アトピー性皮膚炎 0〜9歳の患者さんの手記 その26目次
「アトピー手記」匿名希望8歳2006年9月11日
「アトピー手記」(お父様記述)匿名希望5歳2007年5月2日
「アトピー手記」(お母様記述)匿名希望4ヶ月2005年2月5日
「アトピー手記」匿名希望8歳2006年9月11日
「アトピー手記」(お父様記述)匿名希望5歳2007年5月2日
「アトピー手記」(お母様記述)匿名希望4ヶ月2005年2月5日
まず最初に松本漢方クリニック、松本仁幸という男に出会えた事に感謝し、御礼を申し上げたい。親子ほども年の離れた先生を男などと申し上げ、今から記す数々の御無礼をお許し願いたく、手記とやらになるか不安ありげに始めていきたい。
ここに記すのは医学書でもなく、患者の皆様の励みにもなるような物ではないが、素直に感じ、行動したままを記したもので、松本仁幸に対する逆の領収書のような物である。領収書といえば何の事か。違う言い方にすれば世界医学に対する松本ピストルの弾のひとつ?とでも言えば良いか。闘いに出るときのコマの一つとでもいうべきか。この位にしておいた方があたりさわりがないであろうから、そろそろ本題に入りたい。
今から7、8年前の事になる、私の娘(当時、7、8ヶ月)がアゴのあたりを手でゴシゴシとやり始めた。最初はあまり気にもせずに、いたのだが日に日に赤みを帯び、少しジュルッとしているようでよく他部を見ると耳に少し、手・足の関節の辺りにも少しではあるが赤く同じようなことになっていた。しかし、四六時中ゴシゴシとしている事も無いので、ベビーオイルを塗り幾日か過ぎた頃、お昼寝の前や就寝前などぐずりながらお布団にあごをこすりつけ、グズグズと機嫌が悪くなってきた。あごは皮がむけているようであった。無知で阿呆な私は(この時点では阿呆とおもっていない。逆に妻に対して自信満々で)「リンデロン塗っとけ!」「一発や!」と薬嫌いな妻の注意も軽く聞き流し、リンデロンを数回使用した。自分の子供を逆に苦しめる事になるとは微塵も感じる事も無く。
というのも、私はどちらかというと祖父母になついて幼少を過ごしてきた。その祖父母は戦時中、軍医の真似事みたいな事をしていたので西洋の医学に少々感心ありで、私が怪我などをするとリンデロンを塗ってくれたのである。後で松本漢方クリニックにお世話になる私の母もリンデロンを使用していた事と思うのは、不思議ではないであろう。
ここに世界中の医学?医師が商売人になってしまっている。予想ではあるが医師を志す人は最初は誰しも汚れなく純粋に人々を病より救ってあげようと考えていると思う。今では少ないかもしれないが!だから私などは風邪を引いても医院に行く。医師に治してくれ!病院にいくと治ると信じて生きてきたのである。(松本先生に出会い変わっていくのであるけれども・・・)話がそれたが、娘は私により、リンデロン(ステロイド人間の一歩)を拒む事無く勝手に体内に親により塗りこまれた。今反省しているが・・・。
やはりステロイドの力はすごいもので、一発であった。一発でジュクジュクもなくなり今まで何があったのかという位の効き目で嫌がる妻を嘲笑うように「リンデロンやろ!みてみろ!」と自慢顔であった。ところが、ところがである。幾日かたった頃、またゴシゴシをやりはじめた。見てみるとまた赤い?またジュクッとして何で?「また塗れや!」という私に妻は「嫌!」。ほんだら皮膚科とまず、町の皮膚科に行くことになりました。(まだこの時点でも医師になんら不安感を持っていないおろかな私がいます)診察の結果、現時点でははっきりとした事は分からないが、幼児なんたらかんたら湿疹といったような話しで、塗り薬を処方されたように回想する。しかも、この時、妻は「ステロイドは入っていないのですか?」と聞くと、何かあやふやないい加減な返事だったようで今から振り返ると妻はその薬をあまり使用していなかったように思える。