2013年1月

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10時ごろ起床。昨晩は3時ごろに寝たのだった。昼過ぎまでおせちとお雑煮を食べたりしていて、そのあと父とFとで散歩に行く。タンゴ山へ向かって歩く。町なかにある大きな神社のほうへ行こうかと迷ったが、自然のある道を選んだ。夕食に食べたものも含めて、去年と同じような元旦の一日。

夜は家族みんなで黒ひげ危機一髪をしたあと、子どものときよく遊んでいた「日本特急列車の旅」のボードゲームをやる。みんな熱中し盛り上がる。当時の特急列車は種類も多く、プレートのデザインもキュートでおもしろい。

2

Fの実家に行く。夜NHKでやっていた「おとなのピタゴラスイッチ」と、日本の歴史を歌と踊りで表現する番組を観る。後者は中村獅童が演じているのだが、くだらない感じがおもしろく、ついつい長く観てしまった。

テレビがつまらなくなったというけれど、くだらなくなったわけではなく、むしろくだらなさが減ってきていたのではないだろうか。予定調和で、いかにも意味ありげなものはつまらない。でも、しっかりとくだらないことをやってるものは、ウェルカムだ。そんなことを思った。

3

浜松の親戚の家に向かう。伊勢湾岸の工業地帯はすごい。高速道路の大きな橋が連続する感じもすごい。

Fの親戚はみな「~ちゃん」とか「~くん」とかいう呼び名で、年齢とか関係とかが名前だけではわからない。曾祖母にあたる人が「ばーばー」と呼ばれていて、その当時の家計図から時間が止まっているような感じだ。核家族化したとは、こういうことなのかもしれない。

夕食をごちそうになった家では室内で犬を飼っている。これまで自分は犬はもとより動物は飼ったことはないけれど、その犬の目を間近で見ていると人間のようで、なるほど犬を飼う人の気持ちも少しわかったような気がした。

4

宿泊した森林公園のなかにバードセンターだったか、ビジターセンターだったか、そういう施設があり、森の自然が好きなFとF父は、そこのデッキから双眼鏡で野鳥を眺めることの熱中していた。その間、寒いので自分はさりげなくスクワットをして体を温める。

寒くて、しかも暖房の効いた場所に移動するという選択肢がない場合、体を動かして温まるしかない。ダッシュを何本か走れば、いやおうなく体は温まる。そういう場所と適切な服装と人目を気にしない度胸があれば、という話だけど。

スクワットばかりしているのも怪しいので、備え付けの望遠鏡を覗いてみたら、遠くの木々までくっきり見えた。すごい。これほど見えるなら、バードウォッチングにはまる人の気持ちもわかる気がした。

昼食に浜松名物のうなぎを食べる。Fはずっとうなぎが食べたかったと言って、おいしそうに食べていた。自分はなんとなく牡蠣フライを選んで食べる。

午後は秋野不矩美術館に行く。秋野不矩はインドの絵が多い画家だとわかった。もう亡くなっているが晩年の活動が盛んで、90歳を過ぎてから初めてアフリカに行ったりしている。たしかインドに渡ったのも59歳だかそんな時期で、その歳で、ようやくキャリアの年表の中では半分くらいの位置だった。普通の人ならリタイヤするような歳だろう。

5

Fのおばさん、というか、おばあさんの妹にあたる人が入院しているのでお見舞い。Fにとってはおばあさんのような存在だったそうだ。退屈でしょう?と言われたので「そんなことないです」と返す。時計が動かなくなっていたので、病院内のコンビニで電池を買ってきて交換する。自分にできること はこれくらいだ。Fは病院の対応に少し疑問を持ったようだ。帰りは自分も車を運転して、Fの実家に戻る。

NHKで「アイカーリー(iCarly)」というアメリカのコメディをやっていて、これも軽くてくだらない感じが笑えた。若い子たちが自宅でネット番組を配信するという設定が今っぽいけど、やってることのくだらなさは、昔ながらのコメディという感じ。というか、自分たちで番組を作ってネットで流す、という話をテレビでやってるということ自体も興味深い。

