2011年7月の日記(その2)

■7月4日(月)自己アピールの恥ずかしさ?

昨日の会で、わが「暮らし旅行社」の名刺というかカードを配ったのだけど、そういうときの何となく恥ずかしい感じはなんだろう? 自己アピールの恥ずかしさだろうか。サイトに書いてあるのが自分たちのことだから、恥ずかしいのかもしれない。

自分たちのことを自分たちで書いている。それってどうなのかという気持ちがある。書き手になることは望むところだし、自分の書いたものを人に見てもらうのもやぶさかではない。ただ、その書くネタが自分のことだった場合、えも言わぬ恥ずかしさがある。ネタになるものと書き手とは、ほんらい別のものであるべきなのだろう。

例えば、スポーツの観戦記録を書いて、それを他人に見せるというのはあまり恥ずかしくない。でも自分の行動や考えや思ったことを書いて見せるというのは、「自分たち自身を発表する」ということと、「自分たちの表現を発表する」ということの2つの見せ物がある。今までこれを混同していたかもしれない。というか、2つも「自分」があるとすると、ちょっと自分濃度が高すぎるような気がしないでもない。

自分をネタにするなら他の人に書いてもらうのがいいだろうし、どうしても自分で書くというなら、自分を客観して書かなければならない。書き手も自分、対象も自分というのは、きっと簡単なことではないのだ。果たして自分は書く側になりたいのか?書かれる側になりたいのか?

■7月5日(火)「なんだこれは?」的な宮田珠己さん

Yくんとのポッドキャスト収録。終わった後、毎回ぐったりとしてしまう。自分はしゃべりとか仕切りとかは向いてないと思っているので、それはもう仕方がない。

今回は宮田珠己さんの「東南アジア四次元日記

」の話。この本はYくんには合わないかもなあと思っていたけど、やはり感想が難しいという感想だった。今までに読んだことのないタイプの本で、なんだこれは?という感じだったようだ。

でも、ある意味それは正しい感想かもしれない。この本は表面的にはお笑い旅行記だけれども、底に流れているのは、あとがきにも書かれているように、「あらゆる場所が旅行しつくされてしまった今、ここではないどこかを探す旅」である。宮田さんは、ここではないどこかを探して、変な四次元スポットを巡っているのだ。いや、逆かもしれない。たぶん、四次元スポットに惹かれる気持ちはなんだろうと考えて、それが「ここではないどこか」を求める気持ちにつながることを発見したのだと思う。「ここではないどこか」とは、つまり「なんだこれは?」という出会いであり、その出会いがまさにYくんとこの本の間で起こったとも言える。

大きくまとめてしまうと、「なんだこれは?」イコール「芸術」なのだろう。なんだこれは?と思われるのは、簡単そうで難しい。でたらめでいいのかというと、ただのでたらめは、ただのでたらめに過ぎない。ヒントは「ずれ」のようなものだと思う。宮田さんの本には「ずれ」が絶妙に含まれている。だからそれはもう芸術と呼んでしまっていいような気がするのだ。

……なんてことを思ったのはすべて収録が終わってからのことで、こうやって日記を書く段になって初めて言葉になった。この内容にしたって、話し言葉として自分の口から語られるまでには、しばらく時間がかかるだろう。自分の場合は、常に日記が先行するのかもしれない。

■7月6日(水)なんで会社で働かなきゃいけないんだろう?

なんで会社で働かなきゃいけないんだろう? と考えると「お金のため」という答えが、自分の中から返ってくる。でもよく考えてみると、自分はちゃんと眠れさえすれば住宅にはこだわらないし、食べ物はお米がしっかり食べられれば満足だし、最近はこれといった物欲もない。そういう意味では、自分がほんとうに必要なお金というのは少ないはずだ。まあ旅行には行きたいからそのためのお金は必要だけど、でも旅行だけのためなら、長い休みも取れない会社で働く理由にはならない気がする。

じゃあ何のために?とあらためて考えると、それは家族のためということになるのだろうか。自分の場合は同居人つまりツマのため? たしかに家族と暮らすということになれば、それなりの住居に住み、物をそろえて、という気持ちが芽生えてくる。

先日目にした日経ビジネスの記事で、これまでの日本の経済成長を牽引してきたのは「利他」の心理であると書かれていた。お父さんが家族にいい物を買いたい、いい暮らしをさせてあげたいと思う気持ちが、必要十分以上のお金を稼ぐモチベーションを生み、経済が成長したのだという。なんとなく納得できる話だ。誰かに贈り物をするときのことを考えても、その人を喜ばせたいから(がっかりさせたくないから)ワンランク上のいいものを買おうと思うし。

ということで、自分が働いているのは、同居人のためなのであった。

…ってことでほんとにいいのか?

