ビスケットとお茶がリュックの中で少し輝きを失った

職場を出て関西空港に向かう前に、梅田のヨドバシカメラに寄った。Fにフィルムを買ってくるように頼まれていたのと、スマートフォン用のイヤフォンマイクを買おうと思ったからだ。 この日、仕事中に個人宛のメールボックスを開くと、「ビデオ面接について」という件名のメールが目に入った。差出人は1ヶ月ほど前に応募した会社だ。 その会社からは、もしかしたら自分でも通用するんじゃないかと思えるポジションの募集が出ていて、応募してみたところ、書類審査、筆記を通過して、そのあと簡単な電話面接を受けたあとパタリと連絡がなかったのだが、ここに来て次のステップに進みたいから「都合のいい日時を教えよ」という。このタイミングで来るか、と思ったけれど、考えようによっては、面接のために不自然に会社を休んで疑いの目を向けられるよりは、休み中に面接する方がスムーズかもしれない。問題は台湾の滞在先でうまくビデオ面接ができるかどうかだ。 この旅の数日前に初めて自分用のスマートフォンを手に入れていた。Fが妹から入手したものを使えることになったのだ。台湾の滞在先はWi-Fiがあるはずなので、このスマホでビデオ面接が可能ではないか。ただその場合、イヤホンマイクが必要だろう。そう考えてヨドバシカメラの館内をぐるぐる歩き回って、イヤホンマイクはそれなりに値段がするものなのだと理解してからもう一度ぐるぐる歩き回ったあと、手ごろな値段のものをひとつ購入した。 アジア各国の言葉が飛び交う映画の中の世界のような夜の街で、夕食にラーメンを食べる。Fと一緒のときにはラーメンはおろか外食することもめったにない。コストパフォーマンスもろくに検討せず、注文票を持った店員に「スペシャルラーメン」と告げたのは、この機会を最大限に生かそうとしたからだろう。 「ホット?」。 近くのテーブル席に座った中国からの旅行者が、キューブ状の小さな氷で上半分が埋まっているガラスコップ指して店員に言う。 「ソーリー、ノーホット」 と、出直してきた店員は氷なしの水をテーブルに置いた。これがこのラーメン屋が提供できる最高温度のドリンクなのだろう。 関西空港行きの快速電車まで15分くらい時間がある。御座候を1つ買い、そのあと成城石井に入ってひと回りして何も買わずに店を出た。何か買いたい気がしたが、買う決断ができなかったのである。さっきのヨドバシカメラでも、買う決断をするためだけに館内をぐるぐる歩き回った。最近は自分でものを買う機会が減り、決断力がなくなっている。 しかし、このまま空港に行って、結局のどが渇いたり小腹が減ったりして、やっぱりあのとき買っておけばよかったと後悔しながら、空港の高い食べ物を買う羽目になるかもしれない。いや、結局そこでも買う決断ができず、空腹のまま、後悔の念とともに一夜を過ごすはめになる可能性の方が高い。そうならないために、今ここで自分の殻を破るのだ。そんな決意を胸に238円のビスケットとペットボトルのお茶を手にレジに向かった。 関西空港に向かう列車に乗り、扉の脇に立って夜の街の景色を眺める。窓に写る車内の様子に少し違和感を覚え、振り向くと、自分の足に密着するくらいの近さで、小さなスパイダーマンが手すり棒を握って立っていた。少し離れた場所にいた母親らしきアジア系の人物に目をやると、一瞬合ったはずの目をそらし、彼女は夫らしき人とそのまま早口で話を続けた。車両の中ほどで席が空いたが、微動だにしないスパイダーマンを押しのけて移動するのははばかられ、窓際に立ったまま外を見続けた。 空港に着いた。フライトは明日の早朝のため、空港に前泊することにしている。エアロプラザという無料スペースには幅の広いソファがいくつかあり、カウンターで毛布も貸してくれる。コンセントも用意されていて、つまりは夜を明かすならこちらでどうぞという仮眠スペースだ。明かりは一晩中消えないのでアイマスクは必須だが、毛布は十分暖かく、思ったより快適に過ごせそうだ。すぐ近くにローソンもある。その青い看板が見えた瞬間、成城石井で購入したビスケットとお茶がリュックの中で少し輝きを失ったのがわかった。 カウンターにはスタッフの人が2人いて、どちらも外国人だった。名札から判断するにタイ人と中国人だろうか。2人とも日本語を話す。対応もにこやかでいい感じだ。2人は仲が良さそうで楽しそうに話している。 寝場所を確保して荷物を下ろし、1日早く台湾に着いているFにメールをする。予定通り来ている、エアロプラザで寝場所を確保した、ここはとても居心地がいい、タダとは思えない、という感動を伝えたが、戻ってきた返事はそっけなかった。まあ楽しくやっているのだろう。初めて自分用のスマートフォンを手にしたので変な感じだ。こうやってネットから目が離せない生活になるのだろうか。 人のいないところに行って、さっき買ったイヤホンマイクでビデオ通話のテストをしてみる。安物を買ったからだろうか、あまりきれいに音が聞こえない。何度もぶつぶつと1人しゃべりを繰り返した結果わかったことは、そもそもビデオ通話はイヤホンマイクがなくても可能で、その方が音質も良いということだった。