ラブラビと好き嫌いについて

スースに到着して宿を決め、荷物を下ろしたあと、夕食を食べに外に出た。時刻はまだ18時台だけれど、日はすっかり暮れている。さっきまで出ていた服を売る露店も店じまいを済ませ、人通りも少なくなった。チュニジアの夜は早いようだ。

大通りに面して、オープンカフェのようなスタイルのレストランが何軒か並んでいた。英語メニューを書いた看板がある。しかし、お客はほとんどいない。いても、食事をしている人は見当たらず、コーヒーを飲んでいるだけだ。別の「レストラン」と書かれている店を覗いたら、ここも賑わっている雰囲気はなかった。チュニジアの人は、あまり積極的に外食をしないのだろうか。

ぶらぶら歩いていると、こじんまりとした店に出会った。数組の男性客がいて、何か食べている。何が食べられるんだろう、と、中をのぞくと、店のおじさんが「これだよ」と見せてくれた。どんぶり鉢にパンをちぎっていれ、そこにスープをかける。ああこれがラブラビというやつか。ガイドブックに載っていた料理だ。てっとり早く食べられそうなので、ひとついただくことにした。

ヒヨコマメがたっぷり煮込まれたスープに、卵を落とし、ふやけたパンといっしょにかき混ぜて食べる。一瞬、エビかカニか?というような味がした。エビアレルギーなので焦ったが、よく味わってみると、唐辛子だと思われた。ハリサと呼ばれる調味料が入っているみたい。うん、なかなかいける。と 思って食べていたのだが、だんだんスプーンを口に運ぶペースが落ちてきた。おいしくないわけじゃない。夕方に列車で食べたサンドイッチがボリュームたっぷりで、まだお腹が減り切っていないということもある。でも、なんというか…パンをスープにひたひたに浸して食べるということに、どうも抵抗があるのだ。パンはパン、スープはスープでいいじゃないか。この抵抗感の理由を分析してみると、それは「湿っている」ということを警戒しているからではないかと思う。本来、乾いているべきパンが湿っているということは、そのパンは腐っている可能性がある。それを誤って食べてしまわないために、「湿ったパンは警戒せよ」ということが、本能的にプログラムされているのである。そういえば、かつては丼ものも苦手だった。これはご飯が汁につかってべちゃっとなっているのに抵抗があったのだ。これも腐敗への警戒心のなせる技であろう。さらに、好き嫌いについて思うところを述べると、嫌いというのはつまり、そのものの味がわかり過ぎるということではないか。普通の人が感知できない味までを感じてしまうために、食べられなくなるのである。自分はシイタケが苦手だが、それはわがままを言っているのではなく、シイタケに対してすぐれたセンスを持ち合わせているということなのだ。

と、まあ、そんなことはさておき、現地の人がラブラビを食べる様子を眺めてみた。どんぶり鉢とパンをまず受けとり、パンを自分の好きな大きさにちぎって鉢に敷き詰め、そこにスープをかけてもらう。そういう流れのようだ。セルフうどんみたいな感じ? 日本の駅そばみたいに、小腹が空いたらちょっとかき込むようなものかもしれない。

ケロアンの町で食べた2度目のラブラビでは、パンとスープを別にしてもらった。牛丼ではなく「牛皿とライス」にしてもらったようなものだ。よし、これならパンがビタビタになることはない。と思って、食べ進んだけれど、うーん、やっぱり後半は苦しくなる。ヒヨコマメ攻めに飽きがくるからだろうか。いや、なんたってこれ、けっこうな量なのだ。1人前を2人でシェアしても、お腹いっぱいになる。手が止まるのも無理はない。あ、でも満腹になったと思うのは、味に飽きたということ? 味の問題なのか、量の問題なのか、わからなくなってきた。

「これって、おいしい?」と同行の妻に聞いてみると、「まあまあやな」とのこと。そう、一言でまとめると、まあまあなのだった。