2月1日(水)
とある署名をしてしまった。しまった、と書くのは、そのあとどうしても違和感が残ったからだ。とか言って署名してからでは遅いのだけど、うーん、署名というのは難しい。
その違和感というのはおもに、署名をうながす文面に原因がある。文を読む限りその内容に反対のしようがない。デメリット、つまり逆の側から見るとどうなのか、ということが書かれていない。署名をさせるための文章なので当たり前といえば当たり前な気もするけど、いくらその文面を眺めてみても、拒否するポイントは見つけられない。
でも、きっと別の見方もあるのだろうという予感はする。良いことづくめ、悪いことづくめのことなんて、なかなか世の中にはないからだ。ということは、前々から自分の中でじっくり考えていた問題じゃなければ、その場で署名するという判断はできないということだ。自分の場合はそうだ。自分の知識や想像力が不足しているだけなのかもしれないけど、みんな似たりよったりなんじゃないかなあという気もする。
2月2日(水)
今週末のマンションの住民総会で、次の役員をどう選ぶか考えている。例年どうりならくじ引きになるけど、もっといい選び方はないものだろうか。たとえば、階 ごとに代表者を決めてその中から選ぶとか、居住年数の長い人や役員の経験者がボードのようなものを作って、役員をサポートするとか…。
今のやり方の何が問題なのか? それはほとんどの人が他人事だと思ってしまうことだ。自分も会長に当たるまでは他人事だと思っていた。少しでも自分ごとだと思ってもらうにはどうしたらいいか。当たらなかった、やれやれ、ではなく、みんなで助け合って…というのは理想論かもしれないが。
たとえばこれはどうだろう。三役は従来どおりくじ引きで選ぶ。残りの予備の人は各階から候補者を出す…うーん、面倒なだけかもしれない。ランダムにくじで 選ぶのとそんなに変わらない気もする。やっぱり現状のやり方でくじを引いて、うまくいかなければ調整するということでいいんじゃないか。
考えるべきは、とうてい引き受けられないだろうと思われる人がくじを当ててしまった場合。たとえば外国人の人が当たってしまったら? とりあえず会長以外ならやってもらうということでいいだろう。へんに除外していいことは何もない。当たったら当たったらでおもしろいじゃないかと思う。
2月5日(日)
住民総会。だいたい予定通り、というか予想以上にあっさり終わってほっとする。出席した20~25人くらいの人の前で、自治会について説明した。早く終わら せた方がいいんじゃないかと思い、ちょっと駆け足になったけど、ちゃんとうなずきながら聞いてくれた人もいた。相方も落ち着いているように見えたが、実際は ちょっとあわてていたそうだ。まあ無事に終わってよかった。役員の選挙は結局くじ引きになった。当たった人は引き受けてくれそうだ。
* * *
同居人の発案で家の中で火鉢を使ってみた。バーベキューの残りの炭にガスコンロで火をつけてから、茶道で使う火鉢にくべてみる。炭はうまく着火したようで、おお、たしかに暖かい。ストーブなんかなくてもこれで十分じゃないか。
と思っていると、「ピピピピピ」とけたたましい音とともに、「換気せよ」というメッセージが。ガスの警報機が茶道、じゃなくて作動した。一酸化炭素の濃度が 上がっているようだ。あわてて換気をし、でもそのままじゃ寒いので、一部を残して窓を閉め、燃やし続けていると、「ピピピピピ」。
うーん、思った以上にしっかりと換気する必要があるみたいだ。たしかに部屋が煙っているような気もするし、 ちょっと頭が痛い気もする。何となくぼんやりするのは、元からかもしれないが、もっと大胆に換気しなければと、窓を開けっ放しにして、上着を着込みつつ、 火に当たる。これって外にいるのと同じじゃ?…
とにかく換気は重要だ。日本の古い家は寒い地域でも気密が悪くて、なんでだろうと思っていたけど、その理由がわかった気がした。
2月6日(月)
