3月1日(木)
なにかユニークな旅をしてそれを記録して発表する。それがいま自分がやってみたいことのひとつだ。たとえばWWOOFで世界を回って、その様子をレポートする。農業のことだけじゃなく、自立して生きていくということを考えるのが裏のテーマ。何がどうなったら自立ということになるのか、興味がある。ただその興味は今の自分の状態を改善したいというところから来ていて、それは利己的な動機だ。自分に都合のよいことばかり表現してしまうかもしれない。でもそこは逆にフラットなのだとも思う。自分の立場はまだ決まっていない。自立して生きるのはすばらしいのかもしれないし、そうでないかもしれない。
3月2日(金)
よく行くカフェではたいてい窓際に座る。窓際が好きなのはなぜだろう?(1)外が見えるから。(2)明るいから。(3)端っこのほうが落ち着くから。そんなところだろうか。
(1)は、外は見えるけれども、自分はその世界から隔離されているという状態だ。安全なところから、巡りゆく世界を見ていたい。そんな気持ちがあるのだろう。
(2) は、自然を求める欲求だろうと思う。人工的でないものに接することで楽になれる。もしまわりすべてを人工物で囲まれていたら、その人工物を利用するための対価をだれかに払わなければならない。たとえ値段がついていなくても、負い目としてそれは自分の中に残る。他の人間に何かしてもらったという感覚だ。 自然からの恵みは、この感覚からフリーになれる。
(3)は、防衛本能だろう。片側だけでも壁に守られていたら、他人からの攻撃におびえる量を半減できる。結局、人間が怖いのか? 人間同士のあいだにある見えないものを恐れたり喜んだりしているのだと思う。
* * *
人を「使おう」とする人にとって、似ている人は、使いづらいのだと思う。考え方や、人の見方や、本音のところで何に価値をおくかが似ている人。人を使う、つまり自分の利益になるように動いてもらおうとすれば、自分と違う価値観を持った人でないと、ぴたりとはまらない。自分が苦手だやりたくないと思うことを嬉々としてやる人がいれば、使う人にとっても使われる人にとってもありがたい。考えてみれば、その場合は双方にメリットがあるので「使う」という関係ではなくなる。逆におたがいが似たような価値観でありながら、相手を「使おう」とすると、反発が生まれるだろう。人を使うというのはいやな言葉だ。
3月3日(土)
朝食後、畑へ。堆肥のきりかえしをする。枯れ草に野菜くずと米ぬかをまぜて、水をしっかりかけて置いておいたものだ。シートをどけてほぐしてみると、ちょっと水っぽい。どうかな?と思ったけれど、すこしは発熱もしているし発酵はすすんでいるようだ。堆肥づくりはたのしい。もうちょっと研究してみたい気になった。無料の材料をつかって役にたつものが作れるのはおもしろい。
帰ってからジョギングに出かける。元陸上部のFは予想よりだいぶスローペースで走り、もっとがんがん走るつもりでいた自分は薄着で寒い。ももあげをしたり、無駄に同じ道を往復したりして、体をあたためた。2.195キロ(推定)くらい走って、 たこ焼きを買ってかえる。この駅前にできたあたらしいたこ焼き屋には開店セールで行列ができていた。バイトの若い男女がまだおたがいのことをあまり知らない状態で、探りをいれるように話していることに思わず耳をかたむけてしまった。
3月4日(日)
自治会の引き継ぎ会。準備についてやや反省点もあったけど、だいたい問題なくおわった。果たしてこの1年の会長っぷりがどうだったかはわからないが、自分たちでできる範囲のことはやったという感じはする。主にFが実務をこなしてくれ、僕が回覧板の文章を書いた。役割分担も自然とできたし、バランスもとれたように思う。Fにしろ自分にしろ、こだわるポイントがちがう。こだわらないポイントについては、まあええんちゃう、と言うことができる。それでバランスがとれている。
3月5日(月)
実際に話をするとたいていは角が取れるから、物ごとは丸く収まることが多い。ただあやふやにしてしまったり、先延ばしにしてしまったりすることもある。そういうことは文章ではっきりさせないといけない。
