2013年4月の読書日記

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まずはノートに書いている日記をきれいに書こう。って、同じことを何度も思ったことがある気がするけど、今回こそはちょっと違う。

いま梅棹忠夫さんの「知的生産の技術

」という本を読んでいて、そのなかにノート(梅棹さんはカードを愛用していたそうだが)は、未来の自分が書いたことをすっかり忘れているという前提で書くべきだ、と書かれていた。確かにそうかもしれない。人間は忘れるものだし、メモすることで忘却を促している面もある。だから何も知らない人が読んでも読めるものとして記録を残していかなければならない。

今「記録」と書いたけど、単なる記録というよりは、梅棹さんいわく「発見の記録」である。自分の発見は何かに書き付けない限り、文献やインターネットを探しても出てこない。だからこそ、きちんと書き残しておく必要がある。

そのために自分がやっている方法はノートに日記を書き、自分なりの発見だと思うところにアンダーラインを引いておく、というものだ。これはこれで悪くないと思う。発見でなくても何かを考えるキーワードになりそうなところにアンダーラインを引くことにしている。ただ字が乱雑で、肝心のそのノートが読みにくいものになっていた。それをまず改善しようということだ。

字が乱雑になるのは、日記をを書き付ける十分な時間がない、ペンが書きにくい、気分が乗らずめんどくさい気持ちで書いてしまう、などの理由がある。ペンはできるだけ書きやすいものを使うようにしよう。どうしてもまだ書けるからもったいないと感じて、手元にあるペンを使おうとしてしまうのだけど、それで字が汚くなってしまっては元も子もない。そして、1日1つのエッセーを書く、という心持ちで臨むのはどうだろう。かつては自分の感情の記録という側面もあったけど、そういうことを書いても結局読み返さない。自分という読者に読ませる文章になっていないからだ。梅棹さんにならって、名詞以外はひらがなで書くようにすると、書くスピードも上がるかもしれない。

「知的生産の技術」からは、情報や知識の分類・整理について考えさせられた。ノートの1ページを1枚のカードだと考えると、それを切り離すだけでひとつのエッセーのようなものができる。便利で効率的な気がする。……と、この本を読んで、かなり梅棹ナイズされてしまったのだった。

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日本の聖地ベスト100

先日見に行った伊勢についてのトークイベントに登壇していた植島先生。その後の懇親会でも話をしたし、何か本を読んでみたいと思ってこの本を手に取った。ベスト100といってもランキング順に並べて解説するというようなものではなく、植島先生自身がめぐった日本各地の聖地について語るという紀行文に近い内容だった。

スタンプラリー的な聖地巡りはどうかと思うけれど、旅をする場所としての聖地には魅かれるものがある。聖地とされる場所はたいてい地理的にも特殊な場所で、そこに行かなければ感じられないものがあると思うからだ。植島先生によると、一般に聖地と言われている寺社などは、実はアクセスしやすい場所にずらされていて、本当の聖地はさらにその奥にあったりすることが多いという。

国東半島や月山など、自分が行ったことのない場所の中にも、まだ独特な雰囲気を放っている場所がたくさんありそうだった。そういうところはたいていアクセスが悪く、用事がない限りわざわざ訪れない。そう考えてみれば、その土地や人の独特さを求めて、自分たちは旅行をしているのかもしれない。植島先生もきっとそうなのだと思う。

現実にありそうなこと、実際に起こっているけれど表に出ていないことを深く取材して、小説としてひとつの物語にする。そういうルポタージュ小説とでもいうような内容の本だった。

テーマは食べ物の安全性。こう聞くと、農薬が危険だとか、添加物は体に良くないとか、自分もそういうことを思い浮かべてしまうけど、この本で扱われているのはそのレベルの話じゃない。「根拠もなく食品の恐怖をあおるジャーナリストや学者、その言説を妄信する人々、奇妙な哲学を振りかざす自然食品販売会社から食品を買う自然派の人、手作りに頑迷にこだわる主婦……」。こういう人たちについて小説の早い段階で言及され、自然が一番、みたいな単純な話とは一線を画す内容だということが読者に伝えられる。

農薬もかかっていない、でも清潔でしかも安い野菜を食べたい。そういうニーズが行き着く先に工業製品としての野菜生産がある。序盤の舞台は深夜の食品加工工場だ。カット野菜を袋詰めにして、オーガニックを売りにするチェーン店に卸している。そこで働く主人公の女性は、工場で起こる異変に気がついていく。一方、もう一人の主人公の男性は、新しい農業として完全に管理された野菜栽培工場を経営することになる。そして完全管理ゆえのもろさを身を持って知ることになる。もう一人、栄養教師の女性はセンシティブな子どもの体の変調に目を向ける。これらのことが地方の町で起こる。土地での人間関係が重視される中で、物事は正義だけでは運ばない。

出てくる人々はそれぞれに切実であり、悪意を持って動いているような人物は登場しない。農薬まみれの野菜をなんとかしたい。農業を稼げる産業にしたい。地域を活性化させたい。こういう理想を掲げた社長が、野菜工場の設立を進める。物語の筋はスリリングで、出てくるエピソードはリアルだ。そしてそれぞれが徐々に絡み合ってくる。ひとつひとつの要素は科学的に、論理的に正しくても、それが絡み合ったときにどういう結果をもたらすか?