週末は、JSAという映画を観た。JSAというのは、Joint Security Areaの略で、韓国と北朝鮮の国境地帯にあるエリアのことを言うそうだ。板門店にある1本の橋をはさんで向かい合う両国の兵士が、ひょんなことから仲良くなり、友好を温め、そしてそれが悲劇的な事件に至ってしまうという話。先日、韓国にいる脱北者が北朝鮮に向かって、チョコパイを風船につけて飛ばしたと いうニュースがあり、「チョコパイ?なにそれ?」と興味を持った。そのチョコパイが出てくるシーンが、この映画の中にある。
それはそれとして、相手にじっと顔を見つめられたとき「え? 私の顔に何か付いてますか?」って返す会話には、実世界ではまだ一度も出会ったことがない。
2月8日(水)
仕事が終わってから、長岡天神へ。スツールのタケウチさんらと飲み会。プライベートな飲み会なんていつ以来だろう。少なくとも1年以上はなかった気がする。 男どうしの飲み会ということで、男4人で飲む。年齢も近いようなちょっと離れているような、タイプも近いようなちょっと違うようなで、居心地がいい。これまでの集まりではちょっと距離が詰めづらかったところを、少し近づくことができたと思う。こういう機会に誘ってもらってありがたい。
話していて思うのは、自分も自分としてこれからやっていくことを決めなきゃということ。今日のメンバーのなかで会社勤めをしているのは自分だけで、あとの人は独立ないしは、独立のための勉強をしている。その点でいまはまだ同じ立場になれない部分がある。考えていることはあるから、あとはどういうふうに一歩を踏み出していくかだ。
2月11日(土)
朝食後、家近くの飯盛山へハイキング。滝を見物してから、山頂に登る。途中、丸太を並べて新しい登山道を作っている最中だった。作業しているおじさんに何か話しかけようかと思ったが、ためらってしまい、話しかけずじまいだった。短い人生、できるだけ多くの人と話をして損することはないよなあと思いながら歩く。
上から一望できる大阪の眺め はいつ見てもすごい。まさに大都市という感じだ。おにぎりを食べて下山。スーパーに寄って帰る。飯盛山に登ったあとは、いつもスーパーに寄って帰っている気がする。
おやつを食べてから、昨日レンタルしてきた「借り暮らしのアリエッティ」のDVDを観る。さすがジブリの映画。泣けるシーンが何ヶ所かあった。切実な目的のために持てる力を最大限に利用して工夫する。そんなシーンを見ると胸が熱くなる。
世界の見え方がちょっと変わるのも、この映画のおもしろいところだ。ふだん家で生活していて、「あれ? なんでこんなところに、こんなものが落ちているのだろう?」とか「しまっておいたはずのものが、いつの間にかなくなってる」とか、そういう経験があるけ れど、それがアリエッティのような小人の仕業だと思えたらおもしろい。まあ実際は自分がうっかり忘れているだけだけど、ときには小人の仕業だと考えたくなるようなこともある。そんな想像力を働かせてみるのは、なかなかおもしろいものだ。
あと、小人の涙の粒が大きかったり、飲み物の一滴か大きかったりするのも興味深かった。
2月12日(日)
双龍居という中華料理屋に行った。会食する場所をインターネットで探していて、世界を旅行したことがあるという人のブログにこの店が紹介されていた。独自の視点で書かれていて、評価が信頼できそうな気がしたのだった。
行ってみると確かにいい感じの店だった。いい意味で中国っぽい。その雰囲気を決定づけているのが雲南出身らしい店長のおじさん。愛想笑いとかはあまりないけど、ほどよく構ってくれる。店長が前面に出てきて接客するのは珍しいんじゃないだろうか。
ウェイターの人も朴訥だけど、さりげなく気がきいている。おいしいし、量もたっぷり。値段も手ごろで大満足だった。タイミングよく円卓に座ることができたのもテンションが上がった。中華料理は「食べる」ということに勢いがあるのがいい。
