「ステロイドを使わず生活できるようになるまで」
54歳 女性 2019年12月26日
54歳 女性 2019年12月26日
アトピーの経緯
私は生後間もなくアトピーと診断されたそうです。その頃の記憶はありませんが、3歳頃から小児喘息があり、すぐに発作を起こしては外遊び禁止になっていました。背中は冬になるとガサガサになって粉をふき、腕の曲がるところ、膝の裏は夏でもごわついていました。いつも半袖になる頃友達の綺麗なツルツルの腕を見ては羨んでいました。周りの大人に「家族は誰もこんなじゃないのにかわいそうね」と言われると私はなんだかダメな人間っぽいなと感じていました。何か努力が足りないのか?もし手術して治るようになったらどんなに痛くても絶対受けよう。と、夜寝る時にあちこちつねって痛みに耐える練習をしたりしました。記憶に残る最初のステロイド軟膏はフルコートで手足、背中に塗っていました。幼稚園頃に新発売された喘息発作時の吸入も最古参ユーザーだと思います。
小学校1年の夏、山の中のニュータウンに引越し、空気が良くなったお陰で食欲も増し、喘息は発作が徐々に起こらなくなり随分と元気になりました。しかしそれとは反比例するようにアトピーの症状は酷くなっていきました。
皮膚科ではステロイド軟膏、抗ヒスタミン剤等を処方されましたが面倒くさがりが幸いして?飲み薬はほぼ飲みませんでした。言い訳すると、当時すでに結構症状も強く、飲んだところで大して痒みも軽減されないので何となく飲まなくなったのです。よく叱られましたが結果的にはよかったと思います。その頃にどんな塗り薬を処方されたかあまり覚えていません。チューブにラベルが貼り付けてないこともあったと思います。母も副作用を心配してよく先生に質問していましたが「皮膚が黒く薄くなって毛深くなる」くらいにしか言われませんでした。そのくらいならしょうがないかなという認識でした。
小学校3年くらいから指の先の皮膚が薄くなりひび割れて血が滲むようになりました。多分背中以外は自分で塗れるようになったせいではないかと思います。ひび割れた指先にもステロイドを塗り絆創膏を巻いていました。ピアノを習っていたのですが鍵盤が血だらけになったり楽譜に血がついたり知らない人が見たら猛レッスンしているようだったかもしれません。(してませんが)
同じ頃アレルギー性鼻炎で耳鼻科に週2回程通院して鼻に何種類かスプレーして、ハウスダストの注射をしていました。中学生になって部活等で時間がなくなり通院をやめるまで続けていました。
高校生になってからは国立病院に通いましたが相変わらずステロイド軟膏中心の治療でした。部活で忙しく通院の時間が取れなかったのですが私自身が行かなくても母だけでも問題なく薬だけ貰って来れました。
その頃の IgEの値はまだ計測値が低かったようで常にその検査の最高値を出していたと記憶しています。4000までなら4000を、6000までなら6000という具合です。検査結果のデータをもらってなかったと思いますので4000、6000という数字は先生が母に口頭で伝えていたのを聞いて何となく覚えている数字です。すでに幼稚園の頃から周りの子供達と比べて持久力が極端になく(今思えばヘルペスのせいだと思いますが)異様に疲れやすい子供でしたが短距離走が速かったのでなんとなく運動部に入っていました。根性なしと言われるのですがどうにも納得がいかない。何か絶対おかしい。ステロイドを塗ると変な感覚になるのでそのせいではないかと漠然と疑っていました。例えばステロイドを塗ると急に元気が出て突然部屋の片付けを始めたりするのですが、しばらくすると急に体の中心がモヤモヤした感じになり酷く疲れた上一層痒くなる。説明が難しいのですがそんな経験が多々ありステロイドが原因ではないかと思うようになったのです。ある時、自分でもどうにかしたいと思いアトピーの本を買って読んだところ、当時自分の使っているリンデロンのカテゴリーが(今ではもっと強い薬があるようです)上から2番目の「ストロング」で愕然としました。さらに上の「ストロンゲスト」のも合わせてあと数種類しかありませんでした。17歳にしてこの状況…人生80年と言われていた時代、この先何年もつのか?先生に聞いてみましたが怒鳴られて終了でした。権威のある大人のお医者さんが怒鳴るのですから17歳の小娘としては何かとんでもなく間違ったことを言ってしまったんだと思い、申し訳ない気持ちで一杯になりました。今考えるとものすごく痛いところをついてしまったのかもしれませんね。