6

久しぶりの我が家。朝はFが白味噌のお雑煮を作る。その後、畑へ。米ぬかを畑に撒いたりすき込んだりする。うちの畑でうまく育たない作物は、おそらく肥料不足であろう。そう思って、米ぬかを入れる。Fと自分との間で、畑の役割分担をするとしたら、土作りを担当したい。堆肥を作ったり、土に有機物を混ぜ込んで微生物に分解させたり、という作業が好きだ。なぜ好きかはよくわからん。

昼食に近所にある和食屋さんに行く。ここ1年以内くらいにオープンした店で、夫婦でやっているこじんまりした店だ。初めて中に入ったが、天井が高く、木材が多く使われた空間で、そのいい感じな内装を見ただけで、自分の中では料理も何も全部褒めるモードになった。もちろん実際に食べ物はおいしく、器もオリジナリティーがあって良いと思った。

7

無事に1日を過ごせたことに感謝する、みたいなことが、最近はリアルに実感できることもある。そのためには、ある程度の不幸なことが必要なのかもしれない。

世界しあわせ紀行

」という本を読んでいる。アメリカのジャーナリストが「幸福とは何か?」を探るため、各国を巡り歩く紀行文。まだ途中、ブータンのところまでしか読んでいないけど、人の生死を超えたところに価値観を持つというのは、ずいぶんと生き方を楽にしてくれるんじゃないかと思う。「自分は幸せだろうか?」という質問を超越するというのが、実は幸せの秘訣なんじゃないだろうか。

できること、やれることはすべてやった。そういう境地にはきっと自分はたどり着けないだろう。そこそこ何かをがんばったときでも、本当はもっとやれたんだろうなと思ってしまう。全力を出す、みたいなところを基準にすると、いつまでたっても後悔の念がくっついてくる。そういう意味でも「これでいいのだ」というブータンの考えは、なるほどなあと思うのだ。この本にも、前に読んだ本

にも、ブータンについて「これでいいのだ」というキーワードが出てきていて、この心構えがブータンを象徴しているのかもしれない。


8

夕食後に、このまえ名古屋近辺のサービスエリアで買ってきた「みそまん」を食べるとおいしかった。みそまんについては、そこで買う前にも、浜松あたりの下道を走っているときにも購入して食べた。車を運転してたFが「あっ」と言って、道端に車を停めたかと思うと、車を降り、数十メートル通り過ぎた小さな和菓子屋に小走りに走っていったのだった。静けさとともに助手席に残された自分。窓の外を見ると「出入り口につき、駐車厳禁」の張り紙。

9

家事手伝いとして苦節4年。ついに食器を音を立てずにテーブルに置くコツをつかんだ。ガチャガチャと音を立ててはうるさいし、食器にもよくないから、できるだけそおっと置くようにしていたのだけど、いくら慎重に置こうとしても、音が出るときには出てしまうのだ。

そのコツとは…というところでいったんCMでも入れたいところだがとくにスポンサーもないのでそのまま続けると、カンタンなことで、食器を少し傾けて、斜めにした底面の一部から着地させればよかったのだ。平行に着地させようとするとうまくコントロールが効かず、意図せぬ部分が先にテーブルに当たって、耳障りな音がしてしまう。落とすエッジを先に決めてしまえば、うまくコントロールできるのだ。って、自分としては大発見なのだが、そんなことは常識なのかもしれない。

「ついにコツをつかんだ」とFに報告すると、「あ、そう。指を挟んで置けとかよく言うね」とのこと。指を挟めばそれがクッションになるし、食器も自動的に斜めに着地する。なるほど…。というかそれを早く教えておいて欲しかった。

家事手伝いとして他にも驚いたことをついでに言うと、それは裏返しになったゴム手袋を元に戻す方法。普通にやると指のところを1本1本裏返していくのが面倒なのだが、手袋の中に空気を入れて、手首のところをぎゅっと握って風船のようにし、指先部分に空気を送り込むと、ピョンピョンピョンって感じで、指が伸びる。おお大発見。ってこれも常識なのかもしれない。

