「アライバル」ショーン・タン
「遠い街から来た話」と同じ作家による絵本。文字はいっさいなく、絵だけでストーリーが展開される。暗い恐怖が忍び寄る街を出て、新天地を求めて旅に出る男性の物語。その新天地がこれまた非現実的だけどリアルな世界だ。仕事を探すも文字がまったく読めず、ポスターの上下を貼り間違えてクビになるシーンが好き。 「遠い町から来た話」ショーン・タン
オーストラリア人作家による絵本。翻訳は岸本佐知子さん。細部にまでこだわった本で、絵も手が込んでいるしコラージュもおもしろい。風刺が効いているような、でもそれだけではないような、不思議な短編が集められている。現実から少しずれたところにあって、でもそっちのほうが現実なんじゃないか。読みながら、そんなことを感じさせてくれる話の数々。とくに男の子の兄弟が地図の端っこを探しにいく話が好きだ。 「BRUTUS 今日の糸井重里」
かっこいいといえば、イトイさんもやっぱりかっこいい。「普通」の感覚を言葉にして表現できるということはすごいことだ。普通がどこにあるか、その場所を定めて表現するのは難しい。自分のことを考えてみても、賢ぶったり、ふざけぶったり、偉そうにしたくなったり、へりくだりたくなったりするのがしょっちゅうだ。けれど、そんな中、ここが普通だというところに言葉を打ち込める。普段は見えない普通という場所を、目に見えるような形にしてくれる。即答を求めたり、具体的には?とか問いつめずに、しばらくそのことで遊ぼうよという感覚も共感できる。 「食べる。」中村安希
中村安希さんはかっこいい。前作の「インパラの朝」を読んだときもそう思ったけど、やっぱりかっこいいと思わせてくれる文章だ。なぜこの人はかっこいいのか?と考えるのはやめておこう。少なくとも、旅したいという気持ち、自分で世界を感じてみたいという気持ちが刺激される。それは書き手が自分の感覚に偽りなく物事をとらえて、記録して、表現しているからだと思う。その人の感覚である、というところがぶれていない。あーさん(文中でこう呼ばれてた)の場合は、短いセンテンスや過去形を多く使った描写で、この感覚を表現しているのだと思う。いや、とにかくかっこいい。(でも帯の顔写真はなくていいと思う) 「巨震激流」三陸新報社
東北の新聞社の編集による本。実際に記事になった記者の体験記を含め、被災した人々の手記や写真がまとめられている。いろいろな状況の中でいろいろな人がこの災害に出くわした。そこを生き延びた人の話だ。 震災に関する本を最近はよく読んでいる。自分にひきつけて考えると、最終的には生死に関すること、つまり死ぬことについて考えることになる。 「1億3000万人の自然エネルギー」
エネルギー政策について、自分が語れることは少ない。でも自分の生活からエネルギーのことを考えようとは思う。 それにあたって、意識したほうがいいと思ったのは、温熱のエネルギーについて。日本では暖房器具で空気をあたためるのがふつうだけど、北欧やドイツでは、建物や調度品をあたためる輻射が主流だそうだ。日本でも温熱に関する選択肢が増えるといいなと、寒い冬のいま思う。 「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」
ヒッピーに代表されるカウンターカルチャーと、アップルやグーグルに代表されるWebカルチャー。それらをアメリカをキーワードにつなげる論考(かな?)「ホールアースカタログ」を作ったスチュアートブラントから、その影響を受けたスティーブジョブスまでの関連性が示されている。 アメリカではジェネレーションという時間の単位がしばしば使われて、それはおおよそ30年だという。まず30年単位で考えようということだ。 こういうふうに、ある程度の長さの時間感覚が共有されているのはおもしろい。とくに今みたいに大きな災害があったりしたあとは、ものごとをどんな時間のスケールで考えたらいいのかわからなくなる。時間のとりかたによって、答えが変わるからだ。時間を意識してみることがまず第一歩だという気がする。
「遺体―震災、津波の果てに」石井光太
東日本大震災は一度に亡くなった人の多さでは未曾有というしかない。この本は釜石市での震災直後からの「遺体」をめぐる人々の様子をルポしている。亡くなった人に敬意を持ちながら、現実問題としても処理していかなければならない。人が亡くなるという感情的なことと、現実的なことがせめぎ合う。 震災当日の夜、消防団の人が真っ暗な海に向かって、誰かいるかと叫ぶと、女性の声で返事があった。しかし、がれきが浮いた冷たい海を渡って助けに行くことはできない。そのときその女性は、自分はどこどこに住む◯◯だと名前を名乗ったという。その話が心に残った。 死を覚悟したうえで名を伝えるというのは、残った人への配慮なのだろうか。死ぬ人は生きている人のことを思い、生き残った人は死んでしまった人のことを思う。生き残った人のなかにも死を覚悟した人は多いはずだ。
死ぬことをどう考えたらいいのだろう? 死ぬということをどう取り込んで生きていけばいいのだろう?
よく、いつ死ぬかわからないから、やりたいことをやろうとか、好きなことをやろうと言う。けれど、自分がそういうこと思うとき、死を本当に身近なこととして感じているとは言いがたい。ほんとうに死を身近に感じるならば、自分は日常のほうを大切にするのではないか。そんなふうに思う。
死というのは奈落の底に落ちるようなものではなくて、生きている日常の世界とそんなに段差がないのではないか。そう考えたほうがいいんじゃないかと最近は思っている。
「反戦略的ビジネスのすすめ」平川克美
ビジネスはコミュニケーションであるという考え方には納得できる。というか、そういう考え方が自分は好きなのだと思う。 ビジネスをする上でみんな何かしらの役割を演じているけれど、同時にその奥にある人間性をすこしずつにじませてそれを交換している。そんな2重の構造になっている。著者の平川さんはそう考えている。 ビジネス上のふるまいと、ほんとうの自分が一致しない、と悩むんじゃなくて、ビジネスマンという演技に自分という個性を含ませる。相手もそれがわかり、その役割のうらにある個性でもって応答する。そういうコミュニケーションの形が確かにあるのだ。