9月26日(月)
片付けたい欲求がやってきた。自分の部屋にある使っていないもの、古着や、古いパソコンや、もう読まない本や、雑誌、CD、電気コード類。そういうものを一掃してしまいたい。思えば、この10年くらいは、会社の寮暮らしだったり、バックパッカーだったりで、自分の持ち物はとても少なかった。それが今の生活では増えてしまっている(一般的な人よりはまだ少ないと思うけど)。それをなんとかしたい。
でもこういう欲求は、あまりほめられたものではないと思っている。自分が好きな物だけに囲まれていたい、自分の使う物は少数精鋭にしたい、と言うとき、その「物」を「人」に置き換えてみると、ちょっと危険な欲求だとわかる。
とはいえ、片付けたい、少数精鋭にしたいという欲求が自分の中にあるのは確かだ。服なら最低限着る分だけ持っておいて、あとはいらないと思ってしまうし、何か新しい物を買ったら、古い物は捨ててリプレイスしてしまいたいと思ったりする。食べ物にしても、冷蔵庫に残っているものは、片っ端から早く食べきってしまいたい気分に駆られる。
食料については、同居人に言わせれば「底が尽きてしまうのが不安だから、全部をちょっとずつ使っていきたい」のだそうだ。たしかにそのほうが理にかなっているし、生き延びるためには正しい選択のように思える。食料を食べ尽くしてから、さあ次の食料を手に入れようと思っても、すぐ手に入るとは限らない。
自分は「なくなったら買えばいい。だから余分なものは買う必要はない」と考えているということだろうか。なんか傲慢な響きだなあ。いや実際はもうちょっと穏やかに「なくなったらそれはそれでいい」くらいに思っているのだろう。
「もの」をお金で買える商品とみなすかどうか、ということも関係しているのだろうか。ものを捨てることの後ろめたさは、ものの循環を止めてしまう、殺してしまうという罪悪感なのかもしれない。だから同じように手放すのでも、捨てるのと人にあげるのでは、感覚が違うのだと思う。
9月27日(火)
同居人が友人宅からいらない服をもらってくる。ああ、また物が増えるーと思いきや、意外と普通に着れそうな感じの服で、どうもありがとうございます。
同居人のバイク旅行時の写真が、モンベルのカタログに掲載されるらしい。
9月28日(水)
電化製品ほしい欲もやってきた。iBookが壊れてDVDが観れなくなったし、10年くらい使っているデジカメはメモリが64MBしかないし、どちらもなんとかしたい。でも下手にノートパソコンやデジカメを買い替えるくらいなら、iPadやiPod touchなんかを導入するのもアリなんじゃないかと思ったりする。
うーん。と悩んでいたら、昔買った外付けのDVDドライブを、今使っているWindowsのノートパソコン(DVDドライブなし)につないで、ドライバソフトを入れれば、DVDを観られることが判明。デジカメも、古い規格のメモリースティックはもう売ってないと思っていたけど、アダプタをつけることで対応できそうなことがわかった。おお、とくに大きな買い物をしなくても切り抜けられそうだ。同居人の「あるものをできるだけ利用しよう」とする姿勢のおかげで、なんとかする方法が見つかった。
同居人に比べると、自分には古いものは捨てて新しいものを取り入れたいという欲求が、やや強くある。こういう欲求は経済成長とかそういうものにつながっているのだろうか…とかいうのは考え過ぎだろうか。あ、でも衣服に関しては、自分は保守的だ。同居人が「新しいの買ったら?」というところを、まだ着られるものはできるだけ生かしたいと思う。破れたジーンズや靴下なんかも、繕ってまだ履き続けたいと思ったりする。ようは好みの問題なのかもしれない。
9月29日(木)
ごはんがおいしい。睡眠が気持ちいい。秋になったからだろうか。
さて、昨晩は「哲学カフェ」に行ってみたんだった。気分的には、仕事終わったらさっさと家に帰ってごはん食べてくつろぎたい。そしてぐっすり眠りたい。そう思っていたのだけど、なにか外と関わりを持たなければという思いが、足を運ばせたのだと思う。
「哲学カフェ」は、駅構内のオープンなスペースで定期的に開催されている。行くのは今回が2回目だ。各回ごとにテーマが設定されており、進行役が1人いて、参加者は挙手をして発言していく。出入りは自由。今回の参加人数は30〜40人くらいだっただろうか。学校の1クラスくらいのイメージだ。
こういう場があるのは貴重だし、貴重な試みだと思う。いろいろな人の考えを聞けて、刺激される。ただコミュニケーションの場としては、少し違和感もある。それぞれの人の発言には示唆があるし、もっと突っ込んで聞いてみたい内容なのだけど、それが宙に浮いてしまうというか。聞く人はそれぞれの胸の内で受け止めているのだろうけれど、発言した人には、投げたボールが返ってこないような寂しさがあるのではないだろうか。自分が発言したときにもそう感じたし、他の人が発言しているのを聞いていてもそう思った。
フィードバックとかリアクションとか、そういう問題なのかもしれない。フィードバックについて考えてみると、たとえば同僚に頼んだ仕事について、自分はちゃんとフィードバックを返しているだろうか? という反省がある。同時に、自分に対してもどこかからのフィードバックが欲しいと思うこともある。フィードバックを作るということが大切なのかもしれない。投げられた球に対する投げ返し。これがいろんなものを動かす力になってるんじゃないか。そんなことを思ったりした。
9月30日(金)
ロンリープラネットのチュニジア版を買おうかどうしようか。あれこれネット検索して時間を使ってしまった。どこで買うとより安いとか、配送時間がより早いとか、そういうことを調べるのに労力を使うことが、なんだか意に反しているような気がしてくる。そんなこと言うんだったら、すぱっとカンで決めてしまえばいいんだろうけど、なかなかそれもできない。
どこかで誰かが「もうどっちでもいいよ」って言わないといけないんだろうなあ。
10月1日(土)
友人らと公園でバーベキュー。同居人が数日前に思いつき、2組の友人家族を誘った。その友人同士は面識がなかったのだけど、歳も近いし、子供が生まれた時期も近いし、住んでいる所も近い。それを結びつけたのはグッドジョブだ。同居人は前日にリンゴケーキを焼き、肉の仕込みをし、その他いろいろ準備をして、出かけた。ほどよく涼しくて、バーベキューにはちょうどいい気候だった。
10月2日(日)
」というDVDを観た。1980年代に放映されたNHKスペシャルをDVD化したもの。取材されていたオーストリアの村では、毎日ライ麦パンとベーコンと少しの野菜が夕食である。というのを見て、そうやって食べるものが決まっているのも、ある意味、楽だろうなと思った。いまの日本ではバリエーションがないといけないみたいなことになっていて、いつも同じだと、工夫が足りないとか、つまらないとかそういう印象を持ってしまう。けれど、毎日変わらず同じものを食べ続ける、そんなルーティーンにも憧れる。
(T)