2012年6月の読書日記

なんとなく「競争は悪だ、経済成長なんていいから、ゆるやかで環境とかにやさしい世の中を作っていこうよ」と、そういう方向の本ばかりに読書が偏っている気がしたので、競争についてもうちょっと別の角度からの見方も知りたいと思って、この本を読んだ。

経済学者である著者の斎藤氏は、いまの世の中に生きるものとして、「経済とうまく間合いを取っていくこと」が大切だと言う。現実の社会が競争ベースでできている以上、それを否定するのではなく、間合いを取る。つまり「競争の作法」を知ることが大事なのだ。

面白いと思ったのが、お金の経済だけではなく、市民活動や身の回りのことで生み出される豊かさも、経済の一部だという考え方。この「広義の経済活動」がこれからのほんとうの競争社会を突破していくのに重要になるのだという。

これまで競争社会になったから格差や貧困が生まれたと理解されてきたが(自分もなんとなくそう思っていたが)、斎藤氏の分析によると、格差広がったのは競争以前の問題が原因である。それは企業が不景気になったときに、行き過ぎた人減らしを行ったからであり、しかしそれによって浮いたコストというのは、全体で見ればわずか1%だったそうだ。

全員が1%給料を減らせば、貧困に苦しむ人は出なかった。つまり、ごく少数の人に全体の不幸を押し付けたというわけだ。これが格差の実態であり、競争はあんまり関係がない。むしろ、日本の製品はたたき売り状態になり、効率も悪くなって競争力を失ってしまった。正しい競争ができなくなってしまったのだ。こう著者は主張する。

最後に著者は競争についてこう述べている。他人を蹴落とすことではなく、保身や嫉妬を乗り越え、弱い自分を克服すること。それが競争と向き合うことである。斎藤さんはたった1人で大学の雇用体系の変更に抗議した熱い人でもある。経済学の本ではあるけれど、血の通った著者の人間性が伝わってくるような内容だった。競争がいいとか悪いとかそういう話ではないのである。

「皇室へのソボクなギモン」 辛酸 なめ子


辛酸なめ子氏のツイッターのコメントがなんだか妙でおもしろいので、何か本を読んでみようと思って手に取ったのがこの本。皇室好きの辛酸さんが、皇族の血を継いでいる竹田氏に、素朴な疑問を投げかけるというタイトル通りの内容だ。皇室の人はインターネットするの?ドメインは何?携帯のキャリアは?とか、そのギャップに笑ってしまうような質問が投げかけられ、まあそれにはすべて答えられるわけではないんだけれども、竹田氏が回答しつつ皇室のあれこれを解説していく。

知らないことはいろいろあったけど、とくに驚かされたのは、三種の神器を守るという女性たちの存在だ。この人たちは浄不浄の考えが徹底されていて、一度トイレに行くだけでもいったん不浄用の服に着替えなければならなかったりする。生理のときは身の回りのものすべてを不浄用のものと取り替える必要があるため、あらゆる持ち物が2セット用意されているのだそうだ。そのかわりというか、三種の神器が納められている部屋にはその人たちしか入ることができない。処女であることが求められ、外出などの自由もほとんどない。こういう役割の人がいまでもいるのだということに驚いた。

「こうして世界は誤解する―ジャーナリズムの現場で私が考えたこと」ヨリス ライエンダイク

国際報道への疑問に正面から挑むオランダ人ジャーナリスト。現実を見つめながら本質に迫ろうとする著者の態度に、好感が持ちながらこの本を読んだ。 著者は新聞社やテレビ局の特派員として、中東地域で働いていた。学生時代、留学先のエジプトの大学でアラビア語を専攻していて、その能力を買われたのだ…… と、てっきり本人もそう思っていたら、実際の特派員の仕事は、語学力を駆使してアラブの真実の姿を伝えようとするものではなかった。通信社からすでにオランダの本社に寄せられているニュースを「現場にいる人」として書いたり話したりすることが主な役割だったのだ。あたかも自分がつかんだ情報かのように。つまり本社としては現場に誰かがいることが重要で、そのため特派員たちは、いかにビザを取って紛争地など話題になっている場所に入るかが勝負になっていたという。

そういう現状に直面した著者のライエンダイクさんは、報道の裏にある、というかニュース報道という仕組みがもたらす問題に気づいていく。そして報道の現場にいながらその本質を問い続けている。その経過がこの本である。

著者は、自分を含むジャーナリズムに対してこう言っている。「ジャーナリストは『あなたが目にしているものは例外であって、通常のことではありません』と知らせる責任がある」と。その背景には市場本位のメディアの姿勢がある。そこでは「人は何を聞く必要があるのか」ではなく「何が聞きたいか」が基準になってしまう。その結果、人は無知になり独善的になってしまうのだ。

メディアが報じていることがすべてだと思ってはいけないなあと思う一方、「自分を含めた世界」に対して本質に迫っていこうとするライエンダイクさんに、真摯なジャーナリストのあり方を見たような気がした。