3月6日(火)
やりたいことが「ぼーっとすること」の場合、なかなかそれは理解されない。やりたいことをやればいい、と言う人も、ぼーっとするのはそのやりたいこととして認めていない気がする。なにかしらアクティビティとかスタディじゃないと、やりたいこととして処理されない。
アウトドアとかおけいこの同列に、「ぼーっとする」もあってもいいように思う。ぼーっとするは、経済を動かさないが誰にも迷惑をかけない(はず)だし、環境にもいい(これは確かだろう)。エコポイントもいいけど、ぼーっとするポイントもためていけばいいんじゃないだろうか。一定数のポイントがたまれば、さらにぼーっとできるのだ。
でも、それで活気がなくなってみんなが死んだようになってしまってもつまらない。活気あるぼーっと。そんなものがあるのだろうか。活気というのは他人とのコミュニケーションで、つまり、他人とのコミュニケーションが飛びかっている状態が活気があるということだ。ぼーっとしつつコミュニケーションをとるってどういうこと? 自分の感度を上げる、みたいなことがその答えのひとつな気がする。
3月7日(水)
人と話すことがなくて困ってしまうことがある。共有できるものはあるはずだけど、それはきっと深いところにあって、なかなかそこまでたどり着くことができない。たとえばこれが仕事だったら、 人と話すのはもっと簡単だろう。お金のためにやっている、自分の意志でないところで仕方なくやっているという理由が、ある意味、解放感を生むのかもしれない。
3月8日(木)
同居人は自然の中を冒険することに魅力を感じているが、自分はどちらかというと自然はおそろしいと感じている。一方で、ちょっと治安の悪そうな場所に魅力を感じたりする。同じことでも怖いと思う人と魅力と思う人がいる。恐怖と魅力は近いところにありそうだ。
3月9日(金)
海外に行くと気楽なのは、現地の人とシェアできることが少ない、とあらかじめわかっているからだ。共通な部分が少ないとお互いがわかっている。たとえば「アメリカでは自己主張しなければならない」みたいな話は、人と人のあいだには共通な部分が少ないという前提があるからだと思う。
日本にいると、共通な部分が多くて当然となんとなく思っている。誰かとその共通部分がぴたりとあえば、こんなに楽なことはない。コミュニケーションに苦労したり、説明したり、指示したりされたりする必要がない。その楽な状態を知っているから、共通部分が少しずれただけで動揺してしまう。誰かと共通部分がどれだけ重なるか、ということを常に自分は気にしているのかもしれない。
3月9日(金)
同僚の外国人とお茶したあと、Fと中華料理屋で食事。夕食に何を食べようか? タイ料理? それとも沖縄料理?と各種グルメ方面に考えをめぐらせているうちに、なぜか目の前にあったこの店に入ってしまったのだった。床が油ですべすべで場末の店という雰囲気。アジアを旅行しているみたいだ。中国人と日本人らしき常連客がいた。というか、自分たち以外はみな常連のようだ。チャンプルーはマレー語?ポコペンの意味は?そんな会話。頼んだメニュー以外に、餃子と麻婆豆腐がサービスでついてきた。
3月10日(土)
妹らを招いてウチで水餃子パーティー。これは前から決めていたのに、どうして昨日わざわざ中華料理を食べてしまったのか。と反省したけれど、そんなことはすぐ忘れてしまうくらい、水餃子はおいしく、いくらでも食べられる感じだ。中国の西安などでは、こういう水餃子が主食みたいなものだと雑誌に書いてあった。大量の(個数が多い)餃子をみんなでパクパク食べる。中国の食事は勢いがある感じがいい。食べ残したりするのはいやだけど。
3月11日(日)
昨日の夜は、インターネットでスコップ団の花火を見た。甥っ子と遊んで疲れていたからか、画面を見つめながら一瞬ウトウトしてしまった。はっと気がついたときも、花火は同じペースで上がり続けていた。2万発という数の多さを実感。スコップ団の活動を知って「かっこいい」というキーワードをもらった気がする。
