2013年5月の読書日記

53

街道をゆく 台湾紀行

台湾旅行を目前に控えて、関連の本を読んでみようと思って手に取ったのがこの本。「街道をゆく」シリーズの中の一冊だ。司馬遼太郎の本をちゃんと読んだのは初めてかもしれない。文章は淡々と、でも丁寧に積み重ねられているような印象で、いかにも原稿用紙に手書きという雰囲気がある。パソコンやワープロだと、例えば時系列が散らかったときに、後から編集して順番を入れ替えたりできるけど、手書きだとそうもいかない。どちらがよいということではないけれど、時系列がミックスされて前後する感じも、人間味が感じられる気がする。

台湾は終戦までの50年間、日本に占領されていた。この本の中で司馬氏が、執筆当時の台湾総統だった李登輝氏と話す場面がある。李登輝氏が言うには「宗主国は植民地に対して自国のいいところを見せたがる」。シンガポールに対する英国と同じように、台湾に対する日本もそうだったと。占領はもちろん悪い面がたくさんあったけど、台北で上下水道を完備するなど社会整備の面では功績も残したようだ。その動機が「ええかっこしい」だったというのは、気持ちとしてはちょっとわかる気がする。あと関係ないけど、オランダ人は17世紀頃は身長160センチくらいで、インドネシア占領後あたりから背が伸びたという話に驚く。けっこう最近急に大きくなったのか。

ゴールデンウィークは家でレンタルDVDを観て過ごすことが多い。ここ何年かはそんな感じだ。今回観たのはブラッドピット主演の映画「マネーボール」。野球のメジャーリーグのアスレチックスというチームを描いた実話に基づくストーリーだ。

アスレチックスは1試合勝つのに、ヤンキースなら1億4千万円使っているところを2600万円くらい、つまり1/5ほどの年棒しか選手に払えない。そこで、勝利に貢献する力があるのに評価されず年俸を低く抑えられている選手、つまりお買い得な選手を安い金額で集めるとういう戦略を考えた。

そのときに指標として使ったのが出塁率だ。攻撃では1つでも多く塁に出ること、守りでは1つでも多くのアウトを先に取ること、これが勝利に結びつくというデータがあるらしい。だから打者にはなるべく粘って四球を選ぶように指示し犠牲バントはさせない。守りではバントをされたら無理せず確実に1つアウトを取る。そういう作戦でシーズンを戦った。

この映画で描かれているのは、2001〜2002年シーズンの話。当時はまだ統計的データにもとづいたチーム編成やゲーム運びをすることは眉唾だと思われていて、実際、映画の中でもベテランのスカウトたちから猛反発を受ける。しかし主人公であるアスレチックスのGM、ビリービーンは、有名大学で経済学を学んだ補佐役(架空の設定らしい)とともに信念を貫き、その有効性がメジャーリーグ全体に知れ渡るほどの結果を残した。

最近では打者を評価するのに、出塁率に長打率を加えたOPSというデータもしばしば目にする。「いかに27個のアウトを取るか」のようなことを日本のプロ野球の監督が口にするのを聞いたこともある。統計に頼るというのは無味乾燥なイメージもあるけど、より勝利に貢献できる選手を捜したいという動機にもとづいているし、実際そういうタイプの選手に注目が集まる方が試合がおもしろくなるような気もする。ホームランを何本打つか、打率は何割かという野球から、いかに勝ちにつなげるかという野球になるのは悪い変化ではないように思う。チームが真剣に勝利を目指すというのがスポーツの肝だからだ。

GMの意向で簡単にクビにされてしまう選手や、采配を左右されてしまう監督という立場も改めてよくわかった。ふと思ったけど、大量に新人を確保し、競争させてふるいにかけ、生き残った人にだけ高給を払うという仕組みは、いわゆるブラック企業のやり方なんじゃないだろうか。ブラック企業というか、グローバル企業と似ている。プロスポーツのような仕組みを取り入れて繁栄しようとしているのがグローバル企業なのかもしれない。逆にメジャーリーグのチームは大企業がやりそうなデータ分析を積極的に取り入れ始めている、というのも興味深く思える。

57

ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪

30歳くらいとまだ若い著者の今野さんは、Posseという労働相談を受けるNPOを設立し、法律を学んだバックボーンを生かして労働問題に取り組んでいる。この本では、ブラック企業の問題点が実例をまじえて鋭く指摘されている。

今野さんが主張しているのは、ブラック企業というのは個別の企業や個別の労働者の問題ではなく、社会問題なのだという点だ。今野さんの定義によると、ブラック企業問題とは、企業による大量採用と大量解雇(見かけ上は離職)によって、若者が使い潰されている問題である。このことは社会にダメージを与えている。逆に言うと、ブラック企業は社会の資源を食い尽くしながら自らを成長させているともいえる。だから若者が社会の公正なルールを守るべく企業に立ち向かうことは、長い目で見ると世の中全体のためになるはずなのだ。

