2012年8月の読書

「暇と退屈の倫理学」

人間は退屈に耐えられない。いくら暇があっても部屋でじっとして何もせずにいることはできない。それはどうしてなのだろう? この本は、この「暇と退屈」をめぐって過去の哲学者が考えた理論や、人類の歴史をたどる。そして、退屈から逃れられない私たちは、ではどうやって生きていけばいいのか? と考え、結論を導き出す。

その結論は‥‥と、本の最後の章を先に読もうとすると、「この結論だけ先に読んでも意味がない、本書を通じて暇と退屈についての考察の過程をたどることで、自分なりの考えを見つけることが重要なのだ」と書かれている。たしかに結論がどうだというより、暇と退屈を切り口にした内容盛りだくさんの本だった。

人間はじっとしていられない。何か刺激や興奮、つまり気晴らしを欲しがる。ウサギ狩りに行くという人に、ウサギが欲しいならウサギをあげようと言ってウサギを渡すと怒ってしまうという例えからもわかるように、実際のモノではなく気晴らしを求めているのだ。

その気晴らしには、ある程度の危険や負荷が含まれていなければならない。これは人類の歴史にも関係している。狩猟採集の時代には、常に新しい場所に移動して、そこで生きていく術を見つけなければならなかった。そのため、人間の感覚や能力は常に全開だった。それが気候変動により、定住をしなければならなくなった。食糧が不足して貯蔵の必要が出たためだという。定住するとそれまで全開だったセンスや能力を持て余す。それで文化や芸術が生まれた。

この話は納得できる。民族博物館で先住民のめちゃくちゃ細かい刺繍の入った服などを見て、なんで寒さをしのげさえすればいいのに、ここまで装飾するのかと疑問に思っていたけど、そういうことだったのだ。定住以来、人間は「暇と退屈」を自分たちでなんとなしなければならなくなった。それが戦争を生み、消費社会を生んでいる。自分なりの理解ではそういうことだ。

これに対して、ある哲学者は「決断せよ」と言う。自分で決断していけば退屈から逃れられると。でも一瞬周りの声をシャットアウトすることで退屈から逃れたという気になるが、結局、時間が経つとまた同じところに戻ってくる。「思考せよ」という人もいる。しかし、人間はそもそも思考しなくてもいいような状態を求めている‥‥。と、いろいろ考えさせられることがたくさん書いてあったのだけど、自分なりの結論をまとめるとこうだ。「あるものを使って、ぜいたくに暮らせ」

「アラブ革命はなぜ起きたか」

著者のエマニュエル・トッドは、フランスの人類学者である。って、もちろんこの本を読むまではその名前すら知らなかったのだけど、この人の理論は興味深い。例えば、チュニジアを発端とするアラブの春の革命について、多くの人はイスラム教と関連づけて考えるけど、実はそれは関係がないと言う。重要なのは「識字率の上昇と出生率の低下」なのだ。

まず男性の識字率が上がる。すると父親の世代は字が読めないが、息子たちは読めるという状況になる。これが新しい価値観の社会を作ろうという動きにつながっていく。字の読み書きができることで、政治的なビラを読んだり作ったりできるようになり、政治が一般の人のものになる。これが民主化ということである。

女性が識字化すれば、慣習のままに子どもを産み続けることを省みて、出生率の低下が起こる。実際、チュニジアの識字率は高く、出生率も3を切っているそうだ。

ヨーロッパの革命の歴史を見ても、そうなっている。そしてその革命が起こるときには、暴力的な混乱が起こる。だから9.11以降イスラムの国でテロなどの暴力的なことが増えているように見えるのも、民主化する過程で起こるべくして起こっていることであって、ヨーロッパだって同じような歴史を辿って来たじゃないかというのが、著者の見方だ。

なるほど。どうしてもこういう話はイデオロギーというか、狂信的な考えが悪事を引き起こしていると思いがちだけど、それはそうだとして、そういうイデオロギーが生まれてくる条件に目を向けるというのはおもしろい。トッド氏によると、その条件は家族の形態によるとしている。これがトッド人類学の基礎なのである。

‥‥で、それが自分にどう関係するのだろう? よくわからない。けど、少なくとも識字率が重要なのはわかった。先進国と発展途上国、というふうに分けるのはあまり気持ちいいものではないけれど、識字率を調べるというのは客観的な指標だと思える。識字化が善でそうでないのが悪だとは決して思わないけれど。よく途上国で教育が大事だというけど、その教育を具体的にいうと、文字の読み書きができるようになることがそのひとつなのだなあ、と思った。

「ブータン、これでいいのだ」

著者は首相フェローという役職で、ブータン政府で1年間働いた。その経験から見えるブータンの現状についてまとめている。文章は平易で読みやすく、柔らかい文化的な話題から、政治経済的なことまでカバーされている。それぞれが単独の話題で終わるのではなくて、全体がうまくリンクされていて、ブータンってこういう感じなんだという著者から見たブータンの今の様子がよくわかる。

ブータンは国民総幸福という言葉が世界に広まったおかげで楽園のようなイメージがあるけど、決してそんなことはないと言う。インドに依存する経済問題や、庶民があとさき考えずローンを組んで高価な物を買ってしまうという、近年のバブル問題など、いろいろ現実的な問題を抱えている。