大学進学後も就職後も同じ病院に通い(馬鹿だとお思いでしょうが他に選択肢があるとは思えませんでした)ずっとステロイド軟膏を塗り続けました。覚えているのはメサデルム、ボアラ、リンデロン、ネリゾナ、そんな感じでしようか?幸か不幸か目立つ顔と手には炎症がなかったので「問題先送り」をしてしまったのです。正直言うと、無事に30歳を超えられないのではないかという漠然とした恐怖を感じていましたが他に何の方法もなく「お医者さんが先のない治療をするはずはない。きっと何か考えがあるはず」と信じるしかありませんでした。思考停止状態だったと思います。
結婚もして3年、29歳、そろそろ子供が欲しいと思って仕事を辞める1ヶ月前、顔にガサガサの箇所ができ始め、今まで出たことのない頭皮に強い痒みのあるブツブツができました。職場の人間関係のストレスが強かったのでそのせいと思っていたのですが、辞めてすぐ初めてムーンフェイスになりました。これは本当にショックでした。市民病院に駆け込み診察を受けたところとても温かい感じの女医さんで怒鳴ることもなく優しく「3日間だけステロイドを服用してくださいね。子供さんの事は少し良くなってからにしましょう」と言われ、初めてステロイドを内服しました。その効き目は驚きでムーンフェイスもたちどころに治り今まで見たこともないほど白い肌になりました。父などは「なんだ、本当にびっくりしたけど大した事なかったんだな」と喜んだくらいです。しかし塗り薬同様1週間と持たず徐々に炎症が戻ってきました。そしてとうとう当時の表で最高ランクのカテゴリーにあったマイザーが処方され、もう先はないという追い詰められた気持ちになりました。
このまま続けても同じことの繰り返し、効き目の強さから考えるとより深刻な副作用があるに違いないと怖くなり、いろいろ情報を探しました。といってもネットも今ほどでない時代、知ってる本屋を全部回る事くらいでしたが。運良く当時民間療法で温泉療法の本に巡り合い入浴とスキンケアで脱ステロイドをすることになりました。そうでなければ人に勧められるままに四国のあの病院に行くことになったかもしれません。
カウンセリングを受けると私の症状の酷さ、これまでの治療の経歴を見て先方がざわつきました。その時の検査ではIgEは13480。一番実績のあるカウンセラーをつけてくださって親身になって応援してくださいましたが想像を絶する地獄でした。
脱ステ開始 1994.12
ステロイドをやめた途端、全身から吹き出るように今まで経験したことのない酷いアトピー症状がでました。傷口からダラダラと液が染み出してきて松脂のようにゴワゴワと固まり、衣服に引っ付いて脱ぎ着の際痛くていい大人が泣いてしまうほどでした。皮膚も赤黒く分厚くなり波状の溝が首回り、膝の関節あたりにできました。痛くて首を動かすことも手足を曲げ伸ばしすることも辛く一日中ただじっとしているしかなく、鏡に映る顔は自分で言うのもなんですが人とは思えないものでした。日に3度お風呂に入って汗と共に老廃物を出すのですが、お風呂から上がったあとが辛い…お湯から上がると即乾燥して酷い痛みと痒みに襲われ、ローション、ワセリンを塗るのですが暖まった体から汗が吹き出し続け、あまりの痒さで塗ったそばから掻いてしまい何回も塗り直さざるを得ないのです。結果お湯から上がってから小一時間服を着るのに時間がかかりました。体も痩せて、体重も40キロ代、がりがりで真っ茶色で枯れ木のようでした。