「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」
2009年の夏に起こった北海道トムラウシ山での遭難事故。ガイドを含め、中高年の登山ツアー参加者が犠牲になったこの事故について、当時何が起こったのかをまとめ分析・検証し、インタビューや提言も加えた内容の本だ。遭難するまでの経過が臨場感とともに伝わってきて、他人事ではないと思わせれる。
なんとなく当時の報道から受けた印象としては、経験も浅く装備も不十分なツアーグループが遭難したというふうに理解していたけど、それは正確ではないことがわかる。登山者のほとんどは夏の登山とはいえ防寒着などを持っていた。ただそれがきちんと使われなかった可能性があり、またメンテナンスやちょっとした心がけの違いで衣服が濡れてしまったことで、低体温症につながった。
この低体温症という症状を知っているか、きちんと理解できているかどうかが、大きなポイントのようだ。この本もそこにスポットを当て、医師らによる解説や分析を書いた章を設けている。低体温症はかつては疲労凍死と呼ばれ、冬山でしか起こらないというイメージを持たれていた。しかし条件によってはこの事故のように夏山でも起こり、体温があるレベル以下に下がると意識が混濁し、判断力が低下する。回復するには体温を上げるしかないが、低温の環境を抜け出せない山の中にあっては、一気に危険な状態になる。
この遭難もグループ内の遅れを調整するため、暴風雨という悪天候の中で長時間待機したことが、多くの人に低体温症を招くことになった。足並みを揃える必要があるツアー登山の難しさを感じた。
ガイドは、ツアーを予定通りにこなさなければならないというプレッシャーのもとで状況判断を迫られるし、登山者もこの悪天候の中を自分は行きたくないと思っても、皆が行くと決めたら行くしかない。全体の体裁を優先しての判断になってしまう。
そして遭難してしてしまったときの判断はさらに過酷だ。もちろんグループを組むことで安全性が高まったり、登山の経験を積むことができたり、他の人と楽しみをシェアできたりなど、利点もたくさんあるだろう。グループと個人、というようなことを考えさせられた。
「人を助けるすんごい仕組み」
著者の西條さんは震災後に被災地支援のボランティア組織を立ち上げ、それを日本最大級と言われるまでの規模に育てた。しかし西條さん自身はそれまで無名の大学講師であり、ボランティア組織を作ったこともなければ、ボランティア活動をしたこともなかった。仙台出身の自分は何かしなければ、と手探りで動くうちに、西條さんの中でリミッターが外れた。そして活動は多くの人を巻き込んで成長し、これまでになかった新しい方法で効果的な支援活動をすることができたのだ。
その成功の要因はいくつもあるのだろうけれど、そのひとつが西條さんが研究し、構築してきた構造構成主義という学問だ。そのなかの「方法の原理」によると、方法の有効性は(1)状況と(2)目的によって規定されるという。
つまり方法というのは流動的で、何をどうするかを考えるためには、状況と目的をつねに意識しようということだろう。この理論をもとに西條さんの組織はさまざまなプロジェクトを立ち上げた。代表的なのが家電プロジェクト。全国で余っている家電を直接、支援の届いていないところに届けようというプロジェクトだ。Amazonの仕組みや宅配便のネットワークをうまく活用している。
印象に残ったシーンは、その家電を現地で配っているときのものだ。「最初に家電をもらった人で余裕のある人は、スタッフとして手伝ってください」と声をかけると、どんどん人が加わり、お祭りのような雰囲気になったという。また、家電に返信用ハガキをつけて送ることや、持ち主の名前を明記することなど、なるほどと膝を打つようなアイデアがたくさんある。どれも人の心を動かすものだ。
ネットベースで行う組織運営の方法も参考になる。「積極的に動いた人に対して厳しい態度で接してしまったら、誰も動かなくなる」など、その通りだと思う。「終わりが見えないと苦しい」とか、「善し悪しの判断基準である『関心』が異なってくると、議論がずれてしまう」とか共感できるし、「目的やビジョンは共有しておく必要がある」ことや「集まった人たちに名前をつけるとまとまりが生まれ、その名にふさわしい動き方を意識することになる」など納得させられたことも多い。このあたりは自分の活動と照らし合わせながら読んでいた。