3月12日(月)
何かを命じられるのはいやだ。それは自分の自由が奪われるから。 たった一言だけで、自分の時間が奪われる。それに反論したり無視することもできるけれど、でも同時に気まずさや後味の悪さが残る。どっちがマシかはかりに かけて、しぶしぶ自分の時間や自由を提供することになる。
人との衝突を避けようとし過ぎているのかもしれない。人との衝突を避けるために 自由が奪われる。でもやっぱり衝突するのはいやだ。衝突したらしたでそれに時間が奪われてしまうし。衝突を避けつつ自分の自由を得る。そういうアクロバ ティックな方法があるのだろうか。表の顔と裏の顔の使い分け、というのもそのひとつだろう。でもそれはちょっとかっこ悪い気がする。その答えのひとつがレイヤーという考え方かもしれない。別のレイヤーにいる人とは正面からは衝突しないし、なおかつ自分はそのレイヤーにいる限り自由だ。
3月13日(火)
Fはキャンプ場の管理人とかやったらいいんじゃないか。無印のキャンプ場のパンフレットを見てそう思った。アウトドアが好きだし、あるものを使って工夫するのも 得意だし、設備が整ってないところでも料理ができる。Fには自然そのものに喜びを感じるというセンスがあると思う。僕にはそれが薄い。自分がどういう反応を起こすかには興味があるのだけど…。とか、ごちゃごちゃ言う前に何でもやってみろって話だな。
3月14日(水)
最近は毎日のようにカフェでコーヒーを飲んでいる。半ばコーヒー中毒だ。飲まないとやってられない。体には良くないかもしれない。コーヒーの飲み過ぎが、なにか病気の原因になるかもしれない。そんなことを考えても、コーヒーをやめようとは思わない。短期的に得るもののほうが大きいからだろう。
3月15日(木)
自分が何かを抑えているとき、他の人が何も抑えていないのを見ると、むっとしてしまう。それは不公平感からくるものだろうか?他人と自分を比較してしまっている。「自分勝手ではなく、他人のことを考えろ」とよくいわれる。でも他人のことを考え過ぎると、自分との比較が生まれやすい。それで不公平感を感じてしまう。「自分以外はみな動物だ」とでも思えばいいのかもしれない。極端だけど、そのくらいのほうが愛情を持って接することができるような気もする。
3月16日(金)
Fはとある料理本に北海道の写真が載っているのを見て、北海道いいなあと言う。季節を感じながら暮らしたいそうだ。たしかに北海道の自然はきれいだ。でもなんとなく寂しい気もする。やっぱり自分は街が好きなのだろう。大都市でなくていいけど街が好き。文化的なものに憧れているからだろうか。もっと歳を重ねたら自然の方に興味が向いていくのだろうか。すでにその傾向はある。でも今のところはまだ街が好きなのだ。毎日の通勤とかには飽きているけど、なんというか、いろいろな可能性を街には感じ る。いや、逆かもしれない。可能性を感じる街が好きなのだろう。
自然が嫌いというわけじゃない。自然あふれる街は好きだ。ただ自然のなかにぽつりと暮らすのは、怖さのほうが大きい。自然を怖がることなくその中にいることに喜びを感じられるFと、人間どうし肩をよせあって暮らす町が好きな自分。その両方ともが満足できる場所が「自然に囲まれた街」なのかもしれない。海か湖があって、山が近く、災害も少ない。人も穏やかで、仕事もほどほどあ り、文化的にはカッティングエッジである。そこには労働は少なく、人がその力を文化に向け、残りの時間を自然の中で楽しむ。そんな場所がどこかにあるかなあ。
3月17日(土)
朝食:米粉パンケーキ、サラダ。畑仕事。昼食:ラーメン、柿の葉寿司。実家からエレキギターを持ってきてもらう。おやつ:サーターアンダーギー。夕食:つみれ鍋。
3月18日(日)