10

ひねり屋

」という本を読んだ。京都のメリーゴーランドという本屋の店長さんが薦めていた本だ。

アメリカ人の作家が書いた子供向けの小説。アメリカのとある町で毎年鳩撃ち大会が行われ、町の子どもは10歳になると「ひねり屋」と言われる、死に損なった鳩の首を折って絶命させるという役目を手伝うことになっている。主人公の少年はそのことに疑問を感じていて、しかもあるとき自分の家に飛んできた鳩を飼うことになってしまう。その鳩に愛情を抱いた少年は、刻々と近づいてくる鳩撃ち大会に向けてどういう行動をとるのか…というような話。

仲間、とくに鳩撃ちを信奉しているガキ大将らとの関係をめぐる葛藤、同じく鳩を好きになったドロシーという女の子との関係、まあそんなことが描かれていて、自分の子どものころを思い出しながら、主人公目線でこの本を読んだ。薦めてくれた人の話によると、親になるとまた違った目線で読むことができておもしろいのだそうだ。

でも男の子としてはやっぱり、男の子社会の中のヒエラルキーというか、上下関係みたいなものについて考えさせられる。女の子社会もそうかもしれないけど、男の子社会の中には上下関係みたいなものが常にあって、大人になってからもそれを意識している人が多い気がする。だから反対に、年齢や立場が違ってもフラットな感じで接してくれる人には、心安らぐ感じがする。

一方で例えば同年代の人と初めて知り合いになったような場合、上下関係が定まらない感じで、落ち着かなさを覚えたりする。自分が何か見定めされようとしているんじゃないかという不安を感じるし、それは自分も同じようなことを思っているということの裏返しかもしれない。煮え切らないというか、子供っぽいというかそんな関係に、ぐさりと1本釘を打ち込んでくるのが、この本のドロシーのような女の子の存在なんだろう。


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Fと去年読んだ本のベスト5について語った。傾向とすれば、今後の自分たちの暮らし方に関係しそうな本、プラス宮田珠己さんや岸本佐知子さん的な、おもしろおかしく、ウィットのある本。そういうのを好んで読んでいる。つまり自分たちはそういう生き方をしたいというわけだ。加えて自分は、哲学的な本や経済的な本に手を出している。まあ、そういう方面に興味があるということなのだろう。

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Fの実家の車を借りて、三重の津へ。もっと遠いと思っていたけど、2時間弱くらいで着いた。新名神ができて近くなったようだ。行きはFが運転。途中でトイレに行きたくなって、次のサービスエリアで止まってもらうように頼み、カーナビに表示されているその到着時刻を目標に心の準備、というか尿意のコントロールをしてたところ、あやうくFがそこを通り過ぎようとしたので焦る。寸でのところで、うまくサービスエリアに入ることができ事なきを得たが、トイレについては早めに気を緩めてはいけない。

Fがあーさんにメールで昼食におすすめの場所はないかと聞く。忙しいかもしれないのにそんなこと聞いて、と思うが、Fにとっては何を食べるかというのは何より重要なことなのだ。あーさんは快く、うなぎが有名ということと、店の名前も教えてくれた。

津はうなぎどころというのは知らなかったけど、食べてみると、焼き具合がパリッとしていて、この前浜松で食べたのとも違った味わいだった。うなぎは値上がりしたということがニュースなどで話題になっていたけど、昨年の夏ごろから、また少し下がったようで、店もほぼ満席くらいに賑わっていた。道中、車窓から見えたうなぎ屋にも行列ができていて、そのときは窓を開けて、煙のにおいだけ嗅いだのだった。

