2012年4月の日記

4月16日(月)

どうして身内を褒めるはダメなんだろうか。

受け手の立場から考えてみる。 ひとつはひいき目で見てるんでしょという、その目に対する不信感がある。フェアな評価をしていないんじゃないかということ。もうひとつは、身内を褒めることで、自分も一緒に有利になろうとしているんじゃないかという疑い。身内を褒めることで、その人と強いつながりがある自分もすごいのだ、ということを含ませてるんじゃないか。

たしかにこの2つは受け手にとって邪魔になる。受け手としては、公平な目で、自身の利害を越えたことを発信してもらいたいと思うからだ。

てことは、発信者は、身内が身内じゃなくなっても同じことが言えるなら、褒めるなりなんなりしたっていい。そういうことだろう。

4月15日(日)

車を運転して乗って奈良へ。Fは人の運転した車に乗っているとイライラしてしまうそうだ。たしかに僕はスピードは出さないし、急に曲がったりできないので、そう思うのだろう。でも結果的にその方がいいのだ。あ、道を間違えた、と思っても、そのあと意外といい所に出てきたりして、なんだかんだ救われているのである。とか主張しても説得力がないので、とくに言わない。自分の中で納得していればそれでいいのだ。

とある小さな工場に行き、ロケットストーブ作りに使う一斗缶をいただく。この工場で女性がひとりで働いてるなんて不思議。帰り道、バイクのおじさんが転倒するところに出くわし、少し介抱する。靴下の町を通ったりして、初めて行った地域だったけど、どこをどう走ったのか今ひとつわからない。カーナビに頼るのも考えものだ。

4月1日(日)

Fが人づてに、畑のすぐそばにある田んぼを借りられないかと頼んでいたが、やはり難しいそうだ。土地自体は何にも使われていないように見えるけど、税金や水利などの関係だという。でもそういうテクニカルな問題だけじゃないような気もする。田んぼという土地を人に貸すということは、なにか特別な抵抗があるのかもしれない。自分の土地に対する防衛本能のような? まったくの推測だけど。

土地を持っている人は、その財産のためにその土地にしばられているとも言える。もし移動できるということが価値になると、土地を持っているということは不利になる。税金も取られたりするし。

税金というのは、「あがり」の部分と、助け合いの部分があると思う。富を得たのだから上納しなさいというのがあがり。それを政府が助け合いに使ってくれればいいのだけど、そうなるとも限らない。だからお金持ちの人が、税金対策として寄付をするのはわかる。でも土地の場合は、固定して税金を取られる。選択肢がない。そう思うと土地を持つ人は不自由だ。逆に土地を持たない人は自由そうだけど、でも土地を持つ人からはあまりよく思われないだろう。移動する民のことを思い浮かべると、そんな気がする。

移動についてもうちょっと考えてみたい。効率的に移動しようと思えば、環境問題と矛盾する。車にしても飛行機にしても石油を使うし、極論したら、何もしないのがいちばん環境にいいということになる。でも移動するというのは、人間の根源的な行為だ。それをなくすことはできない。というか自分はなくしたくない。(いま自分は移動を正当化できる考え方を探している)。きっと人力に近いかたちで移動するのが理想的なのだろう。自転車とか。自転車を大量生産ではなく自作できたら、それはいい移動手段だと言えそうだ。(次に旅に行くとしたらどうやって移動するか、ということをいま考えている)

4月5日(木)

WWOOFをめぐる旅に出ることに前向きになってきた。その旅はすなわちフリーエコノミーの旅だ。今読んでいる「ぼくはお金を使わずに生きることにした」

の影響も大きい。いまのところ、著者のマークボイルほど、自分は気候変動や環境問題に対する危機意識は強くないけど、 消費社会によって自らの首を絞めてるんじゃないかという意識はなんとなくある。それはなんとももったいない話だ。自分の首を絞めている手を離してみる。そんなコンセプトの旅になるんだろうか。

