2011年8月の日記(その3)

8月15日(月)

地域の盆踊り大会。仕事から帰って、おにぎりをほおばり、浴衣に着がえて出かけた。先日、練習に行ったかいがあって、すぐに踊りを思い出すことができた。スパイダーマンの着ぐるみを着て踊っているおばさんが謎。中休みにアイスキャンデーが配られる。テキ屋のおじさんにも配られる。かき氷屋の人はアイスキャンデーをもらって、ちょっと複雑な気分だろう。

8月16日(火)

盆踊り大会2日目。今日はミャンマーで買ったロンジーを履いて出かけた。違和感なしと思っていたけれど、帰り道、同じマンションの奥さんに、職人さんか何かなんですか?と言われた。

8月17日(水)

西加奈子「円卓

」を読む。最後のシーンがぐっときた。詳細は書かないけど、ものの名前というか単語というか、そういうものの強さを感じた。名詞の寄せ集めることで、その人の気持ちとか記憶とかがよみがえる。思い出を一気に浴びるような強さ。

8月18日(木)

もう少し世の中について行かなきゃいけないんだろうか。最近、ちょっとテレビが欲しくなっている。BSのドキュメンタリーとか観たいと思うから。スマートフォンも持ってると便利なのかもしれない。まあ、電話じゃなくてもいいんだけど。でもなあ、電車に乗ってる人のほとんどが携帯の画面見つめてるのって、やっぱりちょっと異様に見える。って仕事でずっとパソコンに向かってる自分も似たようなものかもしれない。

なんで世の中について行かなきゃいけないと思うんだろう。 重要なことを見逃したり体験し損ねたりしたくないから? ちょっと違う。ある程度「ついて行く姿勢」を取っておかないと、何かを拒絶してる人になってしまいそう。たぶん、そんなことを気にしているのだろう。

8月19日(金)

会社の歓送迎会。旅行が好きな人がいて少し話す。チリとアイスランドに興味があるらしい。渋い。僕が行ったことあるというと、旅行記を書いてほしいと言われた。旅行記かあ。書いたものがないわけでもないけれど、この前の写真の話と同じで、記録と表現がごっちゃになっているような気がする。そんなときは中途半端に書いたものは一度捨てて、えいやと最初から手書きで書いてみるのもおもしろいかもしれない。時間はかかるけど、書いている自分自身がおもしろい。写真にしてもフィルムで撮って現像してプリントしてというのは、時間が(お金も)かかるけれど、なんとなくそっちのほうがおもしろい気がする。パソコンやデジカメを使うと、気軽に書いたり撮ったりできる。でも情報が大量になって、それを処理しなきゃいけないとなると、とたんに面倒になる。何かに追われるような。いや何かにというよりも、「まだ処理してない」という自分の中の感覚に追われてしまうような感じ。

8月20日(土)

早起きして、甲子園へ高校野球の決勝戦を見に行く。同居人も高校野球にはまりつつあり、なんとなくうれしい。野球のおもしろさや球場の雰囲気が、好きになって来たみたいだ。そう、野球はおもしろいのだ。と、言える人が増えたのがうれしい。野球というのはゲームとしてよくできているし、甲子園という仕組みにも独特の雰囲気がある。今日はスコアブックをつけながら観戦。日大三が強さを見せつけて優勝した。夏の高校野球は、見に行くだけで思い出を作ることができる。

8月21日(日)

デジタルなものは残らない。そう考えた方がいい気がする。デジカメで撮った写真やwebに載せた文章は、いつか消えてなくなるということを覚悟しておいたほうがいいのだろう。もちろん、紙に書いた文章やプリントした写真もいつかはなくなってしまう。ある日ぶちっと消えてしまうのか、じわじわと風化していくのかの違いなのかもしれない。そんなことを思ってノートに書いている日記も、もう少し字をきれいに書こうと思う次第。

同居人の実家に置いてあった「人生がときめく片づけの魔法

」をぱらぱらと読む。ものを捨てる基準は、「自分がそのものに対して、ときめくかどうか」だと書かれていて、なるほどと思った。

(T)