本題の講演会は、伊勢神宮についてディープな話をする2人の学者さんと、それについては全然詳しくないあーさん、という謎の組み合わせ。なぜ伊勢に神宮が置かれたのかという謎について、「おいしいものがたくさんあったから、神様も喜んだんじゃないですか」とか、伊勢の謎が最近になっていろいろ出てきているのは「昔はただそこにあるから祈っていたものが、だんだん西洋化されてきて、ロジカルにものを考えるようになったからじゃないか」とか、あーさんの自分の感覚を失わずに話す態度が印象的で、実際、その発言は的を射ていると思った。あとあと聞いてみると、2人の学者さんの間にも、保守的な伊勢神宮に新説をぶつけるという攻防があったようで、そこのポイントが事前にわかっていれば、もっとおもしろかっただろう。

懇親会は場違いじゃないかと心配していたが、いろんな人と話ができてよかった。Fといっしょに「くらりょこ」の名刺を渡していたが、自分は自分で、仕事の名刺を渡してもよかったかもしれない。英文コピーの仕事や、グローバル・ボイスでの活動の話からも、何かつながる可能性があったかもしれない。

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いくら有名な人であっても、話してみると普通だったりする。文章表現がすごい人でも、会話している限りは、とくにすごいことを言ったりするわけではない。

たいしたことない、という話では全然なくて、会話で話す内容と文章として考える内容は違うということ。文章を書くと、会話ではたどりつけない何かにアクセスできる気がする。文章じゃなくても創作物の中で語られている内容は、日常会話で語られている内容とは違う。だから人は文章を読んだり、何かを鑑賞したりするのだろう。

今日は午後から、Fの妹家族の家でしし鍋パーティ。Fは別の友達も親子も誘っていて、同じ年頃の子どもがいる妹の家族と対面させようという作戦だったけど、日程が間違って伝わっていて、残念ながら不参加。今回は空振りだったが、Fはこういうことを自然にやるのでまた何か企画するだろう。

自分もそれを見習って、この前、高校の同級生から飲みに誘われたとき、大学の友人夫妻も合流させようかと提案してみた。が、それはちょっと微妙そうな反応だったので、取りやめた。人と人が出会うというのは、なかなか一筋縄ではいかない。歳をとればとるほど、なんだろうか。

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雨。朝遅い時刻まで起きられなかった。ほぼ一日中、家の中にいて日記を書いたりする。書けば書くほど、書いてなかったことが気になってくる。ああいう風に書いたけど、ほんとはもっと違う感覚だったんじゃないか、とか、そういう思いが頭の中に渦巻く‥‥という表現も、実際の状態とはちょっと違うのかもしれない。

Fと去年読んだ本についてしゃべった内容を文字化してアップした。本についての印象というのは、人によって違う。こういう話だと理解しているストーリーでさえ違う。「さよならクリストファー・ロビン

」はある人からストーリーを聞いておもしろそうだと思って読んでみたのだけど、そのときイメージしていたストーリーと読んでみるとちょっと違った。どのように説明されたかは覚えていないけど、自分の頭の中に入るときに何かが変換されたのかもしれない。「ひねり屋

」も同じく聞いたのと違うと感じる部分があった。本を読んでそれが記憶され、それを話し、誰かが受け取るという過程で、いろんな変化が起こるのだろう。そんなことを楽しむコンテンツがこれ

」を読む。岸本佐知子さんのエッセーは、もう安定しておもしろい。意外な展開が安定しているというか、現実のあるあるそういうことっていう話から、気がつけば、いつの間にか話が空想に飛んでいる。

いや、いつの間にか、ってことなないはずだ。どこかに転換の言葉があるはず。

例えば気に入った話のひとつ、相撲の立ち合いの「変化」という言葉が可笑しいというエッセー。岸本さんは「立ち合いと同時に変化しました」という実況を聞くと、力士が立ち合いをした瞬間、何か別のものに変化してしまう様子を想像するのだそうだ。緑色に変化したり、翼が生えたりしたらどうだろう? そんな想像が笑える。

そしてそれに続く「あるいは、それはもっと内面的な変化なのかもしれない」という文によって、空想方向へのスイッチが押される。立ち合いの瞬間、ふと「オレは何をやっているのだろう」と思う力士。そこから空想がふくらみ、ファンタジックな展開になるのだけれど、しかし考えてみれば、オレは何をやっているのだろう?みたいなことを思うのはすごくリアルだ。そんなこと考える力士、いそうな気がする。すごくリアルなことに触れると空想のスイッチが入るというのは、なんだかおもしろい。


