2011年7月の日記(その4)

7月18日(月)秋篠の森とインディペンデント

朝、富士山旅行から帰宅。風呂、朝昼兼用食、昼寝のあと、秋篠の森へ行く。雨だし眠いし、行くの無理かなと一瞬思ったけど、何か今日は行った方がいい気がして、ちょうど車もあったし、出かけることにした。

STU:Lタケウチさんの展示会

タケウチさんの尊敬できるところは、他の人同士のつながりも意識しているところだ。この日もぼくらが来たとき、さりげなく秋篠の森のスタッフのイシハラさんという人を紹介してくれた。彼女も旅行好きな人で、話をするととおもしろい。予定通り行って帰ってくるような旅行ではなく、流れ次第で現地に長期滞在するような臨機応変な旅行をしていたようで、共感した。旅行から帰って仕事を探すとき、青年海外協力隊にも合格したけど、迷ったあげく秋篠の森のスタッフを選んだという。全然違うじゃないかその2つ、と思わず突っ込みたくなった。

この秋篠の森は、品位をふつうの人の日常生活より1段高く保っているようで、自分が思うリアルというところからは、ちょっと遠い空間だと思っていた。ただイシハラさんと話していて、ここのインディペンデントな感じが「旅」とも共通してるんじゃないかという気がしてきた。この空間も独立しているというか、よそからの縛りはないように感じる。そう思うと、この場所に対する自分の気持ちが少し前を向いた。

7月19日(火)野球イメージ

削りたての鰹節で出汁をとった味噌汁がおいしい。この前、焼津で買ってきた鰹節。実際に焼津産かどうかは確かじゃないけれど。

中学高校大学と長く野球をしてたからか、ふとしたときに野球のイメージが浮かんでくる。なぜか自分が打者でバントをするときのイメージが多く、投げられたボールがバットに当たって転がる、みたいな映像が、駅のホームで電車を待っているときに、頭のなかで再生されていたりする。よく傘でゴルフの素振りをしているおじさんとかいるけど、あれは練習をしているのではなくて、イメージが頭の中に浮かんでしまい、それに合わせて身体が動いてしまっているだけなのだろう。

7月20日(水)自分を観察する

成瀬雅春「死なないカラダ、死なない心

」を読む。ヨガの第一人者の本。空中浮遊がほんとうに可能なのか?なんてことは、自分にとってまあ今のところどっちでもいいのだけれど、「自分を観察する」という視点は重要だと思った。

7月21日(木)野球好きなのだった

「ほぼ日」で連載されている「福島の特別な夏」を読む。高校野球の福島県予選を追った話。普通の高校野球の描写が良くて、思わずうるっときてしまった。終盤、点差の離されてしまったチームの先頭打者がフォアボールを選ぶというところで、なぜかぐっときてしまう。なんてことのないシーンなのに、どうしてここで目頭が熱くなるのか自分でもふしぎだ。

そこに「野球」がつまっていると感じたからかもしれない。そのフォアボールは流れを変えるフォアボールだ。圧倒的に投手の方が力が上でも、フォアボールを選べるような流れがくることがある。その流れに乗るには集中力がいるし、それこそ今までやってきたことが出たりする。こういう流れとか、1つのプレーにすべてがかかるとか、そんなところに自分が野球をおもしろいと思うポイントがあるようだ。ひとつのプレーの濃度の高さというか、思いの詰め込まれ具合というか…。ああ、自分は野球好きなのだった、と思い出させてくれる読み物。

7月22日(金)異世界

近くのツタヤが100円レンタルをやってるらしいので、DVDを借りに行く。最近できたホームセンターを中心とするショッピングモールというかショッピングコンプレックスのようなエリアの一角に、そのツタヤはある。深夜はその店舗くらいしか開いてなくて、しーんとしただだっ広い駐車場とか、その向こうに見える集合住宅の明かりとか、なんだか異世界に見えた。

7月23日(土)国際的菜園

8時半に起きる。久しぶりに朝寝坊とまではいかないまでも、ゆっくりとした起床。朝食はホットケーキとミックスジュース。1週間前はほとんど寝ずに、今ごろ富士山6合目くらいにいたというのが信じられない。

午前中は畑。行く前は暑いしちょっと面倒だなと思っていたが、行ったら行ったで熱中してしまう。今日はベトナム土産の菅笠をかぶっていったら「ええのかぶっとるなー」と上の畑のおじさん。近くの畑のNさんというおじさんの孫が遊びにきており、ガーナ人とのハーフだと知る。意外と国籍ごちゃまぜでいい感じだ。