娘の様子はというと、良くなることなく悪化しているようであったので、次の病院、また次へと連れて行ったが、結果はどの病院も同じで、医学の知識のない一般人には何ら手立てがなく、日々あごをこすりぐずる娘を黙って抱っこし、眠れない娘を夜中のドライブに連れて回り、妻も何とか策はないかといろいろな人に聞きまわっているという日々が続いた。その頃、私の両親、近所に住む伯母、そして祖父などが毎日様子を見に来ては医者の指示によるかきむしり対策の黄色いシミのついた手袋を見て嘆いた事を思い出す。亭主関白なワンマンの私の父などはかわいい孫の姿を見ては抱き、私に「早く何とかしろ!早よ治してやれ!早よ病院や!東北の方に治す医者がいる。金はええから連れて行け!」とよく言っていた。東北にいる医者というのは父がどうやらテレビで見たらしく、ハッキリとはしないが、水を一日に何リットルも飲み、体中を包帯でグルグル巻きにベットに縛り付けて・・・。というなにやら良く分からないが良くなってくる映像が頭にあったらしい。今でも良く分からないままであるが、このような病院が全国に多数点在して、私のような阿呆は行ってしまうということになる。私は商売人であるから、「もう一度小学生に戻る事が出来れば勉強をしっかりとして医者になりたいなぁ~。きっと儲かるやろうなぁ。」妬む事しか出来ないのが恥ずかしい。まあ、冗談であり幼少の頃の父の「勉強しとけ!」という言葉を今感じ、子供たちに言う私であるが。
また話はズレたが、そうこうしていた時伯母の所からひとつの情報が舞い込んだのである。それは「高槻にある松本漢方クリニックで何処に行っても治る事のなかったアトピーが完治し、今は元気にツルツルで学校に行っている。早く松本漢方クリニックに行ってよかった。」などという話しであった。そうそうその頃、娘は高槻日赤に行きアトピーという結果が出た頃であったと思う。もう何処に行っても、何をやっても無理、結果は同じ、しかし何とかしてあげることは出来ないかと私達は半分諦めかけこのまま大人になり嫁にもやれず、人様の前で笑顔も見せれない娘とずっと・・・。そんな気持ちの前に撃鉄が鳴ったような知らせ。電話番号をもらっていたので、その場で電話をした。遠い昔の事である。
今よりもっともっと漢方臭さがあり、臭いというと今飲んでいる患者さんには申し訳ないが、その頃西洋医学の病院しか行っていないのであるから、漢方はにんにく(好物)よりもキツかった。そんな部屋の奥に、今より倍程もある体の、光るバックル。一見どちらの組の方という様な医者には見えない胡散臭そうな、そう松本仁幸が大きないすに座っていた。皆様はもう知っている、完治する事がない病気を完治させる、させる事を論ずる男であった。
まず、早口な先生のペースにはまりそうになる。私は本物か偽物か感じたかった。今まで少々やんちゃな事や、それなりに頑張ってきた全てを自分の武器にするかのように私のアンテナを張り、話そうとした。確かめたかった。ここが最後、ここしかないという気持ちを胸に、診察室の第一印象で一か八かと感じた時にもう心は、私の気持ちは何パーセントか松本仁幸に許していたのかと回想する。徐々に話し、疑問点・本当に些細な疑問も先生にぶつけた。先生は早口のまま答えてくれた。今までになかったハッキリとした答え、他の病院にはまったくなかった安心を得た。先生の答えに安心した。もう何年も前のことなので忘れているが(そうそう皆様は忘れないうちに手記を書いたほうが・・・)その頃、手記も今ほどなくわずかな量であった様に思う。しかしその手記を読んだ。みな苦しい闘いの末、完治とある。完治!誰もが先生に医院の方々に感謝している。また、安心した。それとまだインターネットのページには、今の理論が掲載されていなかったように思う。
そこで、(話は前後になり悪いが)皆様はもうインターネットでしっかりと自然後天的免疫寛容を理解のうえで来院されているのだから、あまり心配はないでしょう?理論上は、しかし心の底から、頭で分かっていても、でもということが今後少なからずやって来る時もあろうかと思います。その時は、その時は、何も考えずただ松本仁幸を信じる事をお願い致します。