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最近は朝なかなか起きられない。早起きして朝の時間を使って何かしたい、何か有意義なことをすべきだ、そう思っているのに、まったく起きられない。いや、いったん目が覚めるのだけど、そこで布団から出られず、30分くらい経ってしまう。

うーむ。すべては惰性なのだ。将来に向けてやるべきこととか、いくら頭で考えても惰性に流されて、結局何もせぬまま時が流れる。時間とはつまり惰性なのである。自分でも何言ってるかよくわからん。

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フェルマーの最終定理

」を読み出したらおもしろかった。数学の狭い世界の話だろうと思っていたけど、ピタゴラスの時代から今に続く歴史や、フェルマーの問いを巡る人間ドラマが描かれていて、引き込まれてしまった。

何より興味を引かれるのは、数学は「真理」に到達できる唯一のものだということ。そこが科学とは大きく違う。科学は仮説を立て、実験や観察を繰り返して、その確からしさを高めていく。一度定説になったものが、別の理論の登場によって、覆されてしまうこともよくある。でも数学は違う。いったん数学的に証明されれば、それは永遠に揺るがない。

そこに魅せられた人が、古くから数学にはまっていった。哲学と数学が近しいのも、真理を追究するという点で、目的が同じだからだろう。そんな人たちが寄ってたかっても解けなかった問題が、このフェルマーの最終定理だ。それを2000何年だったか、ある数学者がついに証明に成功した。

その話がドキュメンタリーとしてこの本に描かれている。いったん証明したと公衆の前で発表して喝采を浴びたものの。実はそこに欠陥があったことが後に発見されて‥‥というドラマもある。

Fにこのフェルマーの最終定理の話をしてみたところ、最初は「何がおもしろいん、それ」という反応だったが、昔から続いている問題を現代の人がついに解いたという話だとわかると、「それを早く言ってよ。ただ昔の話をしてるだけかと思ったわ」とのこと。自分との接点というか、シェアできるものがあることが、人が他人の話を面白いと思うかどうかのポイントなのだろう。

先日、三重に行ったとき、歴史がすごく好きで大学に入り直して今に至る、という人がいたけど、たしかに古い時代の人と何かシェアできるものがあれば、歴史への関心が高まる。

自分はあまり歴史に興味がないほうだけど、前に姫路城に行って、城から外に出る石段を下っているときに、当時の武士みたいな人もこの階段を下ったんだろうなあという感慨が湧いた。「いくさ!? まじで? 超いやなんだけど」みたいなことを思いながら、しぶしぶ石段を駆け下った武士もいたかもしれない。そんなふうに、過去の人の中に自分を発見すると(っても想像だけど)、歴史の味わいというのも少しわかる気がする。

現代の数学者たちも、きっとフェルマーやピタゴラスと同じものをシェアしているのだと思う。普通の人が思う「過去の人」とは違うのだ。


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「自分ばっかりいいこと書いてる」とFが言う。この日記のことだ。ん、どこが? そんなつもりはないけど?

「三重に行く途中にあーさんにメールしたとこ、なんか私だけ空気読めない人みたいやん。実際メールしたんは私じゃないし」

たしかにFが車を運転していたので、Fに成り代わって僕がメールを書いたのだった。内心迷惑なんちゃうかなと思いながら‥‥。

「そう。そういうふうにちゃんと書いてよ。メールするの気が進まない感じなのもわかってたわ」

結果として、先方は快くおすすめの食事どころを教えてくれて、メールしてよかったのだった。さすがF、すばらしい直感と積極性とコミュニケーション能力だ、ということをさりげなく表現してたつもりだったけど、伝わってなかっ‥‥

「それに」

まだある。

「あのゴム手袋を裏返す方法、自分で見つけたみたいに書いてあったけど、あれ私が教えたんやから」

そのとおりです。そう書いてなかったっけ?