耳鳴りが酷く、耳の周りが腫れてグジュグジュ。食欲はあって食べるのですがどんどん痩せていきました。炎症で強い痒みがあっても痛くて掻くことができない、寝ていても接地する場所が炎症熱で熱くなり痒みが増幅する、痒すぎて眠れない、体の体勢を変えるために動くのも皮膚がつれて痛くて動けない、動くと動いた刺激でのたうちまわるほどの痒みに襲われるので一旦落ち着いた体勢から動き出すのが怖くて固まっているため全身の凝りが酷い…うまく伝わるように表現できませんが地獄というものがあるなら正にこれではないかと思いました。1日経つのが長く、自分では1ヶ月くらいの感覚でもまだ1週間しか経ってない。もう終わらないのかもしれない、とも思いました。でも治りたい。始める前には時間があるのだから何か勉強したり本くらい読もうと思っていたのですがとても辛過ぎてできるものではありませんでした。
半年くらいして少し落ち着き、どうにか服を着て外出できるようになりました。と言っても相変わらず夜は睡眠導入剤を飲まないと眠れず、お風呂も辛く、一日中うずくまっていて楽になったわけではありませんでした。顔の炎症も相変わらずで本当は人前に出たくはありませんでしたが、もしこのまま治らなければ一生引きこもることになると思い外に出て友達にも会いました。嫌な事は山ほどありましたが治ってしまえば笑い話になると自分に言い聞かせていました。
総合病院の漢方科 1997.10
結局その療法は金銭的にも厳しくて辞めることになり、その後知り合いの紹介である総合病院の漢方科にかかることになりました。飲む煎じ薬と入浴用の煎じ薬を処方されました。ステロイドは一切使いませんでしたので大変ありがたかったです。IgEは10000前後から26000で乱高下。酷い症状の範囲が徐々に顔、首、膝の内側部分に収束してきました。もちろん全身立派なアトピックスキンでしたが他の部位は掻きこわしも少なく割と楽になってきました。ただ顔、膝の内側、首、酷い部位の酷さが本当にきつく、皮膚は赤黒く分厚く掻きこわした炎症も酷く熱を持っているので服を着ると暑くなりさらに痒みが増す、痛くて腕を真っ直ぐ伸ばせない、顔の炎症は街を歩けば二度見どころか三度見くらいされる、もう最悪でした。この頃から周囲が心配し始めて、もうステロイドを使わなくなって随分たつのだから今なら塗れば効くのではないか?他にいい治療はないか?と言われ出しました。もう一度ステロイドで楽になって待っていればそのうちいい治療法が見つかるかもという期待もあるようでした。見ている方も辛いのだろうなと思いましたがあのリバウンドを見ていてまだそう言うのかと悲しくもなりました。確かに炎症の辛さも見た目もしんどさも受け入れがたいものがありましたがステロイドを塗っていた時もそんなに快適ではなかったのです。塗っても痒みがすっきり治るわけでもなくすぐに元の木網で、自立神経がおかしくなるせいか目眩、立ちくらみ、動悸がしたり、これは説明しづらいのですが体の芯にぞわぞわととても嫌な感覚がありました。むしろやめた後の苦痛のほうが抑制感がなく自然な気がしてステロイドには戻りたくないと思っていました。
そんな中子供を授かりました。本来嬉しいはずなのですが、自分の面倒だけで精一杯、遺伝の問題も悩ましく、相当悩みましたが出産に踏み切りました。幸いアレルギーはありませんでした。検診時の赤ちゃん教室で知り合ったお母さんから「高槻の松本漢方医院という漢方のお医者さんにアトピー治してもらったよ」と教えてもらいました。いろんな人がいろんなお医者さんを勧めてくれるので普段は「ありがとう」で済ませていたのですが、なんとなく心に残っていました。
その後もしばらく総合病院の漢方科に通い続け、その間に次の子を出産、担当の先生がご栄転され、ふとこれからどうしようかと考えました。松本漢方医院の事を思い出し受診してみようと思いました。2003年の初めにやっと松本医院にたどり着きました。