更にまた戻りますが、松本仁幸の言葉を思い返し私が先生に全て一任し、まな板の上の鯉になったのはまず、第一に握手。私もたいがい握手してきた。初めて会う人には!それを先生は身形とは反して笑顔でやってきた。今までの医者にはない!ん?「こいつ!」なにやら理論的な話しを次に話されたように思うが、私にはまったく持って必要なし。今までそこいらを必要として生きて来ていないから!そんなんどうでもええ、ただ治るか、治らないか、ただそれだけでいい!次の話しは「お前ポルシェ乗った事あるか?俺はある」若い時に金をつかんでる人やな、金には私も少々の考え方がある。大金を手にした事はないが・・・。金はなくては生きていけない。大金をつかむには、悪い事か、よほどの頭が必要であろう。私は奇麗事に惑わされて・・・と考えていると、「人の治せぬ病を治し金を稼いで何が悪い!」気持ちよく心に響いた。嘘が無い本当の治療で!他の医師の治すと言う言葉を聞いたことが無い私は、車から始まり、金ときて「治す」これでほとんど90%松本教という私なりの宗教団体の会員に、松本教祖に気を抜かれてしまう事になる。私の心は、この人は純粋に治すと言った、言葉、身形は悪いが純粋な人かもしれない。金にどれ程の・・・。やけれども、私も着物を売っている。良い品は高い。同じでしょ。先生にしか出来ない事は高い。そりゃそうやろう。かまわない治してくれるの?話しはどんどん進んでいって、皆様が毎日やっている松本漢方クリニックでやりなさいと言われる事を教えてもらい、採血となりかけたその時、今でも忘れない「こんな小さな赤ちゃんに針を刺してやるのはかわいそうや、血なんか今はええ!」よしよし、頭を先生がなでた姿を見て、また決めた。最後に「君とはフランクな付き合いが出来そうや!」握手。自宅の電話番号をそっと手渡してもらい、決定。どんなこと、何があっても先生の指示通り必ずやり通します。と、何があっても男一匹やり通します。だから先生お願いします、こんな単純なしかし心の問題で娘を預ける決心をし、アトピーと闘う事となるのであるといっても、辛いのは幼い娘で私達ではなかったのだが・・・。
ここで述べたいのは、治療に専念し、諦めてしまいそうになる人もいて、しかし数々の疑問を感じている人に言いたい。「先生、いつ治りますか?治してくれるのならどうですか?」「こうこうやってるけど、こんなんでいつですか?」と聞いてしまったり、不安に駆られる事があるでしょうが、先生もいつなんてわからないであろう。そんな時は、又今なら理論を読み返し数々の疑問点を、数々の注意すべき点、先生からポイントを教えられているはずだからそのポイントだけを気にして、注意して強い気持ちで先生を信じ、乗り切って頂きたい。診察室に入り、長時間待ったにもかかわらず色々な患者さんからの電話に先生は対応している。その電話はもちろん報告もあるであろう。不安に対する質問であろう。その先生からしてみれば、余程のことが無い限りいらない電話と思う。しかし、患者はその電話で助けられる。だからその辺りをうまく利用して、苦しみを乗り越えて頂きたい。先生のいう事だけを繰り返してやれば、必ず笑顔が来るであろう。松本理論にはまったく触れないがインターネットがあるからいいであろう。
私の娘は、辛い日々を約二年闘い、今ツルツルで小学校三年生になるのだが、それにはまず、家族が一丸となり松本仁幸のお教えを守り、治らないという病に闘う事。私はその間、友達・仕事の誘いを断り夜は家にいた。昼もいる時があった。妻は夜ほとんど眠りにつくことなく、朝になると私の父・母・伯母などが娘の世話をしてくれた。まず協力して普通の体に戻すという事を第一に考える。家族全体で。これだけで本人も、また周りの人々も違う余裕が出てくるはずである。これなくして、松本教は完成しないのではないだろうか?
