イルクーツク日記

ハバロフスクからイルクーツク行きの列車に乗る。2泊3日の道のりだ。

シベリア鉄道の寝台車には1等から3等まである。1等と2等はクペーと呼ばれるコンパートメント(個室)型の車両で、3等は部屋の区切りがない開放型の車両だ。1等は高級なので、一般の人は2等か3等を使う。3等は2等のほぼ半額なので、節約のためイルクーツクまでは3等に乗ることにした。発車してしばらくすると車掌がやってきた。「追加料金を払えば、2等のコンパートメントに移動させてやるぞ」「いくらか?」と聞くと、50ドルだという。それなら始めから2等の切符を買うのと、そう変わらない。とくにおいしい話ではないと思い、断った。3等車はガラガラで、他の寝台も含めて広々と使えたので、特に不満はない。

と思っていたら、途中の駅で男たちがわんさか乗り込んできた。車内はあっという間に満員になる。 彼らはさっそく酒を飲みだし、がやがやと話し出す。こういう雰囲気を楽しみたいときもあるのだが、今は穏やかに過ごしたい気分だ。やっぱり50ドル払ってコンパートメントに移動すればよかったと後悔した。

幸い、僕の寝台の周りはおばさんばかりで、彼女らが防波堤となり、男たちの喧騒に取り込まれることはなかった。

なお寝台は上段だったのだが、ベッドから天井までの空間の高さが50センチほどしかない。そのため体を起こせず、「寝る」という姿勢しか取れない。日中は下段を座席として共用するのが普通なのだが、下段のおばさんはすぐ横になって寝てしまう。そうすると僕も居場所がなくなり、上段のベッドで寝るしかない。眠るのは得意だと思っていたけど、さすがに一日中眠れるわけでもない。仕方がないので列車の連結部分に行って、外の景色を眺めたりする。同じような風景がひたすら続く。意外と飽きず、30分くらい見続けることができた。* * *隣の寝台のおばさんと話をするようになる。彼女は64歳。自分の母親よりも年上だ。今は年金生活者だが元は化学の教師で英語も少し話せる。かつてはサハリンに住んでいて、日本にも二度行ったことがあるそうだ。ロシア語の単語をいくつか教えてもらった。

食事どきになると、彼女は持ち込んできているパンやハムを分けてくれた。とてもありがたい。

そのほかの時間はやはり眠るしかない。眠りすぎて頭が痛いほどなのに、さらに眠らなければならない。列車も揺れるし、ベッドも狭い。決して快適とはいえない環境。でも眠れてしまうから不思議だ。睡眠の睡眠による睡眠のための移動。なんて言葉が浮かぶ。

ちょうど紅葉の季節で、車窓からは黄色い葉をつけた白樺の風景が続いていた。

* * *

ウランウデという駅で、東洋人風の顔立ちをした女性が乗ってきた。大学時代の友人にそっくりだ。モンゴルにも近いこの地域はブリヤート共和国と呼ばれ、ブリヤート人のDNAは日本人に近いらしい。

彼女も英語が話せたので、元教師のおばさんも交えて話をする。歳は聞かなかったが、僕と同じくらいのように見える。モスクワの大学に通い、マレーシアで働いた後、今はイルクーツクで弁護士をしているそうだ。

列車はバイカル湖の湖畔を走り、夕方、イルクーツクに着いた。ブリヤート女子の両親が車で駅に迎えに来ていて、僕もその車で町の中心まで送ってもらった。

さっそくホテルを探すが、どこも非常に高い。ようやく比較的安いところにたどり着いたが、それでも5000円くらいした。他を探す気力もなく、ここに泊まることにする。

しかし、泊まると決めた後、シャワーがないことが判明。部屋にないのではなく、宿自体にない。4日ほど風呂に入っていなかったから、ぜひともシャワーを浴びたかったのだけど……洗面台で頭を洗い、体は濡れタオルで拭く。キルギス人がやっている近くの露天でシャウルマ(肉と野菜を薄いパンで巻いたもの)を買って、夕食にした。* * *ロシアでは、外国人は宿泊先のホテルで滞在登録(レジストレーション)をしなければならない。登録すると出入国カードにスタンプが押されて、それが証明になる。 ある程度大きなホテルなら問題ないのだが、小規模の宿ではそのレジストレーションをしてくれないことがある。昨晩泊まったホテルがそうだった。この状態で警官のパスポートチェックを受けると問題が生じる。なので、今の宿はさっさとチェックアウトし、レジストレーションをしてくれそうなホテルを探そう。と思って、大きなホテルに行ってみたところ、1泊1万円以上する。予算的にとても泊まれない。比較的手ごろ(と言っても7000円くらい)の宿に行くと、満室であった。うーん、このままで警官に見つかったら、ややこしいことになるかもしれない。イルクーツクでの見どころといえば、バイカル湖である。世界一透明度が高い湖と聞くと、行ってみたい。でもレジストレーション問題が気になる。イルクーツクに長居はしたくない。町から湖までは70キロほど離れているらしく、バスに乗って行かなければならないのだが、その道中に検問とかあったら、まずい。考えた結果、バイカル湖見物はあきらめ、今夜の夜行列車で一気にモスクワまで行こうと思う。バイカル湖はすでに列車から見えた。それで良しとしよう。心を決め、駅に切符を買いに行くと、今夜は列車がない、と窓口の人が言う。そうか、仕方がない。明日の列車のチケットを購入した。