松本漢方クリニックとの出会い 2003
アトピーの治療にステロイドを使ってはいけない事はこれまでの経験でわかっていたつもりでしたがきちんと明確な説明を受けたのは初めてでした。正直な所、細かい話は難しすぎて誰かに説明できるほど理解はできていないのですが、論文を順を追って読んでいくとなるほど!と腑に落ちました。もやもやが晴れ、ステロイドをやめたのは正解だったと確信でき本当に勇気が湧きました。松本先生は厳しい方だと聞いておりかなり緊張していましたがこれまでの経緯を話すと「苦労してきたんやな。もう大丈夫!」と大きな声で言い握手をしてくださいました。ステロイドは死ぬような危機にしか使ってはいけない事、人間が出現する遥か昔から生物が試行錯誤して作り上げた免疫システムは偉大であり抑えるのは間違いであること、お話を聞いているとその通りだと思うばかりで「この先生は本物だ」と思いました。
飲む煎じ薬と入浴用の煎じ薬、紫雲膏を処方してもらい治療を開始しました。飲み薬を飲むと幾分しんどさが取れ楽になりました。そして入浴剤が本当に私に合っていました。これまで使ったどんな入浴剤よりも入っている間苦痛が和らぎました。お風呂から上がってからの苦痛は相変わらずでしたが着替えて落ち着いてからの皮膚の水分量が上がり、長く持続しました。掻き壊しのない胴体や足、二の腕等は少し黒ずんでいる程度でかなり柔らかく良くなりました。
しかし二人の乳児を抱えての治療はとにかく過酷でストレスだらけでした。仕方ないのですが主人も当時は帰りが10時を回ることが当たり前で12時すぎも珍しくなく、今で言うワンオペ育児状態でした。それでも断乳はしていて夜授乳に起きる必要はなく、主人には朝食は自分で食べてもらえたので、精一杯朝寝することにしていましたが8時頃が限界で容赦なく子供達に起こされます。その後は昼寝をしない下の子と、下の子に嫉妬する上の子とバトルしながら目まぐるしく日中を過ごし夕方6時頃から食事、お風呂、寝かしつけと怒涛のルーティン、9時頃やっと子供達が寝ると何か少しお腹に入れてすぐお風呂に入る生活でした。入浴は痒みが落ち着くまで3時間ほどかかり、お風呂上がりの儀式が1時間、落ち着くまでにさらに1時間で寝るのは深夜2時を過ぎる頃。育児の疲れとお風呂の疲れでぐったりでした。母乳だった頃は睡眠導入剤は飲めず睡眠時間を確保することが難しく本当に辛かった。断乳後に再び睡眠導入剤を飲むようになるまでどうやって生きていたのか覚えていない程です。
そんな中、主人の転勤が決まり、2003年秋に東京に引っ越しました。それまではどうしても辛い時は臨時でどちらかの実家に子供を預けることができたのですがそれもできなくなり人生最大のピンチ。主人の帰りも相変わらず遅く、しかも育児の全てが終わった後に帰ってくるので辛さもさほど理解されていると思えず、精神的にも参ってしまいました。子供にもあまり笑顔で接することができなくなり表情も乏しくなり、そのうち右側の頬だけが極端に下がって左右非対称になってきました。煎じ薬を煮出す気力も無くなりお風呂の煎じ薬だけなんとか続けていました。煎じ薬を作るくらい火にかければ鍋が勝手にできるのだから簡単だろうと思われるかもしれませんがそんなことが辛いくらいの酷い症状と倦怠感でした。ぼんやりして火の消し忘れも怖かったのもあります。実際時々やらかしていました。子供達の幼稚園の行事も多く、煎じ薬を飲んで激しいリバウンドを起こして寝込むわけにもいかないという事情もありました。
2004年の秋頃だったと思います。ヘルペスの薬について勘違いしていたことに気がつきました。ヘルペスの薬と緊急時に処方された抗生剤の飲み方を同様に思っていて、ヘルペスの薬を症状のひどい時だけ飲むものだと思っていたのです。先生にちゃんと飲んでいるか聞かれて間違いに気付きました。それから1日3錠から4錠(保険の範囲内で抑える為)きちんと飲んでみるとあれほど強かった倦怠感が徐々に薄れていきました。アトピーの症状もヘルペスの倦怠感のストレスから若干開放されたせいか心なしか楽になってきたような気がしました。