かくいう自分も野菜工場という未来はあり得るなと思っていた。例えばSFの世界では、未来の食料はすべて工場みたいなところで作られているイメージだ。人口、経済、環境、そういう問題を解決しようとすれば、食品生産工場という考えに行き着くかもしれない。現に、農薬と遺伝子組み換え種子をセットにして海外の大農場でやっていることは、工業製品を作ることにかなり近づいているように思える。それならば自然環境から隔離した工場で野菜を作っても同じことだし、その方が環境に良いとも言える。

しかし、食べものを人間の完全管理下で育てて作ることは可能なのだろうか? かつて人間は抗生物質によって細菌感染を防いだ実績がある。これで人間の寿命は大きく伸びた。でも最近は耐性をつけた菌が問題になっている。食品を人工的に作り出すことができれば、飢餓に苦しむ人を救うことができるのかもしれない。でもエネルギー視点で考えると、食品工場も石油エネルギーに依存することになる。それはつまり過去の太陽エネルギーを使っているわけで、だとすれば、太陽エネルギーを直接使える露地栽培の方が効率がいいということになる。

もうひとつの問題は、食べものをお金の経済下においていいのだろうかということだ。お金は人間同士だけのものである。でも食料は自然から来るものだ。トマトの株にお金を渡しても実はつけてくれないし、クマに出会ってお金を渡したら見逃してくれたということもない。でも人間の経済は、お金を渡せば、それに見合ったものを必ず返してもらえることが前提になっている。農業に携わる人は、人間と自然のあいだのフロンティアにいる。自然を相手にするのにお金の原理を持ち込むのは無理があるんじゃないだろうか。

現代の人間には、自然を相手に仕事をする人とそうでない人がいる。もともとは自然とのフロンティアにいる人こそが尊敬されていたはずだし、交換をするときにも有利な立場にいたはずだ。どこでそれが逆転してしまったのだろう? 武力が登場したから? 狩猟の時代には、武力を持つ人と自然とのフロンティアにいる人は同じ人だっただろう。農耕の時代になって、他の人が稲を育てている間に刀を研いでいた人がいた。その人が権力者になった。あくまで推測だけど、その構図が今まで続いているのかもしれない。その武器がいまでは「お金」というもので代用されている。

ふと思うのだけど、戦争下での食料はどのようにして作られていたのだろう? 先日読んだ戦時中のロシアを舞台にした小説「卵をめぐる祖父の戦争

」では、街に住んでいる人より、街にじゃがいもを売りにくる農民の方が力を持っている感じで描かれていた。いま戦争をしているシリアのような国では、食料生産はどうなっているのだろう。ブラックボックスはまだまだたくさん世の中にある。

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有機農業・みんなの疑問

先日妻と有機農業とは?というテーマで話をしたこともあって、もう少し有機農業について書いてあるものを読みたいと思って手に取った本。著者はもともと親の後を継ぎ慣行農法で農業をやっていたが、しだいに有機農業にスイッチしたという人だ。中立的というよりは有機農業の優れた点に力を入れて書いているような感じがして、できればメリットデメリットをもう少しクリアにして欲しかった印象がある。でもたとえば、ゆっくりと育った作物は日光を長い時間浴びているので栄養があるとか、土壌に不足している要素を補うような雑草が生えるなど、なるほどと思うことあった。最近うちの畑ではできるだけ雑草を抜こうとしていたけど、あまり抜きすぎない方がいいかもしれない。雑草が微生物を呼ぶという面もある。まあ抜いても結局追いつかないので、それくらいでちょうどいいのだろうけれど。とくに日本のような気候の場所では、雑草の扱いというのが大事なポイントのひとつのような気がしている。