「おお大発見、とか書いてあったやん」

たしかに。文脈的にFに教わったというのは自明かと思ったが、そうでもなかったか。じゃ、あれFが発見したわけ?

「うーん、私も誰かから聞いたんかもしれんけど」と、まあ発見者は定かじゃないけど、とにかく文章はすべてを伝えきれるものではないのである。

ということで、身内のクレームに対応しただけで日記が1日分書けた。こんな手があったか。おお大発見、ってそれはもういいか。

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昨日の日記はちょっと身内のことを書きすぎたかもしれない。身内のことを書くとどうして人に読んでもらえないかというと、身びいきしてしまうからだ。評価が甘くなって情報として正確じゃなくなる。だから読む人にとっては信用できない。そうならないようにするためには、その身内が身内じゃなくなっても同じことが言えるだろうか? と考えてみるといいのだろうと思う。

このあいだ読んだ高橋源一郎の「さよならクリストファー・ロビン

」の中に、父と子の話があって、子が父に「僕と、もう1人お父さんの子どもじゃない僕がいたら、どっちの僕も同じように好き?」というように訊ねる場面があった。父が何と答えたかは忘れたけど、これも同じようなことを問うているのかもしれない。

この「身内」を「自分」に置き換えたらどうなるのだろう。自分のことばかり言ってると他人にいやがられる。言おうとしている自分のことが、自分のことじゃなくなっても、同じことが言えるだろうか?

例えば自分が発見したことを、他人が「それを発見したのは私だ」と言ったなら、穏やかじゃない。事実と違うからだ。でも自分が感じたことと同じことを他人が感じていた場合、たいていうれしくなる。そういう共感の可能性を探る「自分ごと」はアリなのだ。

って、何でこんなことを考えているかというと、自分のことばかり書いていることが不安だからだろう。誰かが自分事ばかり書いている文章を読めなかった経験が自分にもある。一方で読めるものもある。だからその違いを探りたいわけだ。

「共感を探る姿勢がある場合」はOK。おれの考えを受け入れろ的な態度があるときはNG。それが今日の結論。まあ、つまりは自慢しちゃいけないよということかもしれない。

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俯瞰して統計的なことを調べれば、確率的なことはわかるかもしれない。でもそれが自分にあてはまるかはわからない。あてはまらなかったとき、でも統計的に判断したから後悔なしってことになるんだろうか。ならない気がする。統計的な判断の難しさはこのへんにあるんじゃないかと思う。

友人宅で鍋パーティ。帰りにiPad miniを見に電器店に行こうと思ったが、もう閉まったところだった。欲しいのがiPad→iPod touchときて、今はiPad miniに狙いが移ってきたが、それも危うい気がする。靴下とパンツを買って帰る。ちょっといい靴下を買った。

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朝食にパンケーキ。休みの日の朝食はいちばん穏やかな気分になれるときだ。すべてが穏やかに進むなら何も恐れることはない。そんな気がする。恐れているのは物事の結果じゃなくて、穏やかじゃないことが起こることなのだろう。

畑に行く。家を出る前は寒いし面倒だなと思うのだけど、それでも自転車に乗って畑に行って、作業をしていると楽しくなってくる。体を動かすと思ったより寒くないし。今日は天気も穏やかで、狭い小屋でコーヒーを飲みながら畑を見ていると、満ち足りた気分になる。

自分の好きな堆肥の切り返し作業や、1ヶ月後に作物を植える予定の畝に堆肥をすき込んだりする。Itamiさんが赤目の自然農を見に行ったということでブログにレポートしていた。耕さないという特徴が有名な農法だ。一瞬うちも耕さない農法でやってみたらどうかと思ったが、やっぱり耕して堆肥を入れることにした。「採れるようになるには何年もかかるらしいで」とFも言う。堆肥を入れることで自然農っぽい土の状態になるんじゃないかと、自分の理解ではそう思っている。Fは旧小屋を解体して温床にすることを思いついた。その作業をしていたら昼をとっくに過ぎてしまった。