「起きた出来事は帰られないが、出来事の意味は事後的に決まる」。未来を考えて前を向ける言葉だ。
「月3万円ビジネス」
非電化工房を主宰している藤村靖之さんによる、月3万円くらい稼げればよしとする小さなビジネスのすすめ。小さな仕事を「複業」することで、この過渡期な時代を生きていこうという話である。
工学博士である藤村さんは、冷蔵庫など電気を使わない「非電化製品」や、ワラを使ったストロベイルハウスの建設、食料を自ら育てるなど、持続可能な暮らしをするためのアイデアや技術を生み出している。そしてそれを何とか今の経済システムの中でも成り立たせようと考えたビジネスプランがこの本の中に詰まっている。
一つ一つなるほどと思わされるし、自分(というかむしろ妻)が実践しようとしていることの延長線上にあるような話ばかりで、リアリティを持って受け入れることができた。
非電化冷蔵庫や籾すり機など、ウチで欲しいと思うものもいろいろ出てくるし、ビールや日本酒はもちろんおいしいワインも自宅で作れる。家だってワラのブロックを積み重ねれば簡単に(たぶん)できてしまう。個人の酒造りや家の建築を禁じる国はいったい何を押さえつけようとしているのか‥‥なんて疑問を感じてしまったりする。
それは余談だけれど、この本で提案されているのはそんな小さくて愉しいビジネスだ。とくに場所にこだわるなというアドバイスになるほどと思う。自分の故郷や住み慣れた場所にこだわる気持ちはわかるが、この過渡期の時代には自分たちのやろうとしていることがうまく行きそうな場所を選んだ方がいい。とくに自分の住んでいる場所と顧客の住んでいる場所を、大田舎(大・中・小)、都会(大・中・小)に分類して考えればいいと書いてあった。
経済成長をして安定している時期には、仕事はどんどん分業化が進んで細分化されるが、過渡期には小さくても1人で完結できるような仕事を複業することが多くなるそうだ。たしかにそれは納得できるような気がする。自分たちの暮らしや活動の中でも、お金の動きが占める割合が減ってきていると思う。そのなかでどうお金と付き合っていくかということを考えさせられた。
「楽園の泉」
スリランカを模した架空の島に、宇宙エレベーターを建設するというストーリーのSF小説。「2001年宇宙の旅」で有名なA・C・クラークの最後のSFということらしい。クラークは実際にスリランカに住んでいて、この小説にもスリランカの聖地や宗教に関することが織り込まれている。
しかし何よりもこの本のメインテーマは「宇宙エレベーター」という発想だろう。宇宙エレベーターの建設にあたって理想的な場所にするため、クラークはスリランカの位置を少しずらして、赤道上にあるという設定にしているほどだ。
この小説は今から30年ほど前に書かれたものであり、その前後にはこの宇宙エレベーター構想が科学者の間で活発に議論されていたという。宇宙に向かって地球上に縦に長い建造物を建てるのは強度の面から難しい。
この本に書かれているのはそうではなくて、宇宙にある衛星やステーションから地球上にケーブルのようなものをたらして、それを伝って乗り物が上下するという機構のものだ。その際、ケーブル自体の重さが問題になる。この仕事に耐えられるほどの強度を持ち、なおかつ十分に軽い素材はいまの地球上にはない。そこで宇宙で新素材を開発した‥‥というところからこの話は始まる。
スリランカ旅行前にこんな分厚い本を読んでる場合じゃないなと思いつつ、しっかり最後まで読んでしまった。途中話が飛ぶので着いて行きづらいところもあったけれど、ラスト付近の展開はスリリングでまさに宇宙映画を観ているような気分になった。
遥か遠い宇宙や遥か遠い未来のことを考えるというのは、何か心を楽にしてくれる。この本にはそんな読後感があった。自分の悩みや人との比較は今の価値観の中だけで発生しているものだ。善し悪しや優劣だって簡単に逆転する。そういう引いた目で世界を眺めさせてくれるのがSFなのだろう。
一方で、SFの世界にはその世界のディティールというものがあり、宇宙の時代になっても未来になっても変わらないものもありそうで、普遍的なものって何だろうということに思いを巡らせたりもする。そういう揺さぶりがなんだか心地よい。