となると、今晩、夜を明かす場所が必要になる。レジストレーションをもらうために、わざわざ高いホテルに泊まるのもばからしい。駅に有料の宿泊施設があるらしいので、そこに泊まろうと思う。その宿泊所に行くと、入り口に1人のフランス人旅行者がいた。彼も明日の電車を待つために、駅で一夜を過ごそうと考えているようだ。宿泊所に泊まるのもそれなりの値段がすることを知った彼が「駅の待合室でともに夜を明かさないか」と提案してきた。お互いに交代で眠って、荷物を監視し合えばいいと言う。たしかに話し相手がいれば、それはそれで面白いかもしれない。待合室に移動し、席を確保して、ビールを飲みながら、そのフランス人旅行者と話をする。彼は長髪でひげを伸ばし、民族衣装っぽい服を着ている。いかにもヒッピー風という感じ。カラフルな帽子をかぶっていて、それがフランス人っぽいなと思う。その風貌から、かなり長期に旅しているのかと思いきや、学生で2ヶ月ほどの大学の休みを使っての旅行だと言う。シベリア鉄道経由でモンゴル、中国まで行って戻ってくるのだそうだ。

彼はしゃべりだすと止まらない。ガールフレンドと一緒の写真を見せてもらったが、そこに写っている彼はまじめそうな色白の青年で、今の姿とのギャップが可笑しかった。

彼にレジストレーションはどうしているのかと聞くと、「何それ?」という感じで、これまで全くもって滞在登録をしていないようだ。

「全然問題ないよ」そういうものか、意外に大丈夫なんだな。フランス君はいろいろ気遣ってくれて、インスタント食品やソーセージを分けてくれたりする。「眠くなったら先に寝ていいよ」とも言ってくれる。いいやつじゃないか。写真見て笑ったりして悪かった。そうこうしていると、見回りの警官がやってきた。「まずいな」と思いつつ、パスポートチェックを受ける。予想どおり「レジストレーションがないから問題だ」と言ってきた。明日の列車で出発するのだから必要ないではないか、と主張してみるが、聞き入れられない。

「荷物をまとめて警察署まで来い」

ということになって、フランス君ともども連行される。何かしらのペナルティは逃れられないかもしれない。しかし、時間はたっぷりある。粘れるだけ粘ろう。

警察署で取調べを受ける。列車のチケットを見せて、明日の列車で出発することはウソではないとアピールする。 警官はパスポートを取り上げ、コンピュータで何かを調べている。ビザの番号などを照合しているのかもしれない。

フランス君は、ロシアで警察に連行されるのは初めてのことだったらしく、やや動揺して 「オレはクレイジーだが、ラッキーボーイだ」と意味不明な自信を見せていた。

30分ほどして釈放された。わいろなどを要求されるかと思ったが、それもなく、やや拍子抜けなくらいだった。再び駅の待合室に戻る。フランス君は、若いロシア人の男といつの間にか仲良くなっていて、一緒にビールを飲んでいる。僕もいったんそこに加わったが、その若い男は酔っていてちょっと面倒くさいので、少し距離を置く。0時を過ぎた。そろそろ眠くなってきたので、眠りたい。じゃあ約束通り先に眠らせてもらおうかなと思って、フランス君に目をやると、すやすやと眠っていた。……寝とんかい!

なんということだ。先に寝ていいって言ってたじゃないか。くそー。いや、人間が眠くなる時刻なんてだいたい同じなのだ。先手を打って早めに眠っておけばよかった。仕方がない。しばらくそのまま起きていることにする。

フランス君と飲んでいた若い男が、ビールを買ってくれとかタバコをくれと寄ってくる。仲良くなりたいフリをして、たかりたいだけだろう。相手をしたくないので、寝たふりをする。

……。いかんいかん。ただでさえ眠いのに、寝たふりをしていると、本当に眠ってしまいそうになる。そもそも、なぜ眠いのを我慢してまで、他人の荷物を見張っていなければならないのだ。自分の荷物だけなら、リュックを抱きかかえてそのまま眠ることができたのに。