「小商いのすすめ」 平川 克美

これまでに「経済成長という病」や「移行期的混乱」という本を出してきた、会社経営者である著者による一冊。ミシマ社からの出版だ。これからの時代は、野生の知恵で生き抜かなければならない。ということが、著者自らの経験に学術的な引用も絡めながら、とても丁寧に語られている。丁寧すぎて思わず先を急いでページをめくりたくなったりもしたけれど、つまりは野生の感覚を呼び起こし、お金の経済ばかりを見るのではなくて、人間らしい経済の営みを取り戻そうではないか。そういう主張だと思う。 ではそうだとして、私たちは具体的にどういう行動をすればよいのだろう? ひとつは、自給自足であったり田舎暮らしであったりという、いわゆるエコな生活に入っていく道がある。そういう方向に目を向けている人も多いと思う。しかし平川さんは、それも良いけれど、都会で電車に揺られ会社で仕事をするような生活も悪くはないだろうと言う。そこを否定しては苦しくなる。無理に極端な生活の変化を求めなくても、今ここにある自分に対して責任を持つ。そういうスタンスで、これからの時代を生きていくべきだ。それが平川さんの言う「小商い」である。

責任を持つということは、すぐに見返りのない「損な」役回りを引き受けることでもあるけれど、贈与に対して返礼をしなければならないと感じる人間の性質を考えると、最終的に「損」になることはない。ここに気づくことで、短期的な損得しか考えない「こども」を脱して、「おとな」になろう。そう著者は呼びかけているのだ。

「被差別の食卓」上原善広

世界各地の「差別」されている民族独自の食、いわゆるソウルフードを巡る旅のノンフィクション。著者自身も差別されてきた土地の出身である。その差別のルーツ、つまり自分自身のルーツがロマ(ジプシー)やインド、ネパールの不可触民にあるのでは……という大きな仮説のもと、各地で食べられている食をレポートしている。 今では世界のどこにでもあるフライドチキンが黒人のソウルフードであるという理由や、ザリガニ、ハリネズミといった馴染みのない食材の食べ方、そしてあまり知られていない日本の「ソウルフード」のことなど、へーっと思わせる内容だった。できれば料理の写真をカラーで見たい、とは妻の感想。 差別の問題もそうだけど、ちょっとややこしそうな話や敬遠したくなる話題、最初は興味がないようなことでも「文化」として見ればおもしろくなる。教養っぽい感じになるからだろうか。よくわからないけど、この本は食がテーマになっていることで、差別、被差別という対立的な見方ではなく、文化的な視点に立つことができた。そこからの眺めは新鮮でオープンな感じがした。

「未来国家ブータン」高野秀行

一見ふざけているようなことを旅の目的に掲げながら、その旅の過程で、現地の文化や風習、政治などのまじめなテーマについてもさりげなく考察していく。これが高野さんの本のユニークなアプローチだ。 今回は「ブータンで雪男を探す」というこれまた「ほんまかいな」と思わせるような(でも高野さんは本気の)ミッションを設定。そのミッションを遂行しつつ、生物多様性と仏教の関係、世界一幸福といわれるブータン社会の実状などについても探りを入れていく。 普通ならこういう真面目なテーマは、政策の分析とか、指導者の資質とか、そういう上の方から考察していくのが王道だ。でも高野さんは雪男がいると信じられているような僻地の村人との交流という、言うならば思いっきり下から目線でブータンを眺める(もちろん高野さんは雪男の探索もあきらめていないのだが)。そして高野さんなりの「ブータンの方式」を発見していく。

もちろん道中でブータンの文化や風習がわかるのもおもしろい。例えばニエップという、自分の住んでいる町以外の場所を訪れたときに泊めてくれる人がいたり、プツォプという子供がいない夫婦が他人の子供を育てる制度があったり、ツォチャンという村の女性たちによる強制飲み会(新歓コンパ)があったり……。

古くからある「祈祷」の効果を高野さんが実感するところも興味深かった。高野さんは現地で心身の不調に陥り、村の祈祷師に祈祷してもらう。その効果について高野さんは、自分の苦しみが他人に伝わるだけでも大きかったと言う。これはなるほどと思った。

共感したことと言えば、「選択肢の少なさ」についての考察もそうだ。高野さんはブータン人が幸福である理由について、選択できる自由がありながら選ぶ道が限られていることではないかと言う。例えば、日本では多くの選択肢から自分の意志で選ぶことができる自由がある。けれどその選択肢が玉石混交で多すぎるため、比較検討して選ぶだけでも疲れてしまうし、選んだ後も果たしてこれでよかったんだろうかと思い悩むことになる。

一方ブータンでは何かを決断するのに、それほど労力を使うことがなく、決断したあともこれでいいのだと思うことができる。これが幸福度を上げているんじゃないか。そういう考察である。

そういえば、同じようなことを高野さんは「腰痛探検家」という、腰痛を治すために様々な施術を右往左往した体験を書いた本の中でも言っていた。選択肢の多さと幸福度の関係というのは、なかなか興味深いテーマだと思った。

