楊逸さんは「外国人」として初めて芥川賞を取った中国出身の作家だ。どんな文章を書くのだろうと本を読んでみたいと思っていて、手に取ったのがこの本。これは小説ではなくて、子どものころから日本に来るまで、中国で過ごした時代の食べものについて語るエッセーだ。食べものにまつわることを振り返りながら、当時の中国の様子や楊逸さん自身の暮らしが描き出されている。
楊逸さんは中国の東北部の街ハルピンで育った。そして1970年代に彼女の一家は「下放」される。下放とは、都市に住むいわゆる知識階級の人々を、強制的に農村に移住させる制度のことだそうだ。頭の中で「げほう」と読んでしまったが「かほう」が正しいらしい。読み方さえ知らなかった。
親が教師をしていた彼女の一家もこの下放の対象となり、辺鄙な農村に移り住むことになった。農民の中には、反対に都市に住む場所を与えられて移住する「上調」という制度もあったという。
下放された先は家もボロボロで土地も荒れており、村人から歓迎されるわけでもなく、母は涙する。そんな中でも一家は少しずつ畑を耕し、家畜を育て、暮らしを立てていく。その中心には食べものがある。
肉を買うにはお金とは別の「票」が必要だったり、農村から都市へ野菜を積んだトラックが直売に来ていたり。そんな風景から当時の中国が行っていた政策が垣間見え、都市と農村の関係についても考えさせられる。
下放が解かれ、一家はハルピン市に戻ることになり、食糧の配給制度も終わって、街には個人経営の店もでき始めた。灰色だった街が料理屋の明かりでカラフルになり、若者だった著者は楽しい気分になったという。この変化に心躍らせる様子が何かノスタルジックなものを感じさせ、印象に残った。
楊逸さんが書く日本語は、ちょっとユニークな表現があったりして憎めない。例えば食べるものの「好き嫌いなく」という表現を「いや、好きはあっても嫌いはなく」と言い直していたりして、たしかに「嫌い」はなくても「好き」はあるよなと妙に納得させられたりした。こういう表現からも、楊逸さんの子ども時代は、苦しくもあったけど温かくもあったのだろうなあということが伝わってくる気がした。
「スリランカの悪魔祓い」
旅行に行くにあたって読んだスリランカ関連の本の中で、いちばん面白かったものがこれ。スリランカの田舎に伝わる悪魔祓いについて調べるため、若き人類学者であった上田紀行さんがフィールドワークをする。この当時でも都市や高地地域での洗練された仏教文化から見ると、この悪魔祓いのような伝統的な風習は軽視されていた。
スリランカの仏教は昔からあったものだけど、今のような形になったのは、近代になってからアナガーリャ・ダルマパーラという人によって立ち上げられた仏教がシンハラ人に大きな影響を与えてからだという。それはキリスト教に対抗するためのナショナリスト的な仏教であった。
悪魔祓いは一見、ただの出しもののように思える。けれど病気治療のメカニズムから考えると、とても理にかなっているものだと著者は考えた。病気になった人には悪魔が取り憑いたと考え、その悪魔を呪術師による儀式によって取り払うというのが悪魔祓いの治療法だ。
儀式は一晩かけて行われ、ドラムの音楽あり、踊りあり、最後にはギャグの応酬による笑いもあり、というイベントである。近所の人も招き、飲食物などを振る舞う必要があるので金がかかり、それも悪魔祓いが近年少なくなってきた理由のひとつだそうだ。
こういう治療は非科学的に思えるかもしれない。しかしいわゆる西洋医学の薬も、その効果の3割くらいはプラシーボ効果だという。つまり治療においては心理的な面も無視できない。このことを合理的に利用しているのが悪魔祓いであり、実際多くの人が「治る」のである。