仕事をする上でも、先の予定が立たず計画が進まなかったり、ミスをしても反省しなかったり、そもそも非難されると逆ギレしたりと、日本と比べたらありえないようなことが多くあったりする。それは日本が大企業だとすると、ブータンは中小企業みたいなもので、そもそも比べるのが無理があるのだと言う。

それでもブータンから学べることはあると著者は言う。それを一言で言うと、タイトルにもなっている「これでいいのだ」という自己肯定力の強さだ。これによって自信を持って生きられるし、今が幸せだと感じることができる。と同時に、矛盾するようだけど、自分の幸せよりも他人の幸せを考える、現世だけでなく来世も視野に入れて幸せを考える、というように、幸せの範囲が広いのも特長だ。そのように著者の御手洗さんは分析している。幸せの範囲を広く考えて、今を大事に生きる。それがブータンの特長ではないかと思った。

それにしても、先の予定を立てないとか、すぐ仕方ないと割り切ってしまったりとか、強く怒られると逆ギレしてしまうとか、なんとなくわかるなあというか、身につまされるという感じがする。自分が仕事で感じていることを、正直に行動に表すとブータン人のような働き方になるんじゃないかと思う。結局は、正直に表現するかどうかの問題なのか?

あと、なるほどと思ったのが、逆ギレされないように注意するには、「他人の話」として伝えるというコツ。人の話として聞かせると、プライドを傷つけずに反省してもらえるのだそうだ。なるほど…って思いつつ、自分は注意される側としてこのシーンをイメージしているの気づく。やっぱりブータン人的なのかもしれない。

「ナチス・ドイツの有機農業」

有機農業とは実のところ、どういうものなのか。自分でもはっきりわかっていなかったけれど、この本の中に「有機農業とは農作業のやり方の中で、肥料の施し方を少し変えるにすぎない」と書かれていて、なるほどというか、やはりそうかと思った。体にいいとか農薬使ってないとかは二の次の話で、肥料をどうするか、作物の栄養やエネルギーをどこから持ってくるのか、土壌をどう保つか、というところが有機農業の本質なのである。自分が畑仕事の中で堆肥づくりに一番興味があるのも、あながち間違いではなかったのだ。

とわかったところで、本題のナチスと有機農業の関係なのだけど、「実はこうだったんだ!」というようなことは今ひとつはっきりわからなかった。ナチスが有機農法を編み出したというわけでもないし、有機農法(バイオダイナミック農法)をやっていた人がナチス化したわけでもない。それぞれがすでに存在していて、それぞれの意図のもとに、相性が合い、互いに影響を及ぼしていったということのようだ。

しかし、貨幣の循環が支える資本主義社会システムの支配の中で、肥料を媒体とした物質の循環が支える社会システムが、有機農業の登場によって、このナチスの時代に表舞台に顔を出した。それが著者がこの問題に注目する理由だという。

なんとなく戦争時に、有機農業が必要とされるのはわかる気がした。

「プロメテウスの罠」

福島の原発事故を検証する、朝日新聞紙上での特集記事をまとめた本。事故が起こってから、福島で何があったのか、政府、東電は実際どうしたのかが取材されている。あとがきにも書かれているように、「◯◯省によると」とか「関係者が言った」という表現ではなくて、どこの誰がどう言い、どう行動したか、その事実を書き記そうという姿勢で作られている。

官邸というと、すべて最新で正確な情報が報告され、優秀な人もすべて集まり、機器や設備も最先端であるというような、映画に出てくるような場所を思い浮かべてしまうけど、実際は普通の人間が、あるひとつの組織として集まっているに過ぎない。当初、指揮が執られた場所は携帯電話もつながらず、原発の図面もなく、詳しいことを知る専門家もいない。情報は一般のテレビ放送だけ、という、自分たちがお茶の間でああだこうだ言ってるのと変わらないような状況だった。

それは批判されるべきことかもしれないけど、なんとなく「そういうものなのだ」という気もする。情報が集まらないことも、組織やしがらみや利害関係や、責任を負わされるのは避けたいという気持ちや、非難を浴びたくないという気持ちは、誰もが持ち合わせている。そこを乗り越えて、1人の人間として「普通」のことができるかどうか。それが問われているし、一番難しいところなのだと思う。

首相が大学の同級生を集めざるを得なかったのも、理解できる気がする。組織ではなく「個人」である人を呼ばなければいけないと感じたのだろう。組織とかしがらみとか人間関係とかは、つまるところ「他人の心をどう読むか」ということに行きつく。話はそれたけど、同じ「政府」内で、方やSPEEDIの予測を使った避難範囲を検討しながら、別室にいた首相にはそれが届かず、自分たちで別の避難方法を考えていたり、現地の対策本部も放射線測定を行いながら、一時避難するときにそのファイルを「置き忘れて」しまったり、ある意味すごく人間臭いことが起こっていたのだとわかった。

最近は新聞をしっかり読んでいないけど、ネットやその他のメディアで言われてきたことが、この本を読んで、自分の中で整理されたような気がした。