続きました。娘はどんどん脱皮し、治療開始1ヵ月半頃にいわゆる“アトピーらしい”カサカサした肌荒れのような症状が肘と膝の裏に出始め、時々足にじんましんが出るようになりました。じんましんが出ると治癒が近づいている、とホムページで読んでいたので(IgE抗体が消費され尽くした証拠)うれしくなり、先生に「じんましんが出ました!」と報告すると、「おう、よく勉強しとるな」とニヤリとされました。
こうして2ヵ月が経ち、私の介護休暇が終わる日がやってきました。娘の肌はすっかり乾き、顔や腕、膝裏には少し湿疹が残っているものの、背中や首はほぼ正常な状態の皮膚に戻っていました。すっかり元気になっていた娘は喜んで保育園に行き始め、私は無事仕事に復帰することができたのです。まだ手首に痒みが残っており、掻いて出血することがあったので、毎日エルタシン軟膏を持たせての登園でしたが、保育園では退屈することなく楽しく過ごしていて気が紛れるのか、掻きむしることはほとんどなく、エルタシン軟膏の出番も一度だけでした。
それからさらに3ヵ月間、塗り薬、アシクロビル、煎じ薬の治療を続け、ヘルペスによる発疹は消失し、手首、肘と膝の裏にほんの少しのカサカサを残すのみとなりました。治療開始から6ヵ月、前回の診察で、アシクロビルの服用が終わりました。現在は赤と黄色の塗り薬、煎じ薬の治療のみです。顔は子どもらしいつるんぷるんとした皮膚を取り戻しました。娘の症状を知っていた人は、みな一様に驚きます。「こんなにきれいに治ったん!?」「こんなに早く!?」と。あともう少し皮膚が完全に元の状態に戻るまで、漢方の治療を続けているところです。
③治療を通して
私は、松本漢方クリニックの治療に出会い、アトピー性皮膚炎というものの正体を知ることができました。原因は、私たち人間が利便性や経済性、刺激などを求めたために開発されてきた、何万種類もの化学物質です。糖分や脂肪、カロリー過多の飽食にも要因があるという説もあるようです。いずれにせよ、他のアレルギー疾患同様、近世以前には存在しなかった病気であることは確かで、「奇妙な(atopic)」という意味の病名が付けられたのもうなずけます。
化学物質という毒が身体に溜まった結果、病気を引き起こす、その一つがアトピーである、と知ってからは、私は娘が摂取するものにとても気を遣うようになりました。経口、経皮どちらからも、なるべく毒を摂らないように努力しました。先生には、それでも追いつかないほどの化学物質が無限に入ってくると言われましたし、論文には、原因を除去することで却って免疫寛容を起こすのを遅らせてしまうとも書いてありました。しかし、たとえ自己満足であっても、焼け石に水であっても、できるだけのことはしたいと思ったのです。治ってから先も、その生活を続ければよいと考えました。また、そうするためには無理は禁物、普段の生活の範囲内でできることだけをやろうと思いました。
娘に食物アレルギーはないので、食べ物の除去はしませんが、レトルトや冷凍食品などの加工食品、農薬や添加物や化学調味料の入った食品を避け、極力手作りで食事やおやつを作り、和食中心の穀物菜食を心がけました。保存料の入ったペットボトルのミネラルウォーターをやめ、水道水を浄水器に通した水を使いました。家じゅうのすべての合成洗剤を破棄し、石鹸に替えました。
娘は漢方治療を受けていたため、この生活の変化が身体にどれほどの影響を与えたのかはわかりません。もしかしたら、治療を遅らせていたかもしれません。しかし、別のところで顕著な変化がありました。母親である私の身体に、異変が起こったのです。まず、産後の時のように髪の毛が大量に抜け、風邪も引いていないのに緑色の粘性の強い鼻水と痰が2週間ほど出続けました。身体がだるく、常に強い眠気に襲われました。また、背中とふくらはぎに強い痛みがありました。それから娘と同じようなヘルペスの発疹が身体のあちこちにポツポツと出て、ピリピリと痛みました。鼻の中にできた発疹はただれ、鼻の穴から唇の上に広がって強い痛みを伴いました。以前の私なら、このあたりでどこかの病院にかかっていたでしょう。でもこの時の私には、これが毒の排出であることがわかっていたので、自分の免疫力を信じて、じっと我慢しました。やがてこれらの症状は去り、新しい生活に身体が慣れてきました。