もちろんスリランカには西洋医学の病院もあり、しかも無料だそうだ。西洋医学で治らないときに悪魔祓いの出番となる。病の原因は「孤独」から来る、とスリランカの人は言う。その孤独が悪魔祓いを経て、再び村のコミュニティに戻されるとき病が癒される。
病の原因となる「孤独」というのは、優劣の比較で考えてしまう左脳的な思考に根源があるのではないか。日本に帰って日本の現実を目の当たりにした著者は、そう考察している。他者より優れているということでしか幸せを感じられない社会がストレスを生み、病気を生む。そこをなんとかしないと、日本の根本的な「憑きもの」は離れない。
海外の文化を自分自身のところまで一本の線を繋げて考える。そんな著者の態度に共感した本だった。今もこういう風習は残っているのだろうか。スリランカ旅行に向けてひとつ新しい視点が加わった。
」
宇宙に詳しいSF作家とスリランカ。共通点がなかなか思い浮かばないが、著名なSF作家であるA・C・クラークはスリランカに移住し、人生の大半をその地で過ごした。
このエッセー集を読むと、なぜ彼はスリランカが気に入ったのががわかる。その答えのひとつが海だ。スリランカには世界有数のダイビングスポットが多く、クラーク氏もダイビングに魅せられ、そこに宇宙との共通点を見たのである。
それはそうと興味深かったのは、クラーク氏による未来予測。この本が書かれた数十年前に、ちょうど今くらいの時期のことを予測している。その中には自給自足式の移動住宅やインターネットのようなネットワークが言及され、都市はだんだん衰退していくという。確かにそうなっていってる気がする。
「農薬学」
野菜なんて興味がないと思いながら、家庭菜園をやっているうちに、図書館でこんな専門書を借りてくるまでになってしまった。
とはいえ、読んでも難しすぎてわからない。農薬学とはつまりは薬学であり、化学の知識が必須なのだ。まあ農薬の大まかな分類(殺菌剤、殺虫剤、除草剤、生育調整剤)はわかったような気がした。反対に言うと、それすら今まで理解してなかった。
本の中で一点だけ「そうだそうだ」と頷いたのは、「日本はまれに見る雑草の国」だという記述。温暖湿潤な気候がそうさせるのだそうだ。そりゃ毎日のように草刈りをしないといけないわけだ。
これを逆手に取って、雑草を資源として使うべきだというのが、菜園内での自分のささやかな提案である。刈った草をせっせと集めて発酵させて、堆肥にすることをもっとやりたいと思っている。作物自体にはまだそれほどの興味がないのだけど、堆肥作りはちょっとおもしろいのではないかという気がしている。
「100,000年後の安全」
スリランカを舞台にしたハードボイルド小説。話の筋もおもしろく、民族や政治の問題にスリランカの文化も絡んでいて、飽きずに一気に読んだ。
でもハードボイルド小説と聞くと、どうしても一歩引いてしまう。暴力とカネと女で話を引っ張るんだろうという予測が立ってしまうし、実際にそうだからだ。恐怖や性の描写についつい引き込まれる自分を含めて、予測の範囲内というか‥‥。もちろん非日常の世界であり、こんな怖い目に遭うのはいやだとか、セックスシーンが刺激的だとか、普段の生活では体験できないことなのだけど、うーん、とちょっと思ってしまう。
まずもって、危険に次々と巻き込まれていく主人公と自分との違いを考えてしまう。もちろんこの物語の主人公も危ないことを避けようとしているし、冒険家ではなく遺跡発掘者という設定だから、普通の人の感覚を持っているとは言える。でも暴力や政治や争いとか欲望とか、そういうものが渦巻く世界、それは今の自分の世界と本当につながっているのか? 例えばスリランカに住んだら、こういうことに巻き込まれること必至なのだろうか?