観覧無料デーに合わせてみんぱく (国立民族学博物館)へ。雨の中、阪急の山田駅から歩く。モノレールは高いのだ。霧が出ており、万博公園のプラタナスの並木がどこかヨーロッパの国のように幻想的だった。みんぱく内では新しくなった展示ブースを見、ビデオテークを2本鑑賞。それから外の休憩所でおにぎりを食べて、再び館内に戻り、本を閲覧した。展示を見るときにプレイステーションを使った音声ガイドを試してみた。2人分のヘッドフォンをつないだままうろうろ歩くとコードが絡まってしまい、 ほどくのにかなり時間がかかってしまった。
みんぱくに来るといつも新しい発見がある。自分の好みや興味が変わるにつれて、目をつけるポイントが変わってくるからだろう。オセアニアのカヌーの航海術にも興味が出てきたし、民族衣装の装飾の複雑さにも目が留まる。寒さをしのげさえすればいいものを、どうしてそこまで労力をつぎこめたのだろう。サトウキビから砂糖をつくる設備も気になるし、外に展示されている韓国の田舎の家も、赤瀬川源平の利休の本を読んで興味が湧いていた。北欧の移民政策の展示もおもしろい。現代の自分たちの暮らしにも直結しているテーマだ。
ビデオテークで は、アフリカ(ケニア)の屠畜の映像と、東南アジアの米作り映像を見た。屠畜に関して資料が少なく、展示もなかったと思うし、ビデオも1本だけだった。米については、脱穀のあとの籾摺り(殻を取り去って米粒だけにする)の工程をどうやっているのかがいつも知りたいけど、なかなかその工程の解説や映像がない。
3月19日(月)
昨日みんぱくのライブラリーで何気なく「遊牧という文化
」という本を手に取ってから、遊牧民のことが気になっている。
3月20日(火・祝)
このあいだフリーマーケットで買ったオプティマスのストーブを持って畑に行く。その前にFはいったん分解して、掃除したり構造を確かめたりしていた。自分はというと、ネットで見つけたマニュアルを途中まで読んだところで投げ出してしまった。
畑でコーヒーを飲もう、という計画だったのだけど、水を持って行くのを忘れた。
となりの畑のおじさんが、ダンナ(ぼくのこと)は休みの日も畑仕事を手伝わされてたいへんやなあ、と言う。
昼食後、回覧板の文章作成。たぶんこれが最後の自治会仕事だろう。
そのあと無線LANの設定。不用なパソコンをもらってきたのだけど、なぜかPCカードで無線につながらず、それだけのためにかなり時間を費やしてしまった。
3月21日(水)
心斎橋のスタンダードブックストア であった西村佳哲さんのトークイベントに行く。西村さんの話の合間合間に「いまのテーマについて、近くに座っている参加者同士で話をしてみよう」という時間が挟まれた。横並びの席に座っていた女性2人と話す。1人は新聞社に勤めていて、もう1人はおもちゃの会社に勤めているそうだ。ほかの人がどういう人で どんなことを考えているのか知りたいと思う一方で、話始めるとついつい自分の思っていることを発表したくなる。なんとなく自分がしゃべりすぎた気がしてあとで反省した。それぞれの人が平等に話すことを理想だと思っているのかもしれない。話を聞くときは、無理に「考え」みたいなところを目指さずに、歌を聴くように聞くのがいいんじゃないかと思った。
西村さんは夫婦で仕事をすることになったときに、そのスタンスの違いにとまどい、自分の考えを押し付けてしまったことがあるそうだ。そのことをあとで反省したという話も考えさせられた。
3月22日(木)
気がすすまないことを繰り返していると、あらゆることに気がすすまなくなる。
3月23日(金)
雨。Fが某所からテーブルを入手してきて、それをパソコンデスクにした。なかなか格調高い雰囲気になった。Fはこういうことが得意だ。マンション内でいらなくなったものを交換できるような仕組みを作れないかとも言う。玄関ホールの掲示板を活用しては?という話になり、じゃあ内容を考えてみるとFは言った。このあいだの西村さんの話が刺激になったのかもしれない。「自分と他人の間にある場所に仕事が生まれる」と西村さんは話していたが、まさにそんな感じだ。
3月24日(土)
風が強く、朝早く目が覚める。Fはさっそくマンションの掲示板に「不用品をシェアしませんか?」と呼びかけるメッセージを貼った。どうなるだろうか?