ズッキーニに人工授粉。ズッキーニはなかなか思ったように実がならない。ミニ田んぼはちょうど水が干上がっていたので、このタイミングで中干しということにする。この時期に水を抜いて地面を乾燥させると、根が水分を求めて下へ向かって伸びるので、風雨に負けない丈夫なイネになるそうだ。

* * *

「ザ・コーブ」

午後は昨日借りてきたDVDを観る。

まず「ザ・コーヴ

」。日本の文化を無視した一方的な映画、みたいなものを想像していたのだけど、それほどひどい内容という印象は受けなかった。まあ悪い評判を先に聞いていたから、悪く想像しすぎていただけかもしれない。話題になったものは、何かしらの先入観を持ってしまうのはしかたがない。

世界各地のイルカショーに使うためのイルカが、日本のある地域で捕獲されている。その捕獲のために追い込み漁をするのだが、ショー用に選ばれなかったイルカは、別のひと目につかない入り江にさらに追い込まれて、そこで1頭残らず殺されてしまう。そんなイルカ漁のことを報告する映画だ。

これはぼくの勝手な想像だけど、いったん追い込んだイルカを生きて帰してしまったら、賢いイルカのことだから、次からはこの入り江に寄り付かなくなってしまうんじゃないだろうか。そうなると高値で売れるショー用のイルカの捕獲もできなくなる。だから追い込んだイルカは全滅させなければならない。ということなのではないだろうか?

と、こんなことを推測で考えてしてしまうのも、なぜ漁師はイルカ漁をするのか?という点が、納得できる形で描かれていなかったからだ。とはいえ、日本のイルカ漁への攻撃性はそれほど感じなかった。それよりも、映画内で問われているのは、イルカショーで客を集めているシーワールドのような企業のあり方であり、ショーを観て喜んでいるわれわれ自身のあり方なのだ。そういう問題提起としての力を持っている映画だと思った。

それに加えて、考えさせられたのは、「なぜ人はイルカを愛しいと思うのだろう?」ということ。こういう問題は感情的になってはいけないと言うけれど、感情の問題を冷静に考えてみてもいいんじゃないかと思う。この映画も元をたどればイルカが愛しいという気持ちから出発しているわけで(水銀の問題なども出てくるけど)、ではなぜそう思うのか?というところに切り込んでほしい。

たぶんそれはコミュニケーションが取れるということに関係しているのだろうと思う。映画中でも、ダイバーの女性が「イルカとコミュニケートしたのよ」とその感動を語っていた。ではコミュニケーションとは何? 意思が往復するということ? 相手の気持ちが想像できて、その想像に近い反応が返ってくること? 今のところそのへんまでしか考えられないけど、なんとなくそんなところに興味を持ってこの映画を観たのだった。

7月24日(日)「未来の食卓」

DVDをあと2本。まず「未来の食卓

」。オーガニック食材を給食に採用したフランスの村のドキュメンタリー。以前の自分は、食べるものなんておいしければいいんだ、お腹がいっぱいになればいいんだ、と思っていたけれど、徐々にオーガニックな世界に興味を持ち始めてきたのかもしれない。

とはいえ「オーガニック=健康」という等式が、完全に成り立つのかどうかはわからない。自然のままがいいというけど、自然とは何かと言われたら、明確な線を引くことはできない。ただ興味を持っているのは、それが独立(自立)につながるんじゃないかということだ。農薬や化学肥料や大型機械に頼るということは、つまり大企業の製品に頼るということ。小さな村では、どこか遠くの都市にある企業にお金を払うより、自分たちのなかにある資源で食料を作ることができたほうがいい。それが自治につながる。そういう意図を持って、この村はオーガニック給食の導入を決めたのではないだろうか。

自給といっても、それは外と断絶して孤立するということではいけない。何かしらの交流がないと村は死んでしまう。でもそこで交換されるものが、例えばお金と農薬だとすると、なにかおかしい。そのお金はもともとその村にあるもの? 村で発生したものと交換するのでなければ、都市にうまくやられるだけだろう。なんて言う自分は都市に住んでいるのだけど。

* * *

「未来を写した子どもたち」

もうひとつ観たのは「未来を写した子どもたち

」。たまたまだけど、これも「未来」という言葉が入った題名だ。アメリカの女性写真家がカルカッタの売春街で暮らす子供たちに写真を教える、その様子を追ったドキュメンタリー映画。この映画の主題は生き生きとした子供たちだと思うけれど、それはそうとして、なんだか写真っていいなあと思う。この映画が撮られたのが2004年。いまはどうかわからないけど、子供たちがフィルム写真を学んでいるのがいい。デジタルに比べて、1枚に対する感覚が違ってくるように思う。自分も写真を撮りたくなってきた。できればフィルムで。

(T)