2011年11月の日記

11月A日

STU:L のイベント。今回のゲストはヨガの先生だった。

かつてはヨガといえば、ちょっと怪しいもの、うさんくさいものと思っていたが、最近はちょっと見方が変わってきた。当のヨガの先生から「ヨガについて持っているイメージは?」と聞かれたときに、そのことを答えられればよかったのだけど、その場では言葉になるには至らなかった。

身体に関する何らかの実践をしたいとは思っている。でも今はあまりスポーツをすることには興味がない。ゲームとして楽しいものには興味があるけど、エクセサイズとしてのスポーツはしようと思わなくなった。

「鍛える」ということに、疑問を持っているからかもしれない。ハードな負荷を体に与えれば、身体能力がアップする。それをかつては信じて疑わなかったけれど、今は体にとって良いことなのか確信が持てなくなっている。そんな中で 「身体を知る」「自分を知る」というヨガのコンセプトには惹かれるものがある。宗教的な教えに導かれることには警戒感があるけど、自分を知るという課題については興味がある。

健康であるという状態は揺らぎやすい。それより自分の身体を知っていくという考えの方が、階段を上っていける感覚がある。健康はいつかは損なわれるものだ。ずっと右肩上がりということはない。下降してきたときの心の持ちよう、考えかた、生きかた、そういうところに関心がある。なんて、老人みたいだ。

でも日本の社会もそういう状態にあるんじゃないかという気がする。まあ、それは自分の視点から見たら、という話だけど。

11月B日

旅行で知り合って以来の友人夫妻が、子供をつれて来宅。畑を見に行ったあと、うちで鍋をした。市場で買ってきてくれたブリを使って、ブリしゃぶ鍋。おいしかった。

友人のヨメのほうは、1月から3月までフルタイムで仕事に復帰する予定で、そのことを憂いていた。意外にも、というと失礼だけど、子供と離れたくないというのが大きな理由みたいだ。うちの同居人に向かって「働かへんの?」としきりに訊いていたのが印象に残った。自分だけ働かなければいけないということに、なにか救いが欲しかったのだろうか。なんていうのは深読みし過ぎか。

ダンナのほうは、派遣社員とバイトのかけもち。ウチもそうだけど、将来に向けて経済的な不安というものはあるだろう。それにしても、ウチはのんびり構えている。ぼくの仕事(というか会社)もいつなくなるかわからないのに、そのときへの準備もしていない。どういうことをすれば準備になるのかもわかっていない。もう会社に就職する気はないし、同居人もそれはない。そのときに自分たちが持っているもの、できることで生きていくしかない。そんなことをぼんやりと考えているだけだ。大きなお金をどかっと稼がなくても暮らしていける方法。そういうことを社会全体が考え始めているんじゃないか。と、これまた自分視点での見方だけど。