いくら先生が話し、治してあげようとしても、本人・家族の助け、理解がなければ幾万という患者を先生は助けてやる事は出来ないと思う。
朝、お風呂の準備をする。私の所では、ガスコンロでアルマイトの鍋に昔はビニール袋に入っていた薬草を袋に移し、沸騰させて風呂に貯めた湯の中に入れ、またその湯を鍋に取り、又沸騰させる。それを繰り返し、一時間半から二時間繰り返す。もちろん一番絞りは消毒液を流す為に取っておくが、その間妻か誰かが子供を抱っこし、イライラを紛らわす。
次に全身の消毒開始。しみたり、体がパリパリになったりで泣く。お尻をたたきながら我慢させ、5分位待つ。寒い時などは部屋で新聞を敷き、じっとさせていた事を思い出す。
その後、一番絞りで洗い流し。娘と一緒に入浴、できるだけ長く長く。ジュースを飲ませたり、皆が気を紛らわせたりと大変であった。
風呂から上がると、赤い薬。あんなに小さいのはすぐになくなり、パジャマは天然の色に染まり白いパジャマは薄汚れた紫色に!ジュクジュクした所は赤い薬をつけてもすぐに汁気を持ちしばらくするととれてしまう。また一番絞りで赤い薬の残りを拭き、消毒か赤いやつを塗る。そしてまた夜、風呂の薬草効力があるうちに入浴させた覚えがある。比較的アトピーも軽い様なので早く治るとの事であったが、私のリンデロンや数々の免疫抑制剤のためか約二年間闘う事になるのである。
重複するが、とにかく握手の後に「君とはフランクな付き合いが出来そうや!」とまで言ってもらい、信じてやっていこうと決めたのだから完治するまでいわれた事を何の疑いもなく実行するのみ。先生の指示以外のことは何もしない。何かあれば、どんな小さい事でも電話をした。患者さんは沢山いるが、信用した先生は一人しかいない。あつかましくも聞いた。とにかく、教祖と信者の精神であったと思う。
初診の帰りにアルマイトの鍋を買い、初めての消毒と風呂。消毒液を全身に塗り、5分ほど待つ。体がパリパリになるのが気持ち悪いのかピーピーぐずる。出来るだけ長く風呂に漬けたいのだが幼児なのですぐに顔が真っ赤に「がんばれ、がんばれ!」と風呂につけた。上がると赤い塗り薬を全身に。パジャマは見事に染まった。しかも天然色に!毎日毎日繰り返し、毎日、朝・昼・晩、体温を測り子供の様子を観察した。ある夜、熱が出た。確か37度~38度位だったと思う。夜中であるが心配になった。風邪か黄色ブドウ球菌の何か。お手上げで先生に電話をした。というのも、熱性痙攣を起こした事があったからである。薬は何を飲ませばいいの?痙攣止めは入れていいの?まったく身動きが取れない私たちに先生は優しく答えてくれた。また安心し、先生がいいと許しを得た薬だけ使用した様に思う。
そんな事が何度か続くうちに、リズムが分かり、一連の作業も早くなり、プロ級の風呂屋兼消毒師になっていったと同時にアトピーもひどくなってきた。特に顔と関節の辺りなどは皮膚が裂け、皮が無かったように思う。消毒の回数を増やしたがしみるので、よく泣いた。治る、治ると信じて毎日同じ事を繰り返した。即効性が無い、目に見えて感じる事が出来ないので、なんだかじれったいという気になったが、何かの異物と共存するまで、としているうちにジュクジュクの大きさが少しずつ小さくなっているように感じる様になり、点在している所も数が減ってきた。これといって異常がない限り、先生にも電話しなくなっていった。もちろん、松本先生の了解をもらってだが・・・。
誰もが思うと思うが、大なり小なり、皮膚が裂け、黄色い汁が流れているのを見るとつらい思いをするはずで、見ているのが辛いので、諦めかけそうな時があると思うのだが、他院に行っても無理!ただただ先生を信じやりとうせば、と思ってもらいたい。絶対に信じてやり続けてもらいたい。その先には先生が自信を持って言う「完治」がある。
そうこうしている時に妻の実家に夏休みを取り帰省した。風呂はないが消毒液と赤い塗り薬を山ほど持って・・・。近くに海があるので、毎日の様に海に行き、従兄弟などに遊んでもらい環境も変わり、ストレス発散になったのか、グズグズもなくなり日ごとに良くなった。完治?に近づいたように感じた。
それからしばらくして、またいつもの日々に戻り気がつけばツルツルの肌に生まれ変わった!