娘の治療を続けながら、生活を変えながら、本やインターネットでいろいろな情報を調べました。そんなある日、ある記事を見て私の手が凍りつきました。「女性にとって、人生最大のデトックスは出産。赤ちゃんは、母親の体内に溜まった毒を引き受けて出ていく。産後に体質が変わるのはそのためである。多産の女性に元気な人が多いのは、子どもを産む度に身体が綺麗になっていくからである等々。」さらに、現代では赤ちゃんは卵子と精子の段階ですでに化学汚染されていると・・・。出産を終えてもなお、私の身体から出てきた夥しい量の化学毒。娘がこれほど重度のアトピーを発症したのは、私の身体に溜まっていた大量の化学毒を背負ってくれたからなのか。愕然とし、娘への申し訳なさで胸がいっぱいになり、グシャグシャになった娘の寝顔を見ながら泣きました。ごめんね、ごめんね、と何度も謝りました。
この説の明確な根拠を調べるには至っていませんし、医師である松本先生がこれを読んでどう思われるかはわかりませんが、私は今でも、娘に背負わせてしまったものの責任は私自身にあると思っています。だからこそ、絶対に治してあげたいと、頑張ることができたのです。
さて、このような私の身体の変化や、娘の劇的な回復を目の当たりにして、私の周囲に少しずつ、耳を傾ける人が出てきました。松本先生の「病気は患者自身の免疫で治す。」という考え方にです。特に、小さな子どもを持つママ友が多いので、ちょっと風邪を引いて病院にかかっては何種類もの薬を出されることに疑問を感じたりしているようです。たくさん薬を出し、頻繁に診察をすればするほど、病院は儲かります。患者が、薬に頼らず自分の免疫で病気を治すようになれば、多くの病院が廃業となるでしょう。有名なヨーロッパの言い伝え「トマトが赤くなると医者が青くなる。」と同じで、さしずめ、「患者の免疫が上がれば医者が病気になる。」といったところでしょうか。もちろん、救急救命や感染症の治療などにおいては、医療はなくてはならないものですが、もはや治療行為ではなくビジネスと化してしまった医療がはびこっているのも事実です。多くの患者は不安を煽られ、医療ビジネスに巻き込まれてしまっている状態です。
こんな世界にあって、孤軍奮闘されているのが松本先生です。たった一つの真実を盾にして、一人で戦っておられます。孤独な戦いであっても、自分の辿り着いた真実に絶対の自信があるからこそ、続けられるのだと思います。かの医聖ヒポクラテスは、ギリシアの地でこう言ったと言われています。「人間には生まれつき100人の名医がいる。」名医とはすなわち自己免疫のことです。松本先生は2400年前と何ら変わらない真実を掲げておられるのです。ところが、今や医学界では、この「自己免疫」という言葉そのものが抹殺されようとしているそうです。私たち患者は、溢れかえる情報の中から、真実を選び取らなくてはなりません。誰でも簡単に、膨大な量の情報を手に入れられる時代であるからこそ(私自身も、インターネットがなければ松本漢方クリニックを見つけることはできなかったでしょう)、メディアリテラシーが必要不可欠になってきます。教育界では「生きる力」が叫ばれるようになって久しいですが、生きる力の一つとして、自分で選択する力、真実を見極める力をつけていかなくてはならないのではないかと思います。
④おわりに
私にとってこの半年間の治療は、決して楽なものではありませんでした。一体娘の身体はどうなってしまうのか、なぜ娘がこんな目に遭うのかと絶望的な気持ちになったこともしばしばです。それでも、家族や友人や同僚の励ましや協力があって、続けることができました。何より、娘自身の笑顔と回復力が私を支えてくれました。松本先生はいつも泰然とした態度で、私に安心感を与えて下さいました。周りの人すべてに感謝の気持ちでいっぱいです。
そして今となっては、娘がアトピーを発症したことが、私にとってチャンスになったと思えるようになりました。気づかなくてはならないことがあったからこそ、娘はこのような形で私に警告を投げてくれたのだと思います。娘のアトピーを通じて私は松本先生に出会い、多くのことを知り、学ぶことができたのです。
現在病に苦しんでおられる方へ。みなさんに私ができることは、メッセージを送ることだけです。どんなひどい状態であっても、必ず治ります。ホームペジに載せられている多くの手記と先生の論文を読み、治るという確信を持って、ご自身の力を信じて、治療に臨んでください。
松本先生、お世話になりました。私は、先生はガリレオガリレイのような人だと思っています。世渡り下手なところも・・・(ごめんなさい)。それまでの常識を覆す発言をする者は、異端とされるのが世の中です。でも、もうすぐ新しい時代がやって来ると思います。嘘は見破られ、真実が人を救う時がきっと来ます。先生が治した患者さんたちがそれを押し上げてくれるでしょう。私はそう思っています。娘の治療もあと少し、どうぞよろしくお願いします。本当にありがとうございました。