だんだん腹が立ってきた。どうせこんなでかい荷物を盗むやつなんていないだろう。いっそのこと眠ってやろうかと思ったが、「駅では荷物から一瞬たりとも目を離してはならない」とガイドブックに書いてあったのをふと思い出したりして、思い切って眠ることができない。自分の荷物ならいざ知れず、他人の物なので無視するわけにはいかないのだ。

もう二度と荷物の見張りばんこはしない。そう誓いながら眠気と闘う。2時間くらいするとフランス君が目覚めた。ここぞとばかりに「今度は自分が寝るよ」と宣言して目を閉じる。

しかし不思議なもので、いざ「寝てよし」となると、なぜか目が冴えて全然眠れない。眠気に耐えて起きているであろう隣のフランス君のことが、妙に気になってしまう。かといってここで目を開けてしまっては、せっかくの自分の寝る番が台無しだしなあ……

そんなことを繰り返しながら、眠ったのか眠ってないのかわからない一夜を過ごした。朝方はかなり冷え込んだ。駅舎の中にいても寒い。できるだけ服を着込んでしのぐ。

* * *

夜が明けた。

モスクワ行きの列車は、夕方の出発である。それまでは一人で町をぶらぶらしようと思っていたが、フランス君がついて来ると言うので、一緒に教会を見に行く。

曇り空で風が強く、かなり寒い。電光掲示板には3℃と表示されていた。午前中いっぱいかけて、いくつかの教会と博物館を見て回った。イルクーツクはシベリアのパリと呼ばれていたらしいけれど、ハバロフスクに比べると寂れた印象。なんとなく芸術家が亡命しそうな雰囲気の町だ。さすがに歩き疲れたのか、話し好きのフランス君も無口になる。市内の見所をひととおり見終え、駅に戻った。ふたたび駅の待合室。椅子に座ると、睡眠不足と疲れのため、あっという間に眠ってしまった。しばらくすると肩をたたかれ、目を覚ます。警官が立っている。昨日の人とは別の警官だ。例のごとくパスポートを見せろと言い、やはりレジストレーションがないことが問題だと言う。そして再び警察署へ連行。フランス君はチェックを免れたのか、僕だけが連れて行かれた。

道すがら、この警官は「100ドルだ」「1000ルーブルだ」などと金を要求してくる。昨日は何もなく釈放されたし、今日も問題ないはずだ。わからないふりをして無視をする。

昨日と同様、警察署で取調べ。今日は何か書類を作られ、ここにサインしろと言われる。何の書類か分からなくて気持ち悪かったが、言われるままサインをする。そして釈放。駅の待合室に戻ると、フランス君はいなかった。彼も連行されたのだろうか。しかし、このまま待合室にいると、いつまた別の警官がやって来るかわからない。これ以上連行されるのはごめんだ。駅の2階にある有料の待合所に移動することにする。そこはさすがに有料なだけあって、一般の待合所とは違い、とてもきれいで豪華な場所。ソファでつくろげる。ここまでは警官も見回りに来ないだろう。最初からここに来ておけば、無用な連行などされずにすんだのにと後悔する。

フランス君に誘われなければ、もともと有料の宿泊所に泊まろうと思っていたわけで、その場合は、平穏に一夜を明かすことができただろう。というか、彼のヒッピー姿、目立ちすぎ。ひと目で外国人とわかり、警官を引き寄せてしまうのだ。列車の時刻が近づいてきた。 荷物は駅構内の離れたところにあるクロークに預けてある。まずそれを取りに行かねばならない。その間に警官に止められたら、再び連行されてしまう。いったん捕まると、少なくとも1時間くらいは取り調べに時間を食う。そうなると列車の時刻に間に合わない。列車に乗れなければ、またここで警官に怯えながら一夜を過ごすことになる……そんな繰り返しはいやだ。 脱獄者の気分で、荷物を引き取りに行く。荷物を引き取った後がもっとも危険だ。大きなリュックを背負っているので、 ひと目で外国人旅行者だとわかってしまう。

見回すと、駅構内には警官がちらほらいる。柱の影に隠れて、警官が通り過ぎるのをやり過ごす。列車内で食べる食料も必要なので、いつにない決断力で商品を選び、早業で購入。

列車が入線してきたようだ。ダッシュでプラットホームへ。なんとか列車に乗り込んだ。

列車が動き出した。よかった。これで、どうにかこうにかイルクーツクから脱出である。フランス君はもう少し遅い時刻の列車のはずだが、彼も無事列車に乗れるだろうか。さようならも言わないまま、別れてしまったな。

と窓の外を眺めていると、コンパーメントの扉がノックされた。開けると、警官が立っていたのだった。

(次回に続く)