先生の-掻きたければ掻け。食べたいものは食べろ。その後は消毒!ストレスはためるな-という事も人間の体が正常に働く為に必要なのであろう。他病院と比べ天国のような言葉であった。
完治した時は、「あたり前やろ、あの先生に嘘はない。」信用してよかった気持ちと、自分が治した様な喜びを感じ、全ての気持ちに幸せを感じ先生に感謝した。
最後に1ページもあれば完成する手記を長々と記し、内容のなさと自分の学のなさに涙する。本来ならば、8年も前に先生に渡すべき手記を今になったことを謝り、理論付けていない所も反省したいが、気持ちということで許して頂きたい。
松本仁幸先生に感謝、松本漢方クリニックの皆様に感謝いたします。
医学界に一人闘う男、松本仁幸にお礼出来るならばこんな手記を御笑納頂く事位しかありません。有難うございました!
皆様どうか先生を信じて、最後まで頑張って頂きたいと思います。
信者になって頂きたいと思います。
5歳3ヶ月のアトピー男児の父の手記
松本漢方クリニックにかかって1年数ヶ月になるが、途中一旦症状が落ち着いたことと、高額治療費のため半年間ほど治療を休止していた。しかし、昨年晩秋の頃より症状が顕在化し、12月に治療を再開した。あまりのリバウンドの激しさに症状を記録すれば治療の役に立つと思い、遅まきながら手記を記すこととした。
2007/4/23
ここ1ヶ月をかけて顔、頭皮、全身に渡ってアトピーが出てきた。特に両膝と両肘の裏側、又、足の付け根に近い内股から太腿の裏側にかけて、徐々にリバウンドが酷い状態になった。昨日今日と膝裏から血液が滴るほどの掻き傷になった。昼夜を問わず2~4時間おきぐらいに狂ったように泣き叫び、掻き毟りながら痒みと痛みに対抗している。その度に紅色軟膏を塗布してきた。朝晩に煎じ薬を飲ませ、2、3日おきに漢方風呂に1時間以上入れてやってきた。母親は私に松本漢方クリニック方式治療に不信感を持っている素振りを息子に見せまいと誓っていても、息子のあまりの狂乱ぶりに治療に対する不安を露にしてしまっている。
それは、生後4ヶ月から始まりました。最初は、乳児性のよくあるものと思っていたら、あっという間に顔は真っ赤、手や足の関節の裏はただれたようになり、夜は一時間ごとにかゆみで起き、昼間睡眠を取るという生活が始まりました。生まれた国立病院での診断は「アトピー性湿疹」。アレルゲンは犬の毛とハウスダストでした。病院では、ザジテンシロップとワセリンキンダーベート(ステロイド剤)が処方されました。
その日から食物に気を付け、なるべく化学物質を避ける生活を心がけ、主人は畑を借り有機無農薬で野菜を作り、会社の釣り部に入りせっせと魚を釣って来てくれる様になりました。
その頃は家を建てて一年目で、三島(静岡県)の丘の上で隣が原生林という恵まれた場所でした。自然の中での生活はそれなりに楽しくまた、息抜きにもなったのですが、とにかく眠れないのが辛く、睡眠を取っていないと思考能力がなくなり、夜中にかきむしる子供を見ているとかわいそうで、この地獄がいつまで続くのだろう、少しでも良くなる日が来るのだろうか?と悲観的になり、ボーッと青白い朝を迎える日が多くなり、日中も意識朦朧としていました。
直射日光や手の傷での破傷風が怖く、公園にも連れて行ってやれない息子でしたが、唯一救いだったのは私が仕事をしていた事でした。週二回家で仕事をする日はベビーシッターさんに来てもらい、又週一度泊りがけで横浜の実家へ預ける時は、息子もシッターさんや母に思いきり遊んでもらえ(その時ばかりは母親の怖い顔も見ずに済み)、私も仕事に没頭でき、その数時間は息子のアトピーのことは頭から離す事ができたのです。