その後イケアに行く。イケアは外国風だしおしゃれだし、行く前はなんとなく楽しみな気分になれる。でもそれはやはり自分のお金で何でも買えるという全能感によるところが大きい。価格が安いので庶民の味方という気もするけど、お金さえあれば何でも買える、という経験を安く提供しているとも言える。おしゃれなものが安く手に入ってうれしい反面、これがこのままずっと続くものだとも思えない。
2月13日(月)
ある人がとあるお店での光景をツイートしていた。
店の電話が鳴り、上司らしい社員が部下の女子社員に「電話とって」と言ったら、「無理です」と言って断ったそうだ。今手が離せないから、ではなくて「電話とると固まっちゃうから」がその理由。その上司にも少しは同情するが(仕方ないな、という反応だったらしい)、なんかその女子社員のほうに、より共感してしまう。断るという選択肢があるほうが健全なんじゃないか、という気がしているからだ。
2月14日(火)
身内で作ったものが、他人から見るとおもしろくないのはどうしてだろう? それは評価する目が曇ってしまうからだ。身内のことはひいき目で見てしまう。その目を他人は信用しない。
2月15日(水)
夕食はブリの刺身とブリ大根。スーパーで売られていた「ブリあら」に、身の部分が多くついていたのを同居人が見逃さなかった。北陸旅行で食べ損ねて以来、念願だったそうだ。たしかにおいしかった。この時期、寒いという字はわざわざ見たくないけど、「寒ブリ」だけは許してもいい。
2月16日(木)
何のために働くのかと考えてみると、家族のためという答えが出てくる。でも、家族と暮らすために、家族と暮らす時間を犠牲にしている。これはちょっとへんだ。家族と一緒に暮らしたい、一緒の時間を過ごしたいというのだったら、働きに出ずに家にいればいい。できるだけ家賃のかからない場所に住み、食料を自力で育てるような生活を目指せば、それに近づくことができるだろう。
思うに、いま自分が稼いでいるお金というのは、家族 (妻1人だけど)に「いてもらう」ためのお金なのだ。これだけ払うから、近くにいてください。そういうお金。そう考えると、たとえば会社が社員に払う給料も「ここにいてくれ」代なのだろう。在宅ワークとかがあまり進まないのも、仕事の対価だけでは捉えきれないものがあるからだと思う。自分は家族に対してここにいてくれと 思っているから、自分の時間と交換してきたお金を家に入れる。そういう意味では、会社での社長と社員の関係と似ている。
2月17日(金)
何か言われてむっとするのは心の反応なので仕方はないが、そこは怒るのではなくユーモアで返すのが一番いい。ユーモアで返す余裕を失っているのが一番よくない。何かを言われてそのまま逆上するのはかっこ悪い。
かっこいいかっこ悪いの話で言うと、スコップ団の団長はかっこいい。スコップ団の前にかかわったとある寄付活動にかかわり、Tシャツを売ることでお金を集めた のだけど、このとき自分の名前でお金を一括して振り込むことをせず、小分けにして街頭の募金箱に入れたという。かっこいいじゃないか。そうありたい。それが世の中に知れるかどうかは問題じゃなく、そういうことができるのはかっこいい。世の中には、まだ知らないかっこよさが山のようにあるのだろう。
2月18日(土)
ステージで熱唱した。曲はボブディランのたしかライクアローリングストーンズだったが、演奏が始まったものの歌詞がさっぱりわからず、即興で日本語の歌詞を作って歌った。字余りになったり、支離滅裂になったりするので、いきおい熱唱系の歌い方になってしまったのだ。歌詞の詳細については記憶が定かじゃないけど、なにか国境について歌ったように思う。目が覚めた後にそれを思い出せないのが残念だ。
2月19日(日)
朝食、畑、昼食、お茶、スーパー、夕食という、我が家の典型的な休日。
畑では堆肥作りの作業をした。枯れ草と野菜くずと、米ぬかを重ねて、水をかけて熟成を待つ。これまでも何となくやっていたが、一部しか熟成していなかった。だから自分たちなりにもうちょっとちゃんとやってみることにした。