地域のとんど焼きに参加。地域と言っても住んでいる町内ではなく、畑のある地区の催し。手伝いなど参加していないのでちょっと申し訳ないのだけど、Fの同僚(つまり畑のおじさんたち)が「来てやー」と言ってくれるので、遠慮なく参加している。しかも今年は年男ということで、点火役もやらせてもらった。

稲わらや笹をくみ上げた物体(なんていうんだ?)は、高さ10メートルくらいはあるだろうか。消防車も待機するくらいの迫力だ。燃え上がっているとき、その塔全体がこっちに向かって倒れてきそうな錯覚があってちょっと怖かった。去年より規模が大きくなっている。干支にちなんでヤマタノオロチを模した物体(なんていうんだ?)も燃やされた。去年は辰ということでゴジラだった。豚汁にお酒もいただく。自分も今年は何かに火がつくだろうか。自分のおしりに火をつけろ、という話かもしれない。

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読んでいる「世界しあわせ紀行

」が佳境に入ってきた。タイの章には「しあわせとは考えないこと」というタイトルがつけられている。考えすぎちゃダメよ、マイペンライが幸せの秘訣、みたいな話だ。

それを言っては元も子もないような気分になって、はたと気がづかされる。自分はつまり「考えた上での幸せ」を求めているのだと。何も考えないという幸せは眼中にないのだ。いや眼中にはあっても、好ましいと思っていない。何も考えず、例えばドラッグを使ってハッピーになるということを目指しているわけじゃない。ある程度、考えた上で、これが幸せなのだというものを探している。それは筆者のエリック・ワイナーも同じだ。

なぜ「考えた上での」幸せを求めるのだろうか? 優越感みたいなものとリンクしている? より優れているとみなされた上で幸せになりたい? より優れている=幸せ? これはちょっと違う。でもたぶん密接だ。より優れているだけでは幸せな気分になれない。それを他人に認められることが必要で、そこで起こるコミュニケーションが重要。つまり承認欲求みたいなもの? わからなくなってきた。

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「アベノミクスって何?」とFが聞く。

「えっと、それは安倍首相がやろうとしている経済対策のことで……」

「天王寺にできたショッピングセンターか何かかと思ったわ」「で、何なんそれ?」

「物価が上がるっていうことを約束して景気をよくして、こう経済を成長をさせようという……」

「人間的な成長の方が大事やと思うわ」

25

朝食後、近くのホームセンターへ。出かける前は気が重い。先週も書いたけど、寒いし、そりゃ家でパソコンでもつけて何かやってた方がいいんじゃないかという気になる。とくに今日は先日から原付のエンジンがかからなくなっていたこともあり、原付をなんとかする→ホームセンターで牛ふんを買う→畑に行って温床作り、という仕事が待ち構えている。しかし原付のエンジンはあっさりとかかり(Fがかけた)、牛ふんは手頃なのがなかったから鶏ふんを買って、Fは農協とスーパーに米ぬかをもらいに行って、畑に行く。久しぶりに普段自分は行かないホームセンターまで自転車を漕いで、清々しい気分になった。

温床作りは思ったより時間がかかった。下に敷き詰める落ち葉や稲わらや青草が十分になかったため、かき集めながらの作業になったからだ。なかなか切れない竹に向かってのこぎりを挽きながら、今おれはこういう場所でこういうことをしているのか、と文字にするとそのままなのだが、そんな感慨が湧いてきた。こんなはずじゃなかった気もするけど、こんなはずだったかもしれない。そんな感じ。

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世界しあわせ紀行

」の著者エリック・ワイナーは、カザフスタン人の子どもを養子にしているという。アメリカではこういうことが自然な選択肢なのだろうか。日本もかつては養子はわりと一般的なことだったんじゃないかと思う。ブータンでも他人の子を引き取って育てるという文化があると、高野秀行の本「未来国家ブータン