「舟を編む」

三浦しをん

出版社の辞書編集部を舞台にした小説。言葉の大切さや言葉に懸ける人の思いといった、作者自身も大事にしているであろうことを小説という形で表現しているようにも感じられる内容だった。 自分も、言葉を扱うことや言葉の意味を考えるということは、いまの仕事にも共通しているようにも思えて、自分のことを当てはめながらこの本を読んでいた。思うに良い小説とは(好きな小説とは、かもしれないけど)、読んでいるうちに自分自身のことをいつの間にか考えているような、そんな文章なのかもしれない。

「熱さ」というものについても考えさせられる。辞書作りにのめり込む主人公とは対照的に、同僚の西岡くんは少し醒めた目で茶化すようにこの状況を見ている。でもその目が「辞書に血を通わせる」ための普通の人の感覚として重要なのだ。この西岡くんと主人公は、お互い相手の感性に、憧れと羨望と尊敬を持って接している。こういう関係はいいなと思った。

数年後、辞書編集部に配属になった若い女の子が、西岡くんが作った引き継ぎノートを見つけるシーンもよかった。「このノートは自分のために書かれたものなのだ」と知る瞬間。これで彼女はぐっとやる気になる。どうしてやる気になるのだろう? そのノートに自分を発見するからかもしれない。自分の素直な感覚を生かしていいのだ、そう思えたら人はやる気になるだろう。なんとなく、自分の仕事にも応用できそうな話だった。

「体制維新―大阪都」

大阪都構想がいいと思うんだったら、やればいいんじゃないだろうか。この本を読む限りではそう思う。橋下さんの中では筋が通っているようだし。でもこれはなんというか、大々的に世に問うほどの問題なのだろうか。仕組みを変える、パソコンでいうOSを変えるのが目的だと言うけれど、なんだか内部事情の問題にも思える。 橋下さんに倣って行政を会社に例えて考えてみると、内部の組織が変わるのはいいけれど、それでどういうコンセプトの商品が出るのかがわからない。 例えばアップル社の内部事情に興味がある人もいるかもしれないけど、それより次にどんなコンセプトのどんなデザインの商品が発売されるかにみんな興味を持っているだろうし、それが企業と一般の人の実際の関わりかただろうと思う。

だから一連の橋下さんのやり方については、内部事情の改革の話と、出てくる商品への評価がごっちゃになっているような気がする。そこを政治家と行政マンとで役割分担すべき、というのも彼の主張のひとつだけど……うーん、正直言っていまひとつ自分事として興味を持てない感じだ。なんで世の中がこんなに騒いでいるのかわからない。

結局、言い方の問題なんじゃないだろうか。

橋下さんは言葉遣いが丁寧とは言えない。挑発して相手を追いつめ、選択を迫るというというやり方だ。つまり相手の自由を奪う。それによって注目を集めるという戦略なのかもしれないけど、そういう言葉遣いのよくない人、自分と異なる立場や考えの人に敬意を払わないような態度の人のまわりには、同じようなタイプの人が集まってくるんじゃないだろうか。みんなケンカ腰、みたいな。そこにちょっと怖さを感じる。少なくとも、おっとりした癒し系の人は、そのグループに入れないだろう。そうなると、一見強そうで、実は脆いチームになってしまうんじゃないだろうか。なんとなくそういうところが気になっている。

「呪いの時代」 内田樹

内田樹さんの本からは、物事を見る位置を一段上げて考える、という方法を教えられる。あることについて考えているときに、「……ってことを自分が考えているのはなぜなんだろう?」という問いをたてることで、ものの見方が深くなる。 この本で印象に残ったのは、センサーの話。いやなことに対処するのにセンサーを切るという方法をとると、その場はOKだけど、他の危険を感知する力が弱くなるという。内田氏自身は、自分のセンサーを切らないこと、そのセンサーに敏感になり、アラームに従うこと、それが自身の強みではないかと自己評価している。 センサーが重要だというのは納得できる。では、センサーを働かせるにはどうしたらいいのだろう?

2つの選択肢があると思う。ひとつはセンサーがうまく働く場所に自分を移動させること。つまり環境を変える。これが王道だろう。

もうひとつは、今いる環境でセンサーのスイッチを入れてみるということ。すると、どうなるのだろう? たぶん内田氏の言うように、アラームの音に耐えきれなくなる。だからこそセンサーを切ったのだから。

つまり、センサーのスイッチを入れるということは、その信号をアウトプットする手段がいる。アラーム音を自分の中にためこんでいけば、いつか壊れてしまう。思うに、それを解放するのが絵であったり文章であったりという表現活動なのだろう。センサーをONにするには出口を確保しないといけない。この2つはセットなのだ。

逆に考えると、適切な出力口を作ることが、センサーをONにするスイッチなのかもしれない。そうだとしたら、優れた出力を出すにはセンサーをONにしつつ、 出力をしばらく止めてみるといいのかもしれない。出したいものの圧力が高まってきたときにコックを開けると、濃度の高いものが出てくるのではないだろうか。抽象的すぎて何の話かわからなくなってきたが、なんとなくそんなことを思ったのだった。