スースからバスに乗って、1時間半。古都ケロアンに着いた。車窓から眺めた限り、なんとなくゆったりとした雰囲気で、いい感じの街にみえる。道幅が広くて、空が大きく見えるからかもしれない。途中まで降っていた雨がすっかり上がって、気持ちのいい晴れ間が広がっていたのも関係していそうだ。
ターミナルでバスを降りて、さっそく街に向かって歩き出そう、と思っていると、同行人が「明日のバスの時刻を確認しとこうよ」と言う。たしかに予定では、明日、次の街へ移動することになっている。
しかし、明日は明日だ。いまは着いたばかりの新しい街のことを考えたい。早く足を踏み出したい。この街でどんな出会いがあるかわからないし、すごく気に入ってもっと長くいたいと思うかもしれない。次の場所に行くのか行かないのか、行くとしたらいつどこに行くのか、そういうことは、明日になってから考えればいいじゃないか。
とは思うけれども、それは、いま時刻を調べないという理由にならない。せっかくバスターミナルにいるわけで、いまのうちにさっさと調べておくほうが、はるかに効率的なのは間違いない。ということで、掲示されている時刻表をデジカメで撮影したりして記録する。この判断はまったく正しい。それには納得している。んだけど、なんだか面倒くさいと思ったのもたしかだ。なにがそう思わせたのだろうか?それは予定を決めたくないという気持ちだ。予定を決めることで、感覚的な判断ができなくなることを恐れているのだろう。明日何時までにどこに行かなきゃ、と意識しているのとしていないのでは、気持ちの開放度が違うのだ。街に向かって歩く。タクシーに乗れば早くて確実だろうけど、ガイドブックの地図をコピーして持っていたし、方位磁石もあった。方角さえ間違わずに歩けば、自然と街の中心に行くだろう。そう思いながら、歩を進める。こういうときこそ、感覚が頼りになるのだ。しばらく歩き、念のため方位磁石を見て、また歩く。…ん? なんで正面に墓地があるんだろう? 地図では右手のはずでは? でも方角的には間違ってないぞ…。自分の頭の中の地図と、方位磁石の方角と、目の前の景色が一致しない。これはもしかして迷っ…いや、繰り返すが、こういうときこそ感覚である。自分を信じるのだ。
多くの車が向かう方向に向かって進む。車はたいてい町の中心に向かうはずだ。日差しがきつく、暑い。荷物を背負って歩くのは体力を使う。だんだん疲労がたまってきた。たまりかねた同行人が、前から歩いてきた女の人に訊ねる。
「メディナはどっち?」「こっちよ」とその人が差したのは、我々がいま歩いてきた方向。つまり真逆の方向に向かって進んでいたのだった。結局、その女の人に先導してもらうような形で、メディナまで歩いた。おれの感覚っていったい…しかも翌日、メディナからバスターミナルまでタクシーに乗ったところ、1ディナール以下(日本円にして55円以下)で移動でき、チュニジアのタクシー料金はとてもリーズナブルだということも判明。わざわざ歩いた意義が、ますますわからなくなるのだった…