主人公は、シンハラとタミルという、顔だけでは見分けがつかないような人種同士が争っていることを不毛だと言っている。これには大いに納得した。たぶんこれが著者の主張でもあるのだろう。
その一方で、テロリストやスパイに対して、憧れのような気持ちを抱いている。このへんがちょっと理解できない。それは若さというものの表れなのだろうか。それとも時代なのだろうか。ハードボイルドに共通するのは(っていうほど読んだことないんだけど)、こういうテロリストに対する憧れであり、理念のために手段を選ばないような一途さであり、そういう人が発する充実感のような空気であるような気がする。
退屈な気持ちとともに生きている人から見ると、それは憧れに見えるのかもしれない。でもそんな充実感ってほんと?という疑問を持ってしまう。それがきっと、自分がハードボイルドに対して持つ違和感なのだろう。まあ一言で言うと、「仕事だりぃ」とか言わないところに共感できないのかもしれない。
この本は農業高校の教科書として作られたものだそうだ。堆肥作り、化学肥料、農薬、そのあたりのことに関心を持っているうちに、こんな本を手に取るようになってしまった。
この本には、「土」とは何か? から始まり、おもに化学肥料の解説や使用時の注意などが、化学的な理論に沿って説明されている。石灰=CaO、苦土=MgO、カリ=K2O、ソーダ=Na2O、リン酸=P2O5など、通称と実際の元素の対応表があってわかりやすかった。
しかし、今自分が興味を持っているのは堆肥である。この本では、堆肥の元になる腐植(植物の残さなど、土壌にある有機物)については、「きわめて複雑で科学のメスはまだ十分に及ばず、わからないことが多く残っている」と書かれていた。おお、わからない。残念だけど、それはそれで勇気をもらえるというか、やりがいを与えてくれる言葉だ。実験と称して、自分で勝手に遊んでいいということだ。堆肥は多めに投入しても問題は起きにくいとのことで、刈草などをどんどん畑に鋤き込んでやりたい気分になった。
堆肥は微生物によってアンモニアに分解される。そしてそれがさらに分解されて硝酸にもなる。この2つが植物の栄養になる。この成分を直接、植物に与えるのが化学肥料であり、微生物の分解を介するのが堆肥などの有機肥料ということなのだろう。
しかしこの本を読んでいると、いわゆる「農業」をやろうとすれば、肥料の投入は避けられないように思えてくる。これまでろくに肥料もやらずにやってきたうちの畑で、作物が採れていたのが不思議なくらいだ。まあとにかく、刈草や野菜くず(食べ残し)で作った堆肥と草マルチ方式で、なんとなくいい感じになるんじゃないだろうか。このくらい適当にやれるのが自家製堆肥のいいところだと思う。
化学肥料を使おうとすると化学の知識がいるし、使用量、タイミング、組み合わせ、土壌の条件によって調整しなければならないなど、かなり面倒くさい。それがこの本を読んでわかった。逆に言うと、肥料をいかに配合してどう与えるかというのが、「農業」の醍醐味だったのかもしれない。
「面倒くさい」に正面から向き合う本である。というと、何のことだかわからないだろうけど、温泉に興味もなかった著者が、迷路みたいな温泉旅館なら興味を持てると思い、日本全国の温泉宿をめぐる旅をする。なぜかおじさん3人旅となり、そんなスタイルもありそうでなさそうで可笑しいのだけど、その旅の中でたどりついた答えのひとつが「温泉は何もしなくていい」というものだ。つまり温泉旅行は、面倒くさい人に適した旅行なのである。
面倒くさい、それはつまり、何もしたくない、何も考えたくないという欲求だろう。人間は何もしたくないと思うからこそ仕事を機械化し、何も考えたくないと思うからこそ、仕事をマニュアル化し、面倒くさいという欲求にしたがって進化してきたのである(適当)。その人類の大きな目的達成を祝うのが、温泉なのであろう。そう思うと、両親に温泉旅行をプレゼント、とかもわかる気がする。
ということで宮田珠己氏は、何もしない道まっしぐら‥‥かと言えば、そんなこともなく、じっとしていられずに迷路旅館を探検しまくっている。このへんの矛盾がこの人のおもしろいところだ。
この本の冒頭で著者は、人間ドラマを排除し、空間や風景だけを書いたボオの作品に感動し、自分もこの方向で行こうと決める。このあたり、人間ドラマ方向に引っ張られがちな世の中のストーリーに対してのアンチテーゼとして、痛快だ。
で、著者は温泉地での人とのふれあいには注目せず、温泉宿の迷路的空間について書き記していくのだけど、その過程を通して「どうしても〜をしてしまう」「~を思ってしまう」という人間像が立ち上がってくる。
つまり、著者は人間を描くことを否定しているのではなく、安易な人間ドラマから距離を置くことで、人間の別の感覚が浮かび上がってくるのだろう。だから迷路なんて興味がないという読者でもおもしろく読める。自分の感覚に忠実な文章はおもしろいのだと思う。