ど んなふうになるか楽しみだ。こういう自然が勝手になにか仕事をしてくれる感じが好きだ。かっこよく言うと自然との共同作業であり、かっこ悪く言うと、なん だろうな、微生物働いとるな、よしよしという上から目線である。他人が働いた成果を見て、さも自分がやったかのように悦に入りたいのである。
作業はほかに畝作り。これも好きだ。これはある種、自然破壊の楽しみである。雑草などが生えている土地を掘り返し、人工的に成形して畝にするのだ。おれの思いのままに自然の形を変えてやる、という上から目線である。
昼食はお好み焼き。最近は荒井由実の曲を聴いている。
2月20日(月)
うちのパソコンのCドライブが、いっぱいになりかけている。いらないものはほとんど消したのに、それでも空きが増えない。CCleanerというフリーソフトでクリーンアップすると、少し容量が空いた。
しかしパソコンめんどうくさい、と思う。たとえばノートに文章を書くなら気楽なのに、パソコンに打ち込もうとするとめんどうになるのはなぜか。
理由のひとつは、よそ行きに文章を直さないといけないことだ。これは読んでもらう人のためにやることなので、まあ手間がかかるのはわかる。自分が文章を書く 目的は誰かに見せるためだけではないけれど、それでも人に見せようとするのは、それが誰かの目にとまり、ちょっとでもその人の記憶に残ったらいいなと思う からだろう。
これは自分の体験や思ったことをシェアしたいという欲求。つまり、自分の分身を他人のフォルダに保存してもらいたいという、利己的な欲求だといえる。これをどうやってやるかというところに、表現者は工夫をこらしているのかもしれない。
2月21日(火)
身近な人にエネルギーを与えることは、自分のメリットにもなる。
2月22日(水)
欲しいのは自由度なのだろう。他人 が自由っぽく振舞っているのを見るとうらやましくなる。でもそのとき、その人を引きずり下ろそうとするのではなく、自分の自由度を上げるにはどうしたらいいかを考えないといけない。不平等を感知するセンサーが働いても、それを相手を下げる行動に結び付けてはいけない。それはスポーツの試合のようなゲームの中だけでいいと思う。
2月23日(木)
同居人は山が好きだ。昨日はNHKで冬の富士山に登るという番組を観たという。冬の富士山は風が恐ろしく強く、雪が積もった急斜面は滑落の危険も大きい。もちろんすごく寒い。
「いいなあ」と、同居人はそんな光景を見て感想をもらす。山の厳しさのようなものにあこがれているそうだ。家にいても寒がってるやん、 と突っ込むと、それとこれとは別で、「ああいう場所に行けるんやったら、死んでもまあしょうがないかって思える」のだそうだ。なるほど。
自分はそういうところに行って、死んでもしょうがないと思えるだろうか? 思えない気がする。少なくともいまの時点ではそう思っていない。寒いだろうな、怖いだろうな、死にたくないなというような気持ちを想像するばかりである。価値観の違いというものだろう。
夫婦とはいえ、他人なのだから価値観の違いはあって当然だ。こればっかりは譲れないとか、これをしなければ死んでも死に切れないということは、自分の価値観 を優先させる他はない。たとえば、2人でエベレストの登頂に挑戦して、リスクがあるなかアタックするかどうかという局面を迎えたら、意見が分かれる可能性 がある。彼女は死んでもいいから行きたいと言うかもしれないし、こっちは弱虫と言われてもいいから残りたいと言うかもしれない。
なんてことを、エベレスト山中のキャンプ地で判断を迫られても困ってしまうので、今ちょっと考えてみたのだった。
2月24日(金)
たとえば、客としてカスタマーセンターに何かを要求するとき、「あなたは○○担当なんだから、○○しなければいけない」というのではなく、「○○担当という 立場を生かして、○○をやってもらえないだろうか」と言う方がいい。組織よりも「その人」が上位である、ということを考えたい。そんなことを思った。
2月25日(土)
朝から雨だった。長岡京に行く前に、買い物をしたり古本屋に行ったりしようと思っていたが、雨の中歩くのは億劫で、結局、梅田でフルーツワインだけ買って出かける。
