2012年4月の読書

「食費はただ、家賃も0円!お金なしで生きるなんてホントは簡単」ハイデマリー シュヴェルマー

下で紹介したマークボイルが環境問題的な動機だったとしたら、このドイツのハイデマリーは、心理的なことが動機になってマネーレス生活をしている。自分としてはどちらかというと、このハイデマリーのほうが共感できるというか、問題意識が近いような気がした。 マークボイルは農場の一角に住まいを確保し、栽培に加えて狩猟採集(廃棄物をもらうようなことも含めて)的な生活をした。それ対して、ハイデマリーは留守番をする代わりにその家に滞在させてもらうなど、人と人の間を渡り歩いていくような暮らしを試みている。もともとの動機や問題意識が違っても、ともにマネーレスという実験に行き着いているのが興味深い。大事だと思うのは、どちらもお金には背を向けても、人には背を向けていないこと。人間社会へのアクションを起こしている。マークはスキルの交換会であったり、ハイデマリーは「ギブ&テイクセンター」の設立であったり。マネーレス生活と聞くと、世の中に背を向けるようなイメージがあるけど、そうではない。むしろより人間に近づこうとする態度なのだろう。

そう考えると、お金というものは、人と人との間にある程度の距離を保つためのものなのかもしれない。

「絶望の国の幸福な若者たち」古市 憲寿

若者ってなに?という根本的なところを問い、これまでの「若者論」の歴史を振り返る。まずそうやって、若き社会学者の古市さんは、「今の若者は……」と語られることの多くはさまざまな背景や意図を含んでいることを、ひとつひとつ解き明かしていく。 そして、若者の幸福度が意外と高いという調査結果について、「今日よりも明日がよくならないと思ったとき、人は今が幸せと答える」のだと考察している。たしかにいまの若者は、現状の暮らしに満足を感じている人が多いのかもしれないけど、その裏には、将来が良くならないという絶望がある。そういう分析だ。 ところで、この本を読んでいる自分は若者なのか?とふと思う。微妙だ。なんとなく若い側にいるつもりだったけど、ほんとうに若い人からはそうは見えないだろう。自分が若者かどうかわからない。若者じゃないと思ったこともなければ、若者だと思ったこともない気がする。もしかして「若者論」はいつだって他人のことを言うものなのかも?

古市さんは若者である。自分が若者でありながら、冷静に(かつシニカルに)若者論を分析し、身の回りの実感と合わせて、独自の若者論を提示している。プレイヤーでありながら観察者でもある。当事者だけど、全面的に若者の味方というわけでもない。そのへんのスタンスが新鮮だ。ああ、でもこの本の一番おもしろいところは、先輩研究者の論考を古市さんが自分の言葉で、遠慮なくバサバサと斬っていく小気味よさなのかもしれない。

「ぼくはお金を使わずに生きることにした」 マーク・ボイル

イギリス人のある青年が1年間お金を使わずに暮らした。これはその体験を綴った本。都市近郊の農場に、仕事を手伝うことを条件に、トレーラーハウスを置かせてもらい、食料は、採集、栽培、交換、スキッピングなどで手に入れる。 おもしろいのはこのスキッピングだ。スキッピングとはつまり、ゴミあさりのこと。といっても、汚れた食料をあさるのではなく、食料品店から毎日のように捨てられる新品同然の食料を集めてくる。そういう無料の食材だけで、多くの人を集めるフェスティバルを開いたりもできるほど、食料が得られる。(もちろんタダ) このあたりが、例えば人里離れたところで自給自足をするというのとは違って、現代の社会への強い問題提起になっているように思う。都市に住む人はみな他人事とは思えず、賛同する人も批判する人も入り交じって、大きな話題になったのだろう。著者のところには実験開始前からメディアが殺到することになった。

マークボイルは、ある日突然これを思いついたわけではない。これまで持続可能性や環境問題、シェアすることなどを考え、実践してきた先にこの試みがあった。金なし生活は苦労もあるけど、楽しくもある。その現実が描かれている。

金なし生活を目指す理由は、人それぞれだ。著者のように、環境問題(気候変動、ピークオイル)に取り組むことに重点を置いている人もいれば、人間同士の問題を解決する手段として、マネーレスに行き着く人もいる。そういう意味で、このマネーレス運動は何かと何かが出会う場所という気もしてくる。とにかくこのマークボイルがちょっとかっこよく思えたのだった。