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世界のどこかで居候

ポップな感じの旅の本で、一見内容が薄いのでは、という印象があったけれど、読んでいくとなかなか普通の旅行で味わえない現地の暮らしが見えてくる内容だった。旅先の普通の人の家に1週間居候させてもらうというのが、この旅のルール。家族の人間関係がイラスト化されていたり、1日の行動が時系列で図示されていたり、グラフィカルな工夫がされている。モンゴルの屠畜については別の本で読んだことがあったけど、羊の腹の中に手をつっこんで動脈を指で切るという方法が写真で載っていて、ほんとにやってるんだとイメージが湧いた。屠畜方法の各国別比較もあり、中東は血抜きがうまく、ネパールなどはあまり上手じゃないこともわかる。とくに印象的だったのがパプアニューギニア。男性が大きなカツラのような被り物をした部族がいて、今でも部族同士の争いの方がパプアニューギニア政府の治安維持よりも優先されるような土地らしい。男は屈強だけど、食べているものがほとんどイモだけというのが不思議だ。こんなふうに日常の食べ物について知ることができるのも興味深い。見た目よりも情報量が多く、力の入った本だと思った。実際、相当の年月(と旅費)がかかっているのだろう。


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謎の独立国家ソマリランド

内戦続くソマリア、という言い方をメディアでよく見聞きするけど、現在ソマリアはひとつの国としては機能していない。首都モガデシオがある南部は戦闘が続いていて無政府状態である一方で、北部にある「ソマリランド」は治安も安定、政治も機能していて独立国家であるとアピールしている。もうひとつ東部にも半独立をうたっている「プントランド」という国もある。このソマリランドを中心に、プントランド、そして南部ソマリアを著者の高野さんが旅する。旅の様子だけでなく、ソマリアやソマリランドの歴史についても詳細にまとめられていて、500ページに及ぶ分厚い内容だ。

高野さんはまずソマリランドを訪れる。そこでこの「国家」の治安の良さと完成度の高さに驚く。その原因を探ると「氏族」に行き当たる。ソマリアには氏族という単位があり、それは日本でいう戦国時代の「○○氏」みたいなもので、非常に細かい分家にまで分かれているそうだ。ソマリアの人はみなその分家のどれかに属していて、それは○○県、○○市、○○町みたいな日本の住所のようなものとして認識されているという。だから知らない人と出会って氏族が近いとわかると、日本人が同郷の人と出会ったときのように盛り上がる。

その氏族の割合に応じて、国会議員が「比例」で選出され、その中から大統領が選ばれる。アフリカの国としては珍しく、民主的な政権交代も行われているようだ。また選挙で選ばれる下院とは別に、氏族の長老たちで構成される上院があり、政治の監視役のような役割を果たしている。下院の議員が人気取りのために早急な憲法改正を試みたとき、上院の長老たちは憲法の決まりに反するとストップをかけたそうだ。逆に予算編成などの事務的なことには長老はタッチしない。そういうシステマチックな政治体制が作られていて、日本も本気でソマリランドを見習った方がいい、と高野さんは言う。日本の衆議院、参議院の仕組みについてソマリランド人に説明したら「それじゃ意味ないね」と一蹴されたそうだ。

安定しているソマリランド(旧英国領)に対して、南部ソマリア(旧イタリア領)はイスラム原理主義勢力と政府軍が支配地域を一進一退させるような戦乱が続いている。しかし首都のモガデシオは「都」というべき繁栄と文化の気概がある。日本でいう京都のようなところで、言うなれば応仁の乱の最中の京都のような状態らしい。そんなソマリアの歴史と現在の状況を高野さんは、氏族を日本の武将、武田氏、源氏、平氏などと名付けてわかりやすく解説したり(とはいっても複雑だけど)、イスラム原理主義は農村のマイノリティの人々の支持を受けて勢力を伸ばすという、マオイストと同じ構造なのではないか、など興味深い説を展開したりしていく。

中でも白眉だったのは、海賊の収支を計算するくだり。多くの海賊が拠点を置くプントランドを訪れたとき、地元ジャーナリストらと、海賊行為を実行するにはいったいいくらかかり、いくら儲かるのかという試算をする。というか、本当にやるぞという態度で、武器や人員や各方面に払う手数料を見積もり、あげく同じ宿に海賊の一味が宿泊していることを知り、その人からも情報を得る。その収支表が本書に掲載されている。

このように高野さんはソマリアの取材旅行を地元ジャーナリストのコーディネートによって進めていくのだけど、取材者への謝礼、護衛の兵士の賃金など、湯水のようにお金が出ていき、結局、単行本を2冊出して得られる収入以上の金額を使ってしまったそうだ。最後はそれも底をつき、親戚に送金してもらうという事態になり、それじゃ海外からの送金が大きな収入源になっているソマリアの人と同じだ、などと嘆いたりする。そこまでしてソマリアに熱中している高野さんの、誰も伝えていないから自分が伝えるのだという熱意が十二分に伝わってくる本だった。その証拠にこうやって印象に残ったことを書いていくだけで次々と出てくる。自分の考えうんぬんが入り込む前に、とにかく圧倒されているということだろう。冒頭でブルーハーツの情熱の薔薇が引用されているのも伊達ではないという気がした。