2008年、ついにIgE6000、これまでの最低値が出た時は本当に嬉しかったです。ステロイドを使っていた時は上がる一方だった数値が「下がった」のですから。まだまだ症状は強く、子供を病院に連れて行った時など診てくれた医師に「ちゃんとしたお医者さんにかかったほうがいいよ」などと言われたりもしましたが「ちゃんとしたお医者さんに診てもらっていた時は一度も数値下がったことないんですが」と言いたくなりました。後のやりとりが目に見えて心身共にしんどくて言いませんでしたが…
アトピーもヘルペスもそこから少しギアが上がった感じでよくなっていきました。
2009年、また引っ越しをしてストレスを溜めてしまい症状も倦怠感も戻ってきました。子供達も少し難しい年代になってきて悩みも尽きず、人間関係もまた一からやり直し。帰省もだんだんしづらくなり松本医院にも随分ご無沙汰してしまいました。先生にも受診するように再三注意を受けたのですがお盆と正月、医院もお休みの時しか帰省できずどうしても行くことができませんでした。そんな時も漢方薬は送ってくださり本当にありがたかったです。治療を続けられたことに感謝しています。
2014年、ついにそれまで常に300代を下回らなかったヤケヒョウヒダニ、ハウスダスト 1 が、それぞれ76と75、一気に2桁になりました。これは本当に嬉しかったです。先生の提唱される免疫的寛容が正に自分の身体で起こったことが数値で確認できたのですから。先生の理論は絶対正しいと考えていましたがもう20年。リンパ球も検査値では常に20以下。私の免疫力はステロイドで壊滅状態なのではないかと少し諦めかけていました。続けてよかったと心から思いました。しかし2008年にやっと最低値6000を出して以降、また総量のIgEは上がり基調でこの時は11950。ハウスダスト、ダニを克服してもまだ他にももっと克服すべきアレルギーがあるのでしょう。先生も「あなたはありとあらゆる物質にアレルギーを持っている」とおっしゃっていたしまだまだ終わりな訳はないか、と浮かれた気分が萎んでいくのを感じました。
予想通り、その後2015年夏2017年春とガッチリ体型の私の体重が40㎏代になるほどのリバウンドが二度起きました。覚悟をしていたつもりでしたがやはりショックでした。丁度その頃子供の進学問題で増えたストレスが、やっと2015年春、上の子の高校進学で一段落、心底ほっとした反動でまた症状がどっと出てきたのです。2017年は下の子の高校受験。やはりストレスのせいか寝込んでしまい、中学の卒業式も行けずじまいでした。検査でTARC 1625が出たのもこの頃です。
以下この間のIgE値の推移
2015.3 8425
2015.8 13275
2016.8 13075
2017.3 23650
2017.7 18650
2019.8 16212
ヘルペスについて
少し前後しますが、2012年の夏から秋にかけて症状の出方に変化がありました。顔、首、膝の内側に集中していた炎症がアップダウンを繰り返しながらも徐々に和らいでいき、入れ替わるように体側から足全体、特に膝の裏に炎症が出るようになりました。掻きこわしはそれほど酷くないのですが、壊れた部分から体液がじわっと出るような感じでした。今まで無傷だった手のひらに境目がくっきりして真っ赤で盛り上がった苺状のなんとも痛痒い炎症ができました。カポジ性のヘルペスです。幸い右手小指下の手相でいう月丘部分だけだったのでなんとか家事はできました。常に体液がダラダラと流れるし痛いし痒いしで、本当に辛く不快でした。炎症箇所が変わるのと同時に皮膚の状態も全体的にごわごわ系からじゅくじゅく系に変わっていきました。私なりの推測ですが、アトピー症状が落ち着き少し手の空いた免疫がこれまで手が回らなかったヘルペスに攻撃対象を移していったということではないでしようか?