昨日いったんパソコンデスクにしたテーブルを、食卓にしようと考え直し、改造をほどこす。このテーブルは片脚がないので、そこをイケアの金属フレームで支えられるように高さを調整する。側面には鉋をかけ、サンドペーパーで磨き、ワックスがわりにくるみの実をこすりつけた。
脚を完全に固定するのにねじ釘がどうしても必要で、雨があがったすきにホームセンターに買いにいく。しかし、道を指示し間違えて遠回りになり、しかもそこで雨がまた降り出し、たいそうぬれた。Fは最短距離で行けなかったことが不服そうだったが、無事についたのでそれでいいのだ。
ツタヤのクーポンが配られており、それで「ソーシャルネットワーク」のDVDを借りて帰る。というか、そもそもツタヤのクーポンをコンビニで印刷しようと回り道をしたために、道を間違えたり雨にぬれてしまったのだった。結局、ここでクーポンを配ってたとは…。もともと借りたかったのは「利休」という映画だけど、偶然にもDVD化されたばかりでまだレンタルになっていなかった。さらに偶然にも今日は利休の命日らしい、ということをあとで知った。
スターバックスでチラシなどが貼ってあるボードを見ていたら、店員さんが「何か気になることがありますか?」と声をかけてくれた。greenzに載ってた「マグカップの持参者の累計がキリ番になったら無料」という企画をまだやってるのか気になってのぞいていたのだが、なぜかそのことをとっさに言えなかった。せっかく声をかけてくれたのに。
「ソーシャルネットワーク」は、久々にアメリカの現代映画を観たという感じ。Webの世界に対する見方がちょっと変わったかもしれない。こういう最新のサービスの裏にも人間くさいバックヤードがあるのだ、というような。ありきたりな感想だけど。
3月25日(日)
晴れ。「畑deコーヒー」と題して、このまえ水を忘れてできなかったコーヒーブレイクを畑で実行。ま、ただ畑でコーヒーを飲むというだけだけど、だれか来る人いないかな。
3月26日(月)
西村佳哲さんの「わたしのはたらき」という本には坂口恭平さんへのインタビューもあるのだけど、その坂口さんが大学の卒業論文として作った「ROADIN」という本がすごい。 RODIN(ロダン)の古本をベースに写真を貼付けたり加工したりして、自作の本に仕上げている。最近、パソコンに頼り過ぎるのはよくないなあと思ってた ところに、衝撃を受けた。
3月27日(火)
Fは「僕はお金を使わずに生きることにした」という本に感銘を受けたようだ。感銘というよりは、勉強になったという方が近いのかもしれない。勉強になるというのは、自分が進む方向として具体的に考えているということだろう。どこか遠いところの話ではなくて。
WWOOFの旅をするということも、もうちょっと現実的に考えた方がいいかもしれない。というより、考え始めている。単なる農業の話ではないというところが、だんだんわかってきた。お金の話であり、自立の話であり、社会の話であり、つまり、生きるということ? わからないけど。
3月28日(水)
ある場所にいることをよくないなと思っても、そこから逃げ出すことが居続けるより負荷が大きければ、人はそこに居続けるだろう。それが惰性というものなんだろうな。でもそれは短期的に物事を見ている。たしかに今を乗り切るだけならその場に居続けた方が楽だ。でも長い目で見ると違う。
長期的に物事を考えるというのは、なかなか体の動きをともなった行動に降りてこない。どうすれば、長期的に考えた行動を起こせるのだろう? いつもとは違った時間の流れを感じること? 旅行とか、自然に触れるとかで。
3月29日(木)
単なる知識がどうしてつまらないかというと、なにかこう、送受信していないからだと思う。センサーを働かせていない。知識だけを得てそれを誰かに言ったとしても、それは送受信していることにならない。なんとなくそんなことをと思う。
3月30日(金)
夜、川べりの公園で花見。とはいえ桜はまだ咲いていなくて、モクレンの花を見ながら飲食する。5名でこじんまりと。