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ブックディレクターの幅さんを取材したノンフィクション。著者は高瀬毅さんという1955年生まれのライターだ。読み始めたとき文体がちょっと硬く感じられて、幅さんの雰囲気やブックディレクターという仕事とちょっとトーンが違うんじゃないかと思ったけれど、読み進めていくうちにこれはこれでいい感じだなと思うようになった。というのも、出てくる人の肩書きや職種を文字にすると、どうしてもカタカナ言葉が多くなり、軽い印象になってしまう。そこを硬めの文体で書いてあることによって、落ち着いて読むことができたからだ。
幅さんのやっているブックディレクターの仕事を一言で言えば、本棚の編集である。それは美術館や博物館のキュレーションに似ている、と幅さんの大学時代の先生は言っている。キュレーションとは「ある視点で情報を集めて分析し、それらをつなぎ合わせて1つの価値を持つものとして共有すること」だという。つまり価値の提案ということだろうか。そのためには何か視点が必要だ。まず視点を決める。その視点で何かを集めて価値を伝える。そういうことかもしれない。……と、いつの間にか自分自身の活動のことを考えていた。こういうふうに自分に引きつけるような読み方をしてもらうのが、幅さんが提案する読書のスタイルなのだろう。
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この本おもしろい、といって妻が買ってきた。小さな仕事をたくさん持つことで生計を立てていこう、という話で、著者の伊藤洋志さんはそれを実践している。
読んでみると、納得できるところが多い。例えば、会社勤めをしていていくらお金をもらっていても、その環境が自分にとってよくなかったら、自分のセンスは鈍ってしまう。そのとおりだと思った。著者も会社勤めの結果、覇気がなくなってしまったという。あらゆる仕事が分業化されてしまったことに問題があるのではないか、という指摘も鋭い。請け負い仕事ではなく、自分が主導でできることをやったほうがいいのだろう。生き生きと仕事をして暮らすにはどうしたらいいか、ということを考えさせてくれる本だった。
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会社員をしながら小説を書いている津村記久子さんは、「庶民派」と本の帯にもあるように、生活は地味過ぎるほど地味だ。芥川賞作家とは思えない。「作家になりたかったが、自分が思い描いていた作家とは違っている」と本人も書いている。このエッセイ集は、そんな津村さんの日常生活やちょっとしたこだわりや小説のタネが垣間見えておもしろい。
印象に残ったのは、津村さんの生活リズムだ。昼間は会社に行き、夜帰ってきて仮眠。深夜に起きて小説を書き、明け方にまた眠る。そして会社の昼休みにちょっと昼寝、という生活だそうだ。名が売れるほど一流になる人は何かしら不自然なことをしているのだなあ、と改めて思う。はたからみると不自然と思うくらいのことをやらないと、周りの人からは認められないのかもしれない。不自然なことをしないとお金は稼げないのだろうか。ナチュラルに暮らしてるだけでは、よくてトントンなのだろうか。そんなことを考えてしまった。
あと津村さんはコピーの裏紙にまめにメモをとり、それを分類してノートに貼付けて整理して、小説のもとにしているらしい。案外システマチックにやってるのだなと感銘を受けた。関係ないけど、ものごとを横断的にやるというのが、ふつうの人のナリワイ的なアプローチかもしれない。先述の本と合わせて読んでいると、なんとなくそんなことを思ったのだった。
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日本に住む外国人はどんな日常生活を送っているのだろう? それを探るべく、彼らが普段何を食べているのかを取材したのがこの本だ。
「普通の食事」というのは難しい。人によっても、生活環境によっても食事は違ってくるからだ。そこで著者の高野さんは、外国人が集まる場での食事に注目することにした。人が集まったときに食べる料理というのは、ある程度、普遍的なものなのではないかと考えたからだ。
その視点で取材を進めていくと、外国人のコミュニティのことがわかってくる。コミュニティといっても一様ではない。必ずしも民族や宗教というくくりでもなく、移り住んだ土地への愛着や、そこに住む日本人との交流によって、さまざまなコミュニティが育まれている。そのことが、コミュニティの人が集まる場を訪ねて食事をともにした高野さんの体験を通して、実感として伝わってくる。
いろんな人生があるんだなあ、というのが自分の単純な感想だけど、高野さんが見る限り、取材した人たちは概して幸せそうに見えたという。もちろん人によるだろうし、裏には苦労や努力が隠されているのだろうけれど、もしかしたら、「外国にいる」ということによって幸せ度が増すことがあるのかもしれない。
料理についての話も興味深い。外国人はよく「日本料理は簡単でいい」と言うそうだ。和食というのは手が込んでいて難しいというイメージがあったけど、そうでもないらしい。和食もきちんと作れば奥が深いのと同じく、各国料理もそれぞれ奥が深い。要は、自国料理は手が抜けないけど、他国の料理は適当にアレンジできるということかもしれない。何が言いたいのかまとまらなくなってきたけど、つまり「あ、こういうのもありなんだ」という感覚を、外国に住むことで得られるんじゃないかと思ったのだった。