ブラック企業で働く人は自分が悪いと思い込まず、外部のユニオンやNPOの力を借りるなどして、戦略的に公正さを求めていくことが大切だ。なぜならブラック企業は戦略的に若者を使い潰すことで成長しようとしているわけで、それに対抗するには労働者も戦略的にいかなければならない。

また、どんな会社も状況が変わればブラック企業になり得る。実際そうなった会社の実例も挙げられていた。だからブラック企業から逃げることも大事だけど、ブラック企業そのものを変えていくべきだと今野さんは言う。ブラック企業は大量の精神疾患者を生んでいるが、その医療費は国民の保険料で賄われている。本来は労災というべき状況なのに、そのコストを企業は負担していない。こういう点がブラック企業はフリーライダーだといわれる所以だ。

たしかに、ブラック企業は医療費だけじゃなく、これまで日本が作ってきた企業文化や忠誠心などにもつけ込んで、より安くより多く働かせるという構図を作っているのかもしれない。信頼関係というものを食いつぶしているようにも思える。「ブラック企業問題の本質は企業への信頼の喪失である」という著者の指摘は、たしかにその通りかもしれない。自分の感覚でも「企業」と聞いてイメージする信頼感は以前より少なくなっているように感じる。

たぶん具体的には「知ること」がまず大事なのだろう。目を背けず自分の目で見てしっかり知ること、それが世の中をまっとうなものにすることの第一歩のような気がする。

58

コーチング入門

コーチングと聞くと、何となく人をコントロールするような印象があってちょっとうさんくさく思っていたけど、自分も他の人を指導するような機会が出てきていろいろ考えることが多くなってきたので、この本を手に取ってみた。コーチングとはつまり、個人のやる気や能力、自発性を引き出すことであり、そのためには傾聴、質問、承認の3つのスキルがあるという。

自分もどうすれば経験の浅い同僚の能力を引き出し、責任を持って仕事を進めてもらえるかを考えている。仕事を任せられるともちろんこちらも助かるし、本人の能力をアップさせることにもつながる。そういう循環が生まれると、生き生きと仕事ができるんじゃないだろうか。

でも、責任を持って、というところが難しい。責任を実感してもらうにはまとまった仕事を任せることが一番だけど、そうすればもし失敗があった場合、顧客や同僚に迷惑をかけることにもなる。小さな組織なので信頼関係を損なうようなことがあれば、命取りになるかもしれない。(まあそうなったらそうなったときだけど)。だからといって、細々と確認やアドバイスをしていては指示を待つことになるし、その人だけにOKがもらえらばいいと考えて、広い視野で見るという習慣にならない。このあたりのバランスが難しい。

最終段階だけ目を配るというやり方もあるけど、一番大事なのは最初のステップなのである。ここを間違えると軌道修正するのに時間がかかるし、周りに与えるダメージも大きい。また、完成度の低いものを手にすると拒否感を示す人もいる。チームや組織の枠を越えて、全体で人を育てるのだという認識が共有されていることが重要なのかもしれない。つまり、一緒にやっているという一体感が大事なのだろう。

59

コミュニティデザインの時代 - 自分たちで「まち」をつくる

要は人間関係が問題なんじゃないか、と思うことがよくある。慣習やしがらみによって、円滑なコミュニケーションが取れない。つまり腹を割った話ができないために、雰囲気が悪くなったり、物事が進まなかったり、思ったことが実行できなかったりする。そういうバリアを取っ払う方法はないんだろうか。

実際、ふとしたことで人間関係に風穴が開いたときは、とても清々しい気分になる。でも中にいる人には風穴を開けづらいものだ。ずっとこのやり方でやってきているとか、ずっと仲が悪いとか、そんな固定された関係をある日突然ブレイクするにはかなりの勇気がいる。気恥ずかしいし相手にされなかったときのダメージも怖い。やっぱり今まで通りにやったほうがいいな。そう考えてなかなか実行することはできない。

そんなところに外部から風穴を開けて、物事をうまく回るようにする仕事。それがコミュニティデザインなのだと思う。コミュニティデザインの第一人者と言われる著者の山崎さんも「よそ者」であることを強く意識している。

最初はコミュニティなんて気持ち悪いと思っていたそうだ。建築の分野で仕事をしていた山崎さんにとって、ハードで解決策を考えるのが王道であり、ソフトのことを言うのはうさん臭く感じていた。しかしソフトを交えた仕事を手がけるうち、考え方が変わってくる。ワークショップというスタイルをうまく使えば、住民ならではの視点や意見を知ることができ、公共物の建築に生かせることを実感したのだ。それだけではなくて、例えば公園の場合、できた後の使い方も含めて始めから住民主導で話し合えば、公園完成後も自律的な仕組みができる。そういうところからコミュニティデザインという仕事が始まったそうだ。

メモ

・つながりとしがらみの良いバランスを探す

・つながりとは貸し借りのことである

・最終的には自分の仕事がなくなればいい

・ヒアリングで聞くこと:どんな活動をしているのか? 困っていることは何か? 興味深い人を紹介してくれないか?