右の手のひらの月丘の炎症はそれからほぼ毎年夏から秋にかけて出てきて冬前に治ることを繰り返しました。そのほかの部位は持ち回りのように毎年変遷しました。脚であったり背中であったり、胸であったり、今まで出ないなあと思っていた所に出てきました。ああ、やっぱりな、とがっかりもしましたが納得でした。塗ったところは必ずなんか出るのです。
そういえば「手」で全身にステロイドを塗り、さらに指先のひび割れにもせっせと塗り込んでいたにも関わらず、ずっと手に炎症が起こらなかったことは前々から不自然でした。もしかしたらいつか大爆発するかも…と不安はあったものの、あわよくば免れたい、という希望も持っていました。が、やはり見逃してはくれなかった。それなら片手だけでは済まないなと覚悟していましたがついに2016年秋、両手にかなりきついヘルペスのカポジができました。
まず右手の月丘にいつものヘルペスができ、次いで両手の親指の下の膨らみ全体(手相でいう太陽丘)とかなり広範囲で痛みも強い炎症で水仕事はもちろん、物を握ったり体を支えたり等の日常の動作がままならなくなってしまいました。憂鬱でしたがこれまでの経過でなんとなく3ヶ月くらいだろうと思い、主人に相談してその間家事を免除してもらいました。
しかしこの時は本格的で、実はつい最近、2019年の11月までずっと続いていました。指の腹や関節もじゅくじゅくになり、日常の全てに支障がでました。気分も落ち込み外出もままならずこのまま治らなかったらどうしよう、と恐怖さえ感じました。今も治りきってはいませんが痒みも少なく汁は出なくなり色も薄く残る程度になったので家事もやっと再開したところです。
手に加えて2019年の正月過ぎからは頭皮にもヘルペスができ、生え際全体、こめかみから頭頂にかけて、じゅくじゅくと放っておくと流れる程の滲出液が出て髪の毛も抜けてしまいました。耳の周りも同様でした。そうなる事は分かっていても本当に惨めな気持ちになりました。どうにか3月頃、頭皮の滲出液は落ち着き、カットにも行くことができました。
今現在は頭皮、手のひら、膝の裏を中心に脚全体うっすらとじゅくじゅく不発弾を感じますが今のところ平穏です。気温が上がればまた排出再開するとは思いますが間違いなく収束に向かっています。大爆発がなければありがたいなとは思いますが出さなければ治らないので基本的にはウェルカムです。
最近の検査結果
IgE 16212
ハウスダスト1 83
ヤケヒョウヒダニ 81
リンパ球 26.1
LD 261
TARC 261
脱ステを始めてから四半世紀、まだ治ってないじゃないか、と「まともなお医者さん」は言うかもしれません。しかし私は今、全くステロイドを使わず、保湿剤も使わず生活できています。抗ヘルペス剤を飲んでからは徐々に倦怠感からも解放され、今では家事も苦になりません。街を歩く時ジロジロ見られることもほぼなくなりました。「あの」最初の酷いリバウンドから見ればまるで天国のようです。そして「あの」状態にしたのは一体誰なんでしょうか?そうした上でアトピーは治らない病気だからQOLを大切にしてステロイドでコントロールした方がいいと言ったのは誰でしょうか?
私の闘病の後半はアトピーだけでなくヘルペスとの闘いも大変でした。2004年にアシクロビルを飲み始めてから少しずつ倦怠感が減りましたが保険の範囲内で収めるために(漢方入浴剤や紫雲膏も保険が効かず費用的な理由で)ひと月で飲める量は限られていました。この2年ほど入浴剤も紫雲膏も使わなくても良くなりましたのでその分の費用で保険適用外で錠数を増やしたところ一段と楽になりました。あくまで私の体感ですが、錠数を増やしたほうが早く良くなると思います。ずっと飲み続けていますが副作用も不具合もありません。アシクロビルに保険が適用されれば患者としてはとても助かります。そうなれば私と同じようにステロイドで免疫を抑えてヘルペスで苦しんでいる方も大勢救われることでしょう。こんなにQOLの上がる薬は他にないのではないでしょうか?
ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございます。淡々と事実を時系列で書こうと思っていましたが割と多めに愚痴が入りました。これからもまだ少し症状は出ると思います。ここまで治療が長引くのは極めて幼い頃にステロイドの影響をうけたからだそうです。私は生まれてすぐから29歳まで使い、長くその影響下に置かれていました。できれば安易にステロイドを使って欲しくない。特に幼い子供逹には…先生の治療法が世の中に広く支持されるように願うばかりです。
いつかきっと小学校の時に夢見た普通の皮膚を手に入れたいと思います。