実家や仕事場への往復400kmの道のりもストレス解消の楽しいドライブでした。息子も車が大好きで、車に乗っている間は不思議とかゆがらず、二人で大声で歌いながら(赤ん坊だったのでアーウーでしたけれど)東名を飛ばしたものでした。
主人も平日の夜はさすがに出来ませんでしたが、週末は夜も全面的に子供の面倒を見ていました。
病院で処方された薬のうち、どうしてもステロイド剤は使う決心がつかず、使ったのはほんの数回でした。この事が後になって良かったのではないかと思っています。
子供が2歳の誕生日を迎えた頃、アムステルダムへの転勤の話が持ち上がりました。欧州は湿度が低くさわやかな気候なので、転地して治る人も多いと聞き、家族で駐在する事にしました。
道中の飛行時間が長いのがとても心配で、行くまでに韓国、グァムと旅行練習をしましたが、韓国へ行った時はずーっと寝っぱなし、グァムの時は3時間余り泣きっぱなしで、私はずっと立って抱っこをしていました。
これはとても私一人では13時間耐えられないと思い、行き先がロンドンに変更になり、先に出発していた主人に迎えに帰ってきてもらって3人で日本を出国しました。
案の定、離陸のシートベルト(赤ちゃんや幼児は、大人のシートベルトに輪の子供用を通すのですが)を着用する段階で大泣きし、いやがり、乗務員の方が3人がかりでやっと通り、その後40分飛行機中に響き渡る声で泣き続けました(もちろん真っ赤にただれた顔をかきながら)。私と主人は、他の席の乗客の皆様に申し訳ない気持ちでいっぱいで、亀の様に座席に固まっていました。
子供のいる年配の方や、こちらが赴任する駐在員と理解している乗客は「お気の毒に」という風に、見て見ぬふりをして下さいましたが、ちょうど私達の後ろの席のオールドミスのOLらしき人(その時はそういう風に鬼のように見えたのです)が大きな声で「どうしてちゃんと躾ないのですか?みなさん迷惑してます」と何度も注意されるのです。楽しい旅行へ行くのに、高いビジネスクラスの料金を払って乗られているのですから、優雅な気分をぶち壊されて面白くないのはわかりますが、息子が泣き止んで笑って遊んでいる時でさえ注意されるので、最初は主人と二人ただひたすらに「申し訳ありません。ごめんなさい」と謝り続けていましたが、そのうち主人が怒りだし「無視しろ」と言い出し、私はもうどうして良いのかわからず、早く英国へ着くのを祈るばかりでした。悪夢のような13時間が過ぎ、私達はヒースローへ降り立ちましたが、私も主人も体中バリバリで声も出ませんでした。
イミグレーションへ行くすがら、先程のオールドミスが何やらいっぱい書いたメモを私に渡しました。私が見ようとすると、主人が「そんなもん捨てろ!」と奪い取ってゴミ箱へ投げてしまいました。
私は「パパ頼もしいなぁ。私は絶対主人の立場を理解できる人間になろう」と、その時心に決めたのでした。
ロンドンで見た光景は、以前弟が留学していた事もあり、子供が生まれる以前に2度来た時と全く違ったものに見えました。それは私達夫妻が「これから五年間、アトピーの子供を抱えて暮らし、帰国する時にはこの子の顔をツルツルにして帰るぞー!」という固い決意を、無言のうちに互いに感じたからだと思います。
到着した次の日から車を買い、道を覚え、引越しの後片付けと、忙しい日々を過ごし、GP登録(英国の医療は、基本的に無料。近くの医院[GP]にかかりつけ登録をしなければなりません)、子供のナーサリー(幼稚園)への申し込みを済ませ、少し落ち着くと私はピアノを買いました。(私の仕事はピアノ教師なのです。埼玉県の学校で20年近く教えていました)
これから暮らして行く上でピアノは必需品。これさえあればアトピーと戦えるぞと・・・(実際本当にそうなったのです)