消費社会はおかしいと思う人は多いと思う。だけど、「「しがらみ」を科学する

」の話を適用すると、「自分は消費社会はおかしいと思っているけど、自分以外の人はそんなこと思っていない」と考えている人が多い。そういうことかもしれない。

でもフリーエコノミーを旅に当てはめると、マークボイルみたいに、お金を全く使わない、カーボンフットプリントも極力意識する、というのは制約が大きすぎる ようにも思う。いままで稼いだお金を持っている自分、つまり過去の自分をパトロンとみなす、というのはどうだろうか。旅人の自分は過去の自分からお金をもらうのだ。

4月6日(金)

できるだけ言文が一致している人の文章が好きなのかもしれない。

4月7日(土)

Fがひっそりとリサイクルを呼びかけた効果か、「欲しい人は使ってください」というメッセージとともに、不用品が置かれていた。持って帰った人から、いただきましたというコメントも残されていた。

友人宅近くの公園で花見バーベキュー。桜は咲いていたけど、肌寒い。

4月8日(日)

地域の自治会の総会に出席。質問などはとくに出ず、さっと終わる感じだった。でもほんとうはここで質問しなきゃいけないんだろうな。でもさっさと帰りたいとか、へたに突出したくないという短期的な欲求が、意見を言ったほうが組織のためになる、という長期的な欲求にまさってしまう。

長期的にものごとを考えるのは難しい。というか、それを実行するのが難しい。体の欲求は短期的なものに反応するからだろう。じゃあ、長期的な考えを体の動きと連動させるような仕組みがあればいいんだろうか。今年の目標を正月に書き初めするというのも、筆を使って書くという、体を使う仕組みをわざと組みこんでいるのかもしれない。

4月9日(月)

昨晩はDVDで「ペイフォワード」を観た。エンディングの展開はちょっとどうかと思ったけど、内容はおもしろかった。 10年前の映画。題名は知っていたけど観たのは初めて。このあいだ読んだ「僕はお金を使わずに生きることにした」でこのペイフォワードの概念に触れられていて、一度観てみようと思ったのだった。

ペイバックじゃないところが、この考え方のおもしろいところだ。誰かに親切にしたりされたりしたとき、お返しをその人にするんじゃなくて、別の誰かにしよう、というのがペイフォワード。お返しが直接返ってくることを放棄する代わりに、別の人から親切を受けることもあるということだ。情けは人のためならず、に近いかもしれない。何かもらったりしたら同程度のお返しをしなきゃいけない、という義務感から解放される感じがいいなと思った。

4月12日(木)

書くことがないな。ということで、書くということについてぼんやり考えてみる。

文章とは、空間的、時間的なことを、1本のリボンのような言葉のつらなりとして表現することだ。例えば、いま目の前にある空間を文章で表現しようとすると、テープかリボンを手に取って、目につくものひとつひとつに順番に巻き付けていくような、そういう作業なんだろう。そこに時間軸も加わるので、かなり面倒でこんがらがったことになりそうだ。

いま起こっていること、起こり続けていることを、一本のリボンのような文章に記していくというのは、考えてみれば奇妙なことだ。古代の人は洞窟の壁に絵を描いたりしたというけれど、それは空間を空間として表現しようとしたわけで、ある意味自然なのだ。とかそんなことを思う。

4月13日(金)

夜、造幣局の夜桜見物。

4月14日(土)

午前中の雨があがったので、昼は近くの公園で桜を見ながら弁当を食べる。丸刈りの中学生が桜の木の枝に登っていて、折れやしないかとはらはらした。食後、キャッチボールを少し。午後は畑仕事。ジャガイモの芽が出てきた。

同居人の実家で録画しておいてもらったマリナーズの試合を見る。イチロー、川崎はもちろんだけど、アスレチックスのウィークスという1番打者が気になる。小柄な黒人選手で、なんとなくコミカルで野球選手っぽくない雰囲気。WEEKSって何週間なんだよ、とか突っ込みながら見ているうちに、なんかちょっとファンになってきた。