あと、見方が変わったのは、外国人が日本に住み続ける理由。それは単に仕事でお金が稼げるということだけではない。少なくともこの本で紹介されているコミュニティの人々はお金以外の要素でつながり、ともに暮らしている。西葛西のインド人地区のように、もともと何もなかったところにインド人が集まり始め、それをきっかけに日本人同士の交流も活発になった場所もある。
この先、日本の経済が縮小したら、お金のためだけに日本に来る人は減るだろう。でもそれ以外の価値というか可能性が何かあるなあ、と考えさせられた。震災のとき、外国人の多くが帰国したと報道されたが、高野さんの感覚によると、母国からの要望で帰った人が多いそうだ。そりゃ心配する家族からは帰って来いという連絡が来るに決まっている。でも本心は帰りたくなかった人が多かったのだろう。そういう日本人に負けず劣らずの「土着」の感覚を持った人同士のつながりは、なんだか温かく、おもしろいものだなと思った。
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アメリカで毎年行われている「サイエンスフェア」をテーマに描いたノンフィクション。サイエンスフェアとは子どもの科学研究コンテストのことで、アメリカの各地でいろいろな大会が開かれているそうだ。その最高峰がインテル国際学生科学フェア(ISEF)である。このISEFをはじめ、サイエンスフェアで選ばれた優秀な研究にはけっこうな額の賞金や奨学金が与えられる。それもあって、これらの科学フェアはかなり熱の入ったものになっているようだ。
この本で著者は、6人の子どもにスポットを当てて、サイエンスフェアまでの道のりを取材している。彼らは住んでいる場所や家庭環境、そして与えられている教育もさまざまだ。いかにも科学オタクな男の子もいれば、華やかなモデルの世界を目指していたのにひょんなことから科学に興味を持った女の子、自分の病気をきっかけに研究を始めた子、貧しい家の環境をなんとかしたい子、障害のある親戚をなんとかしたい子…‥。そんな「理系の子」たちの奮闘ぶりが描かれている。子どもの中にある動機がそのまま研究につながっている感じがして、どの話にも興味を引きつけられた。
それと同時に面白いとおもったのは、いろいろなアメリカ人の家庭の様子が垣間見えるということ。賞を取る子どもは特別かもしれないが、その親や教師はどこにでもいるというか、とくにメディアで取り上げられることはない一般の人たちだ。エリートもいれば、先住民や移民もいるし、刑務所に入っている人も出てくる。そういうアメリカの普通の姿を知ることができる。
でも何より、素直な動機からスタートする科学がこうやって世の中に広がっていくことに希望を感じた。科学というと非人間的なものというイメージがあるかもしれないけど、ここで取り上げられている話はどれも科学との出会いによって、人間的に幸せになっているように思える。それはもちろん賞を取ったからかもしれないし、他人に褒められたからかもしれないけれど、それだけではない気がする。科学の目を持つことで幸せになれる可能性。そのことに興味を引かれるのかもしれない。
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「夜と霧」
アウシュビッツに収容された精神科医が、自身の収容所での体験を心理学的な視点で分析して述べた本。主観的な体験と客観的な分析が織り混ざった内容になっている。著者自身、この体験を心理学者として客観的にみようとする態度によって、いつ命を奪われるかわからない収容所内での極限の状況に耐えることができた。それは理解できるような気がする。半ば恣意的に自分の運命が決まるという状況は想像を絶するけど、苦しいときに、一歩引いて「……っていう自分」をみるというのは何かの救いになるのだろう。本に書かれている世界と、この本を読んでいる今ここの世界はたしかにつながっている。そう感じさせる文章だった。
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極端なことを考えると、たとえば食料は物々交換で手に入る。その他のサービスもたぶん原理的には交換で手に入る。で、どうしても物々交換では手に入らないのが、公共サービスだ。これは行政、つまり国がやっていることで、そのサービスを受けるには、税金なり、保険料なりを国に払わないといけない。それは日本が発行しているお金じゃないと受け取ってもらえない。お米を持っていって、これで、と言ってもだめなのだ(やってみたことはないけれど)。
結局、お金を稼がないといけないのは、国に払わないといけないからだ。そういうことを最近考えていたので、この本に手が伸びた。この本で繰り返し言われているのは「国家とは暴力である」ということ。確かにそのとおりかもしれない。国に税を納めているのは、最終的には強制的に取られるという暴力にもとづいている。「国家は暴力」だと考えて、ではその暴力はどのように分布しているのか?と考えるのは、世界の見方に新しい視点を与えてくれる気がした。たとえば、日本とその他の国との関係を考えるときにも。「暴力はどこにあるのか」を意識して考えると、見えてくるものがありそうだ。