最初の1,2ヶ月は、日本から持参した薬を使っていましたがそれもなくなり、GPで問診を受け、小児科のスペシャリティーを紹介してもらい(州の総合病院)予約をしましたが、何と3ヶ月待ち。そろそろかなと思うと手紙が来て、さらに1ヵ月後に変更して欲しいとの事。さすがに英国の悪評高き医療は聞いてはいましたが、あきれてしまいました。
やっと行った時も、やはりステロイド剤と入浴剤とワセリンで、ザジテンは処方されませんでした。日本と英国では治療法に違いがあり、ザジテンは喘息の治療にしか使われていない様でした。
仕方ないのでプライベート診療で日系の診療所に行って薬をもらったり、日本へ半年に一度帰ることにしてなんとかやっていこうという事になりました。
子供の症状はあまり変わらず、家でもナーサリー(幼稚園)でもかきむしっています。ハウスダストと犬の毛がアレルゲンだと言われたので、ダイソンの掃除機を買い、朝晩掃除をしていたらクレージーだと言われ、掃除機も壊れてしまいました。(英国人は週一回くらいしかかけない)部屋も、我が家は土足禁止にしていましたが、どこでも土足、正にみそも○○も一緒という有様です。
私も主人も仕事や生活に慣れるのに余裕がなく、進展もせぬまましばらく過ぎて行きました。
やがて友達も出来、暗い冬も過ぎ、一番英国の良い季節6月を迎える頃になると、いろいろな情報が目から耳から入って来る様になり、また考える余裕も生まれてきました。
・英国で、はやりのホメオパシー
・スペイン沖の地中海で海水浴すると一週間でつるつる
・イスラエルの死海の泥石鹸
・インド人街で評判のピンクのクリーム
アトピーで失った指紋が一夜にして回復するという、トルコの温泉
等など
同じアトピーの英国人の子のお母さんや、日本人コミュニティーから勧められる数々の治療法。どれも藁にもすがりたい私達にとっては、試してみたいものでしたが、ちょっと怪しい感じがしたり継続性が無かったり空港から悪路をバスで4時間・・・などで結局選んだのは、ヨーロッパ中は基より中東からも患者さんが来るという、ロンドンのチャイナタウンの漢方の先生でした。
お友達に紹介されて行った医院は地上が薬局、地価が診察室でとてもせまい所でしたが、姉妹でやっておられる女医さんはとても優しく、子供もちっとも嫌がらず通う様になりました。
そこで出される薬は、粉末状になっているものや小さいアンプル状のものなどもありましたが、基本はやはり煮出すものでした。 松本漢方クリニックで出されるものとは違い、くまざさの葉もそのままで、一回の量が多く味もとても苦いものでした。
飲み始めてしばらくするとものすごい好転反応が現れ、体中の毒が出てきたのではないかと思うくらいものすごい顔になり、眉も無くなり顔はただれ手や関節の裏には血がにじみ、泣きながらかきむしる様になりました。(日本から使っている薬も全部先生に見せたところ、ザジテンだけは続けても良いと言われました)
入浴習慣の違いから、薬湯につかるというのではなく飲薬の二番煎じ又は、その出がらしで患部を湿布しなさいとの事でした。
この頃が一番つらく、ナーサリーに迎えに行くと「今日はかゆくて遊べなかったのよ」と先生に言われ、お友達にもじーっと顔を見られ、主人が出張の時地下鉄やバスで通院していると、乗り物の中でかきむしる子供をぼーっと見ている私に、必ず3,4人の人が「どうして何もしてあげないの。こんなにかいているのに、かわいそう」とか、「良い薬を知っているから教えてあげる」など等心にズキズキ突き刺さる言葉を言われ(もちろん好意で言ってくださっているのはわかるのですが)、得意でない英語で必死で説明するのも疲れ果て、それからは車でないと絶対行かない様になりました。
しかし今度は、それが楽しみになってきたのです。