・話し合いのルール:意見を否定しない、実現可能性を問わない、質より量、話し合い自体を楽しむ、ひとりで長くしゃべらない

・話し合いの手法:ブレスト、KJ法、ワールドカフェ、マインドマップ、バックキャスティング、プロトタイピング、シークレットフレンド

・誰が本当に頼りになるかは、グループでもめたときや、存続が危うくなったときにわかる

・出てきた意見に少しアイデアを加えて投げ返す

・たくさんの事例を知っていることが重要

・集落では議論しても決まらないとき、部外者を登場させて意思決定した

60

15歳からのファイナンス理論入門

ラジオ番組で紹介されていたのだけど、この本の著者の慎さんは社会貢献のためにまずお金の理論を学ぼうと思ったそうだ。この本を手に取ったのはそのへんにピンと来たからかもしれない。お金の仕組みには何か根源的なものがありそうだし、交換のための便利なツール以上の何かであると思っている。前に「エンデの遺言

」という本を読んだときも、そういう視点で理解が深まったような気がした。

でもお金が悪の根源だと言ってみたところで、現実に今の世の中にはお金があり、それで世の中のある部分(大部分?)が回っている。生きていくにはお金とうまく付き合っていかないといけない。そんな動機が潜在的にあって、この本を手に取ったのだと思う。

この本に書いてあるのは「ファイナンス理論」とは何かということだ。ファイナンスというのは実はお金の話ではなく「不確かさ」、つまりリスクとどう付き合っていけばいいのか、ということを考えた理論なのである。確かにお金が欲しい、お金を貯めたいと思うのは、将来の不確かさを少しでも減らしたいという気持ちから来ているように思う。自分も含めて、たいていの人はその不確かさを恐れて生きているのだ。それがわかっただけでもこの本を読んだ価値があると思った。

内容から触発されて考えたのは、主観と客観について。もし自分が欲しいものが完全に主観にもとづくものだったら、そこには何の理論も法則もない。理論はその人の中にしかなく、自分の気持ちに素直になればそれでいいのだ。問題は客観的な価値を得たいと思った場合。つまりお金や名声という客観的に価値があるものは、皆が欲しい。だから他人より多く価値を得たければ、リスクを取らなければならない。多くの人が避けようとするリスクをあえて取ることで、ユニークな存在になり、価値を得られる可能性が高まる。出る杭は打たれるという諺があるけど、これはリスクを取って価値を得ようとする人に、価値を渡すまいとする抵抗のことかもしれない。

いや、そんなことが言いたいんじゃなかった。自分が思ったのは、だから主観的な価値をもっと大事にしたらいいんじゃないかということだった。その方が生きやすそうな気がする。とはいえ客観的な価値も少しは必要なので、この本に書いてあるようなリスクを分散すること、リスクとリターンの関係を知ること、埋没費用に気を取られないことなどを頭の片隅に置いて、足下をすくわれないようにして生きていけばいいんじゃないだろうか。まあ、そろそろ何かリスクを取らなければいけないような気がしているのも確かだけど。

61

ぼくらの文章教室

文章教室っていうタイトルだけど、文章の技法を教える本ではない。うまい文章を書くコツのようなものが書かれているわけでもない。高橋源一郎さんが「何かある」と思った文章を取り上げ、それを読み、それについて考えるという内容だ。その文章にはいったい「何が」あるのだろうか。

取り上げられているのは有名な文書もあれば、全くの素人が書いたものもある。原文が外国語のものもあれば、日本語の文章として破綻しているように見えるものもある。でもその文章には何かがあるのだ。高橋源一郎さんはそれを感じている。だからその文章を取り上げ、その理由を掘り下げていき、そこから見えてくるものに光を当てる。それは例えば、一生で一度だけ文章を書いた老女のものだったり、初めてお金をもらう仕事をしたイタリアの少年の日記であったり、スティーブジョブスの講演であったりする。

そして高橋源一郎さん、というか、「僕ら」はひとつの結論に達する。それは自分を見つめるということだ。自分を見つめる視線が客観的であり、そして深いこと。そういう視線で書かれた文章に「何か」があるのだ。良い本とは、まるで読んでいる自分のために書かれているように感じると高橋源一郎さんはいうけれど、まさにこの本は自分のために何かを言ってくれているような本だと思った。

メモ:

・男の文章は「生きる」ことから目を背けている

・人間的な自由への道と、社会や世間が用意してくれている道。その両方を手にするために、ことばがあるんじゃないか。

・特殊な体験をしていないぼくらは文章を書けない? そんなことはない

・まずひとつでいいから、自分の知っているもの、そして同時に誰でも知っているもの。そこから初めてみてはどうだろうか