北欧では女性の社会進出が進んでいて、仕事を持つ割合は男性とほぼ同じ。男女等しく育児休暇があったりするし、男性も女性も生涯働くことが前提となっている。こうなってくると、家族を養う、みたいなモチベーションは機能しなくなる。そのモチベーションを作り出すため、たとえばスウェーデンでは社会保障を充実させ、そのスウェーデンというシステムに加入するためには働かなきゃいけませんよということにしたのだと思う。

自分は同居人のために働いているのだと結論づけようかと思ったのだけど、同居人はぜいたくな暮らしを望んでいないし、物もほとんど買わないし、食料も畑で自作しようとしている。となると、なぜ会社で働くのか?はますますわからなくなる。結局、健康保険料を会社が半分肩代わりしてくれるから、というあたりが一番大きなポイントなのかもしれない。

■7月7日(木)プチ田んぼとイネの分けつ

雨。強く降る。この雨で、うちのプチ田んぼに水が溜まるのがうれしい。やってみるまで知らなかったけど、この時期にある程度の水深がないと、イネの分けつが進まない。この分けつという性質があるから、一粒の米が何百何千と(正確な数は知らないけど)たくさんの実に変わるのだ。余った種籾を陸に植えているのだけど、たしかにそっちはほとんど分けつしていない。分けつという倍々ゲームの効率の良さが、陸稲ではなく、水稲が多く作られている理由のひとつなのだろう。でも調整しないと米が余ってしまうような現代では、もしかしたら陸稲中心でもいいのかもしれないな。素人の想像だけど。

■7月8日(金)収量とか効率とか

だめだ。最近はなんか暗くなっている。明るく行こう、と横断歩道でなぜか徳永英明の歌を口ずさみながら思った。今日も出勤前に朝畑。畑を見ていると、何も植えていない空いているスペースがもったいなく思えてくる。マイペースに自然を感じながら自由にやればいいものを、ついつい収量とか効率とかが気になってしまうのだ。

■7月9日(土)不器用さは克服できる?

朝から畑仕事。鳥よけの糸を結ぶのに手間取る。自分は手先が器用ではない。たぶん同居人は器用なほうなので、それに比べて自分の不器用さが際立つように思える。職人とか手仕事的な世界に憧れつつも、そちらに入っていけないのは、不器用さがコンプレックスになっているのかもしれない。

不器用だから、簡単操作とか形や長さや規格がそろっているとか、そういう商品に惹かれてしまうのだろうか。でも、それではますます不器用になってしまう。得意なことを伸ばすのはもちろんいいことだけど、不器用を克服することも、人間として必要なんじゃないか。とはいえ、自分の不器用さに直面するとイライラしてしまうし、はたで見ている器用な人をイライラさせているのではないかと思ったりして、結局、得意な人に任せてしまう。そのほうが時間的には早いし、助け合いということではそれでいいけれど、1人の人としてどうなのだろうか。器用に見られたい、不器用に見られたくないという、見栄の話なんだろうか。なんてことを考えてるうちに、糸くらいさっさと結べるようになったらどうなんだろうか。

■7月10日(日)

両親らと岡山の湯郷温泉に旅行。古くからある温泉町。ぶらぶら歩いていると、おしゃれな雑貨屋があり、入ってみる。同居人が「地元の人ですか?」とお店の人に話しかけると、そうですとのこと。なんとなく、新しい人が移り住んできたのかと思ったけど、そういうことではないらしい。その近くには、これもモダンな宿があった。大阪のgrafというデザイン会社がプロデュースしているそうだ。我々が泊まったのはいわゆる旅館。すごく古いわけでもないし、今風なわけでもないけど、まあちゃんとしてそうという感じの宿だった。露天風呂が建物から外に出た場所にあり、古い茶室とともに野趣があって良かった。

家族旅行をすると、価値観の違いというものをどうしても考えてしまう。物やサービスを買ったりするのは、自分が価値があると思うことへ投票するということだけど、いまやお金という投票用紙は親の世代の方がたくさん持っている。

では、お金以外にも投票できる方法はないのか?と考えると、そのひとつは「自らその場所に行く」ということだろう。移動も投票なのだ。そう思うと、公共交通が安くて便利だったりとか、移動しやすいということが、住みたい場所の条件のひとつになりそうだ。

(T)