子供の症状も落ち着きだし、いろいろな人から「この子はブレーンとボディの成長がアンバランスで、そのストレスがアトピーとなって出てきているの。体の成長が追い着いてきたらきっと良くなるわよ」と言われ私もそういう気がしてきて、チャイナタウンにおいしいお店を見つけると二週間に一度病院に行くというより、お食事に行くという感じになってきました。
私も週二回仕事を始め、その間インファントスクール(英国における5歳~6歳の公立小学校低学年にあたるもので、幼稚部が併設されている事が多い)へのお迎えと、放課後はチャイルドマインダーに預けました。その事で子供の英語力もぐんとアップし、自分の意思も伝えられる様になり症状も目に見えて回復してきました。 私もボランティアをする余裕まで出てきて、週一度子供達に日本の歌やピアノを教えたり、日本の昔話を訳して英国の子供達に絵本を見せたりと、だんだんと英国の生活を楽しめる様になりました。
漢方も2日飲んで1日休み、1日飲んで1日休みと、通院も月1回~1ヵ月半に1回となり、もうすぐ病院通いも終わりかな?などと思っているうちに3年が経っていました。
その時、京都本社に新しい部署ができるという事で、急に日本に帰る様にとの会社命令。そしてあたふたと引越しをし、日本に帰国したのは子供が幼稚園年長の5月でした。日本の幼稚園へも入れてもらえ、主人の実家の近くに居を構え(私は初めての関西暮しで、ロンドン暮し以上に戦々恐々でしたが)、徐々に日本の生活にも慣れてきた頃、また子供の症状が悪化してきたのです。
大阪のいとこの子供がお世話になったという松本漢方クリニックを知り(日本では漢方薬局しかなく、漢方医の先生を捜していたところだったのです)、初めて行った時には土・日にもかかわらずすごい患者さんの数と、関西弁を聞くと何でも怒って聞こえてしまう私はびっくりしてしまいましたが、「きっと治してあげる」と言って下さった松本先生の言葉に、「ロンドンとおんなじだわ。また信じてがんばれる」と何だかホッとしてしまいました。
また昔の様に畑を借りて、野菜を作る生活が始まりました。
ヨーロッパに比べて日本のオーガニック食品は非常に高くて、基準も甘いと思います。英国では大手スーパーでは必ずオーガニックコーナーがあり、野菜・肉・牛乳・チーズからジュース・米・お菓子など、ほとんどオーガニックだけでも生活できました。値段もそれほど高くありません。
うちの子供は、食品アレルギーの検査では反応は出ませんが、やはり検査項目には入っていない何かが原因の一つになっているのではないかと考えます(添加物など)。
でも、あまり神経質になって私の顔が鬼の様になって、子供に接する事こそが一番のアレルギーだと悟った私は、少しぐらい食べたい物を食べてみたって良いよ、1回や2回お薬飲むの忘れたって気にしない、かきたいだけかいてもかまわないよと、おおらかな気持ちで生活できる様になりました。
症状もどんどん良くなり、幼稚園の頃には行けなかったお泊り学習も少しで行けるようになり、夜中も起きなくなりました。
昔の子供の様な小さい患者さんを見かけると、「きっと治るわよ。この子もすごかったのよ」と思わず言いたくなりますが、その時の自身の気持ちを考えると、そういう風に他人から言われるのは苦痛だったなと思い出し、無言で気軽にがんばってね と気を送っています。
子供を助けられるのは、やはり親しかいません。
松本先生の言葉を信じて、笑顔で子供に接して、時々ズッコケたって良いのです。
そして自分の時間も少し持って、しんどい時には人に泣きついたって全然平気。みんなちゃんと聞いてくれます。そしてまた明日からやっていけるのです。
私も、本当にいろいろな人に協力してもらいやってこられました。仕事もしていて良かった。今では子供とチェロを始め、「チェロの先生の家に室内犬がいるのですが、触りはしませんが全然平気。かゆくなりません」
毎日練習で、また別の鬼の顔になっています。
ロンドンの先生と松本先生に感謝!!