恒例のスツールでのお話会。今日のゲストは大仏プリンという店をやっている夫妻だった。話の前のまずプリンを食べて、となったが乳製品なので食べられなかっ た。でも2人の話はおもしろかった。もうだめだというくらいの苦しい生活から、プリンのヒットで今の状態になるまでのことをおもしろおかしく、 ちょっとしんみりもあったり、聞かせてくれた。自分で商売をやっている人の暮らしは、労働して賃金をもらっている今の自分とはまったく違う世界だ。人間と しての力が強いように思える。
「がんばっていると誰かが見ていてくれる」ということを力を入れて話されていた。がんばるとはなんだろう? ぼろぼろになるまでやる、みたいなこともひとつのがんばりかもしれないけど、「自分をベストの位置に置く」ということががんばるということなのかもしれないと最近は思う。
2月26日(日)
9時45分起床。昨日は寝るのが遅かった。朝食と洗濯。同居人がナスの種を植える。昼食はパスタ。その前にデザートで豆乳プリンを作った。どちらも昨日の会の話題の食べ物だ。食べられなかったのがよっぽど悔しいと見える。
午後からは畑。堆肥は20~30℃くらいには発熱しているよう。もっと高温にならないと虫や病原菌が死なないらしく、それはちょっと気がかりだけど、まあ自 分の畑に入れる分には問題ないだろう。発酵はしているようなので、どういうふうになるか楽しみだ。焼き芋もした。雨上がりで湿っているものが多かったが、 棕櫚の木の皮をはいでくべるとよく燃えた。焼き畑農業のように畑のあちこちで焚き火をして、できた灰が栄養になればいいなと思っている。
2月27日(月)
苦情を言うのは気が引ける。人に生身でぶつかることはできれば避けたいと思うからだ。そういうときは、こっちから別のものを提供する、というのが一つの解決策だろう。そうやって、ものづくりが始まるのかもしれない。
2月28日(火)
「旅が好き」というとき、それはどういうことなんだろう。移動するのが好きなのか、外国が好きなのか、おいしいものが好きなのか、為替レートの違いがうれしいのか、その全部のパッケージが好きなのか。
自由さが好きなのかもしれない。ではその自由さは何に支えられているのだろう。まずお金だ。お金は持ち運びしやすい。自分の労働を蓄えることができる。お金があるから仕事で稼いだ分を旅に使うことができる。そしてそのお金を他国の人もお金だと認めてくれていることが大事。もしお金に頼らず旅行しようとする と、たとえば自分の食料をすべて運ばなければならないし、燃料も移動に必要な分だけ積み込んでおかなければならない。
逆に考えると、お金をかけずに旅をするには、燃料(エネルギー)と食料が現地で調達できればいい。たとえば農場を巡って仕事をして、食料を分けてもらう。燃料もバイオマスなら分けてもらえるだろう。でも一定量以上は持ち運べないので、旅を続けるにはまた別の農地に移動していくことになる。そんな旅暮らしが可能だろうか?
そう考えるときに前提にしているのは、農家がそこにいてくれるということだ。農家の人が旅を始めてしまうと、農家がいなくなってしまう。旅する農家? それが遊牧民なのか。
2月29日(水)
いつも行っているカフェのコーヒー が、今日はおいしくなかった。サーバーに残り少なくなっていたコーヒーを無理やりいれた感がある。店員のそういう動きが垣間見えた。そのことを席に座ってから気がついたのだけど、これを店員に伝えるべきだろうか。伝えるべきだろう。でも面倒だ。店員のほうを見ると、忙しそうに働いていて、クレームを言うの は気が引ける。安いコーヒーだし、品質を求めるのは酷かもしれない。でもふだんは満足できる味なのだ。サービスの改善のためには伝えてあげるのが親切というものだろう……と葛藤しているうちに、店を出なければならない時刻になってしまい、結局、何も伝えられなかった。メモに書いて残せばよかったな。と、外に出た後、思った。