2011年8月の日記(その4)

8月22日(月)

夕食は今年初めてのサンマ。まだちょっと高いけどたまらず買ってきた、と同居人。おいしい。毎日サンマでもいい、なんて子供のころには思わなかったことだけど。

8月23日(火)

文字に落とすということ。自分が興味を持っているのは、そういうことなのかもしれない。それはきっと、文章化しているときに出会える発見が楽しいからだろう。例えば毎日、日記を書いていても、文章化していく過程で、自分の考えや、課題や、理解に出会えたりする。旅行にしても、実際の体験に加えて、その内容を文字としてまとめる過程で、出会えることもある。そういえば、中学校時代の野球部で初めてベンチ入りできたのは、記録員(スコアラー)としてだった。先輩が「あいつはスコアがつけられる」と推してくれたのだった。そんなことをふと思い出した。

8月24日(水)

手持ちのスニーカーを履くと、すぐに靴下のかかと部分に穴が空いてしまう。買ったばかりの靴下なのに。同居人が繕ってくれたので、今後は靴下の上に、短い靴下をかぶせて履く、靴下on靴下作戦でいこうと思う。

8月25日(木)

この夏は甲子園に2回も行ったので、いまだに高校野球のブラスバンドの応援曲が頭をまわっている。優勝した日大三は応援もレベルが高いように思えた。でも、演奏される曲目ってどの高校も似てない?「狙いうち」とか「猪木のテーマ」とかは定番だからいいけど、たとえば、Xの「紅」(だったっけ)が、あちこちで使われてるのはなぜ? 高校野球応援曲集みたいなものがあるのだろうか。まあ、どうだっていいんだけど。ちなみに個人的なお気に入りは、ちょっとミスマッチな感じがする「人間っていいな」。なぜかこの曲はサビまでフルコーラスなので、初球打ちしちゃだめです。

8月26日(金)

読書の記録。「日本の農業が必ず復活する45の理由

」いつの間に自分は農業に関心を持つようになったのだろう。家庭菜園を始めた同居人の影響があるのは確かだ。でも、同居人の志向に賛同したというより、ほんとかな?と思うことがいくつかあって、それが本を読んでみようという動機になっているのだろう。

この本を読み終えて思うことは、国際化が重要だということと、自給自足だけじゃだめだということ。文中で語られているのは産業としての農業なので、その話をそのまま、自分たちの生き方、というか、うちの菜園をどうする?みたいなところに、あてはめて考えるのは違うかもしれない。けれど、方向性として、自給自足、一本槍ではきっとうまくいかないし、たぶん楽しくない。きっと交易のようなことが必要なのだろうと思う。ところで、交易の「易」の字に、利益の 「益」の字を使わないのはどうしてなんだろう? それはよくわからないけど、なにか「交易」というキーワードは気になっている。

8月27日(土)

朝食後、午前中は畑。アブラムシとアリにやられたササゲを抜いて整地する。まだまだ暑く、というか今が一番暑いんじゃないかというくらい暑く、熱中症になりかける。やばいやばいと思って、木陰に避難した。

昼食に焼きそばを食べ、午後はイケアに行く。食卓用の椅子を買いたいという名目もあったけど、なんとなく外国っぽい空気や、新しくてきれいなものに触れたくなったのだ。大阪駅からシャトルバスに乗ると、大雨が降り出した。洪水になるんじゃないかと思うくらいの集中豪雨。快適なバスの車内から見る、雨宿りしている人や、水しぶきを上げながら進む車や、大量の水がアスファルトに降り注ぐ様子は、非日常な光景で、ちょっと気分が高揚した。

イケアは湾岸の埋め立て地にあり、周辺の土地は空き地で雑草が生えていたりして、なんとなく空港の雰囲気に似ている。巨大な店舗に入った瞬間も、気分が高揚する。大量生産による画一的な商品が世界中に出回る現代社会……なんてことを深く考えたりする前に、無条件に気分を盛り上げさせてくれる何かが、この空間にはある。それは何だろう?

ひとつは外国的な雰囲気だと思う。スウェーデン的な、すっきりしてるけどメリハリのあるデザインだとか、商品名に意味のわからないスウェーデン語の名前がついていたりだとか、そんな日本離れした空気に一瞬にして包まれる感覚。そして、値段の安さ。価格と見た目のギャップというか、洗練されたデザインとともに「¥59」とか書いてあると、思わず手に取ってみたくなる。あれもこれも手に入る、そんな全能的な感覚に包まれるのだ。

カフェでコーヒーを飲む。売られていたダークチョコレートの原材料を見ると、乳製品が使われていなかったので、1枚買ってみる。乳製品なしのチョコレートは、日本製のものではなかなか手に入らないけど、それがここでは安く手に入るのがわかって、収穫だった。

こうやってイケアの雰囲気にひたっていると、コーヒーの覚醒感もあってか、自分も何だってできるような気がしてくる。なんかわからないけど、仕事をしたいような気がしてきた。テーブルに「イケアの環境への取り組み」みたいなパンフレットが置いてあって、おれにもこういうのを書かせろ、みたいな気分になる。そんなことはぜんぜん頼まれてないんだけど、なんかそういう「何でもできそうな気分」にさせられてしまう場所だと思った。

8月28日(日)

今日は一日、一歩も外に出なかった。昨日と同じように暑い日。プリントする写真を選んだり、回覧板の文章を書いたりする。

自分で選んだ写真を見ると、改めておもしろい。自分の選択は自分好みだな、と当たり前のことを思った。選ぶという行為が入っていると、写真はよりおもしろく見ることができる。でも、そうやって写真を選ぶのは、時間がかかる。写真は選択の芸術だという言葉があったけれど、たしかにいかに選ぶか、センスが問われるところだ。

では、いったい自分はどういう基準で選んでいるのだろう。まあなんとなく、がその答えなのだろうけど、あえて文章化してみると、(1)意外性のある写真。誰もが撮るような写真だとつまらないから、あっても少しでいいと思う。(2)当時の状況が思い出せる写真。そこから思い出話が始まるようなトリガーになる写真。イベントがあれば、1枚はプリントして残しておきたい。(3)背景にいろいろ写っている写真。被写体だけじゃなくて、周囲の状況が写り込んでいる写真がおもしろい。

結局、何度も見たくなる「写真集」を作りたいのだと思う。で、問題なのは、選ぶときに自分のセンスを信じきっていいのだろうかということ。たとえば、自分がいいと思う写真と、同居人がいいと思う写真は違う。たぶん「見る人」としての視点を持てるかどうか、がポイントなのだろう。

写真を選ぶときには、撮り手の気持ちではなく、被写体の気持ちでもなく、見る人の気持ちにならないといけない。とくに、自分たちの写真だと、貴重な場所で撮った/かっこよく撮れた(撮り手としての気持ち)、思い出に残したい(被写体としての気持ち)、この2つだけで選んでしまいがちだけど、第三者が見るという視点に切り替えて選んだほうが、何度も見たくなる写真になるように思う。まあ、なんだってそうなのかもしれないけれど。

(T)