「世界屠畜紀行」内澤旬子
屠畜というのは、肉を食べる限りどこにでもある営みだ。でもそこで働く人に差別があるのはなぜ? 動物かわいそうっていう考えはどこから来る? そもそも 現場はどうなってるの? 文化の違う海外ではどうなの?っていうか屠畜をこよなく愛する私ってヘンですか?そんな疑問を胸に世界各国の屠畜の現場を歩き、話を聞き、詳細なスケッチと親しみやすい文章でつづったノンフィクション。「屠畜」とは、家畜を人間が食べられる肉にする工程のことだ。とりあげられている国は、韓国から始まって、エジプト、インドネシア(バリ)、モンゴル、チェコ、アメリカ、インドに日本。イラストで図解されているのでイメージしやすく、いろいろなタイプの屠畜の方法を知ることができておもしろい。とくにモンゴルの羊を絶命させる方法(技術)には驚いた。
屠畜ってどういうふうにやっているんだ?ということを観察して記録するのが表のテーマ。そしてその裏にあるテーマは、屠畜が穢らわしいもの、残酷なものと思われているのはなぜか? それは世界で共通なのか違うのか? 小規模(個人)で行う場合と、大規模(産業として)行う場合はどう違うのか? なぜ動物をかわいそうだと思うのか?……という数々の疑問。いろいろな見方があるので、一つの答えを出すのは難しいけど、その疑問に迫っていこうという旅になっている。
この本がいいなと思うのは、屠畜や肉に対する愛情がにじみ出ている感じがするところ。難しい問題、センシティブな問題だけど、「肉っておいしいよね」という実感から出発している。こうあるべきという主張が最初からあるわけではなくて、屠畜を巡る旅のなかで、疑問を持ち、考えていく。そういうところが紀行文のおもしろいところだと思う。
もうダマされないための「科学」講義
「科学的である」というのはどういうことなのか。それを広く伝えるときにはどういう問題があるのか。というテーマで、科学に関わる研究者やジャーナリストが事例を交えて見解を述べている。ひとつひとつの事例について、正しい、間違っている、と判定をくだすものではなく、たとえば 「怪しい」ものに共通するものは何か、どのように科学と付き合っていったらいいかを考えさせられる内容になっている。科学というのは、一般人が利用するという視点から考えると、ブイのようなものだと思う。100%正しい位置を指し示しているわけではない。潮に流されているかもしれないし、ひもが切れて漂流しているかもしれない。そういう可能性はないとは言えないけど、でもある程度の確かさで、その場所に浮いている。そのブイの場所を視野の中にいれておくことが、自分たちが海を漂うために有効なのだろう。
ブイを絶対的なものとして信じるのはちょっと危険だけど、見なくてもいいというのはもっと危険。そういうものとして科学を捉えるのがいいのではないかと思っている。
「私が愛した東京電力」蓮池透
著者の蓮池さんは、長年、東京電力に勤務し、福島原発で働いていたこともある。作業員ではなく、マネジメントをするポジションにいた。実際に内部にいた人から見る東京電力という会社や原子力発電に対する見方は貴重だ。文体も抑えた筆致で、冷静な気持ちで読める。蓮池さんは原子力の研究をする部署にいて(実際の研究開発はメーカーや外部の研究所が行い、東京電力はそれを管理する)、「原発はいずれ衰退する」と確信するように なったという。その根拠は、廃棄物の問題だ。核のゴミをどうするかが決まらないまま、どんどんゴミだけが増えていってる現状。増殖炉も頓挫し、苦肉のプルサーマルもだめで、ゴミをなんとかする方法は見つかっていないし、めども立っていない。それなのに原子力発電を推進するというのは、発電所の危険性以前の問題のように思える。
ゴミというテーマで考えると、自分たちが日常で出すゴミのことともつながる。人は新しいものを作って取り入れることには興味を持つけど、古くなったもの、ゴミになったものをどうするかということには、興味を持ちにくいし、考えたくない。新しいものに惹かれる興味とか好奇心は大切だけれども、 そこには未来のゴミが含まれているということも意識したいと思う。