」に書いてあった。世界全体の人口は増えているわけで、普通に考えたら、人口が増え過ぎの国の人を少子化で困っている国に移動させればいいという話だ。でもそれは引いた目で見た場合の話で、寄った目で見るとそんな一筋縄な話ではないのだろう。そういう話はあまり聞いたことがないし、おそらく触れずにそっとしておいた方がいい話だ。でもそういうところに触れていくのが、ジャーナリストという人なのかもしれない。物事を横断して、風穴を開けるというのがジャーナリストの仕事なんじゃないかという気がする。


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朝いちで免許の更新へ。

久しぶりにバイクに乗っていこうと思ったら、エンジンかからず。Fを呼ぶ。キルスイッチが入ったままになっていた。エンジンかかったので出発してしばらく走るとエンジン切れる。キックを何度も試みるがかからず、Fを呼ぶ。Fがキックすると一発でかかる。「思い切りよくやらな」

再出発して、しばらく走っていると大きな国道上でエンジンぷすっと切れる。よっぽど寒いからかと思って、汗をかくほどキックを繰り返すが、かからない。Fに電話。「ほんまにかかると思ってキックせな」

やっている。でも何か変なのだ。とFと話していると、もしかしてガソリンがないからかも?と気がつく。予備タンクにコックを切り替えたらエンジンかかった。距離計からの計算ではまだガソリンはあるはずだったけど、Fが草刈り機用にガソリンを抜いていたのだった。

1時間遅れで免許センターについた。予想以上に長い時間ヘルメットをかぶっていたので、髪がペタンコになったのを気にしていたり、今ここにいる人たちはみんな早生まれなのだなと気づいたり、危うく5年前と全く同じ服を着て来ようとしたのも、まあ季節が同じだからあり得るわけだと納得したりしながら、午前中にすべて終了した。

帰りにガソリンスタンドで給油。天気もよくバイクも快調で、旅行のときのことを思い出す。バイクは、移動したっていう実感があるのがいいな、と思いながら帰宅。

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スパイス、爆薬、医薬品 - 世界史を変えた17の化学物質

」という本を読む。人類の歴史を変えてきた物質について、化学的な視点を軸に網羅的に綴った本。タイトル通り、胡椒や唐辛子といったスパイス、ダイナマイトなどの爆薬、殺菌薬など医薬品に使われた化学物質について、歴史上重要なものがピックアップされている。

化学式も含んで書かれているけど、正直、それを理解しつつ読んでいけるほど、知識と探究心は自分にはなかった。でも、ある物質の発見、そしてその化学的な合成法の発明のたびに、世界が劇的に変わってきたのだということは理解できる。今ではそれがなきゃ始まらないという物質が「あるとき」と「なかったとき」の世界の違いがよくわかる。

例えばゴム。輪ゴムやタイヤだけではなくて、今ではあらゆる機械にはゴムが使われていて、これなしでは工業の発展はあり得なかった。考えてみれば、今自分が履いているスニーカーもパンツも、ゴムなしでは成り立たない。

細菌との戦いもすさまじい。かつては手術をした人や戦場で傷ついてた人の多くは、感染症で死んでしまっていた。それが抗菌物質の発見により、ほとんどの人の命を救うことができるようになった。現在、抗生物質の使い過ぎによる耐性菌が問題になっているけど、こういう歴史を知れば、菌との戦いが今に始まったことではないとわかる。ずっとイタチごっこなのかもしれない。

たいていの物質は、自然の中から有用な物質を発見→需要が高まる→化学的合成法を開発→多くの人の役に立つ、というパターンで世に広まっている。化学というと環境や人体に悪いんじゃないかというイメージがちょっとあるけど、まずは歴史を知ったほうがいいなという気がした。

歴史を知るということは、極端な思想や行動を諌めるという効果があるのかもしれない。歴史があるとわかっていると、簡単に善悪を決めることはできなくなる。そのためには歴史は落ち着いたトーンで語られていなければならない。強いトーン、過激なトーンの歴史は学んでも有効に使えない。歴史というのは「歴史があるんだなあ」と実感するために必要なのだと思う。この本もそういうことを感じられる本だった。