8月8日(月)
仕事が忙しくなってくると、何だかいらいらしてしまう。自分の資源が奪われていると感じるからだろうか。時間、体力、精神力、そういうものを提供する代わりに賃金をもらっている。そういうふうにいま自分は認識しているみたいだ。
保険から年金、税金まですべて「会社」経由でなされるのはどうしてなんだろう。自分が会社で働く理由をつきつめると、「社会保険に加入できる」ということが大きいように思う。もし会社を通さずに暮らそうとすると、とたんに苦しくなりそうだ。そういうふうにシステムが設計されているのかもしれない。誰が設計している? 国?
何にせよ、会社を通すことで、給料にしても保障にしても一桁違ってくる気がする。外国に行くと、日本はお金持ちの国だと言われ、たしかに有利な価格で物が買えたりする。働かずにしばらく旅行することもできる。ただその有利さは会社的なもの、会社的なシステムがもたらしたものであって、例えば手作り品や有機農産物やそういう個人が作るものでは、発展途上国と呼ばれる国の人と比べても、圧倒的に有利というわけではないだろう。会社的なシステムによって富が倍増というか(それが所得倍増?)、ひとつの壁を越えている気がする。
一人で百姓に挑戦している Itaminhosさんがそれだけではやっていけなくて、バイトで忙しくなっているという状況を考えても、個人でやる農業だけでは越えられない壁がある。で、ひとつの方向として、その壁を越えようとせずに、内側で暮らしていこうとするやり方がある。自給自足的な暮らしを目指すのは、そういうことだ。壁の外の世界を放棄してしまえば、それは可能かもしれない。でもその内側の世界が狭ければ、たとえば近代医療を諦めないといけないし、旅行なんて無理だし、同じ土地のものを食べ続けるリスクや外から敵視されるリスクなどもある。
その壁に穴を開けることがきっと必要なのだ。と、自分がここで言わなくても、そういう活動をしている人が今でもたくさん世の中にいるのだろう。
8月9日(火)
今の暮らしは、同居人と自分をトータルで見ると、悪くないのだと思う。たしかに自分は会社で多くの時間を使っているし、多少の体力や精神力も消費しているけれど、その分、同居人に時間が生まれている。その時間で同居人はさぼることなく、食べることや生活環境を良くすることに取り組んでいる。これがもし共働きで、両方の時間を会社に取られてしまうとしたら、それはもったいない。自分にとっても、食べる時間と寝る時間が充実していることが何より大切なのだ。月並みな価値観だけど、いまはそう思っている。たとえば、会社をやめてフリーで何かをするとなると、今と同じくらいの食事と睡眠の時間と質を保てるだろうか? きっとそういう比較なのだろう。食う寝るの質を保ちたいという欲求と、自己実現したいという欲求のせめぎ合いということなのかもしれない。
8月10日(水)
柄谷行人「世界共和国へ
」を読む。さらさらと理解できる内容ではないけれど、目次からキーワードを抜き出すと、交換、生産、共同体、国家、貨幣、商品、宗教、経済、市場、暴力、福祉、産業資本主義、ネーション、アソシエーショニズム、そして、世界共和国。これだけでだいたいどういうことがテーマになっていて、どういうことを考えていかなきゃいけないのか、なんとなくわかる気がする。
会社から給料をもらっていて、でも物はあまり買いたくない。そんな今の自分の態度は、何かを表しているんだろうか。
8月11日(木)
会社では生きる力が身につかない。同居人と話していて、そんな話題になった。最近の円高ドル安みたいなニュースを聞いていると、お金の価値自体が下がっているんじゃないか、とさえ思ったりする。もしお金の価値がなくなったら、いったいどうなるんだろう?
いま自分が働いている時間の多くが、お金を得るためだけの活動だとしたら、お金の価値が暴落したとたん、これまでやってきたことが無意味になる。もちろん稼いだお金で食べ物を食べて、家に暮らし、旅行に行ったり、好きな人に何かプレゼントしたり、そういう経験は残るけれど、これから先の自分を作るものは何ひとつ貯まっていないということになる。お金が貯金として貯まったり、年金や保険としてプールされていると思っていれば、将来のためにいま我慢して働いているのだとみなすことできるけれど、そのお金の価値がなくなったら、何も残らないということになってしまう。
日本の通貨はいまのところ安定しているけれど、世界にはとてつもないインフレを経験している国も多い。お金が紙くずになる経験ってどれほどのものなんだろうか? てなことを想像して、やっぱりお金なんて信用できない、だからどんなときでも食べていけるように農業をやるのだ、とか考えてみても、お金の価値がなくなるような混乱の中では、自らの作物だけ安泰でいられることは考えにくい。きっと食料を力で手に入れようとする人がやってくるだろう。そんな状況は絶望的だ。結局はマジョリティの側についていた方が安全なのではないか、と考えたくもなる。でも…
って、何の話なんだっけ。まあ食べ物に関していうと、自作と輸入のバランスが大事なのだろう。同居人が菜園日誌の中に載せている「畑で穫れたもの/買ったりもらったりしたもの」という表は、そんなバランスを表現したものなのである。
8月12日(金)
朝、バイクに乗った人が、信号待ちのときの新聞を広げて読んでいた。なんかすごい。新聞ってすごい。
8月13日(土)
思い立って、甲子園に高校野球を見に行く。自分の原点を確かめたい、なんとなくそんな気持ちがあった。
第一試合の終わりごろ、甲子園球場に着く。こんなに暑いのに客席はほぼ満員。野球場に入るとき、ゲートから球場に入って通路を抜けると、ぱっと視界が開けて観客席が目に飛び込んでくる。歓声やその反響音が耳に飛び込んでくる。その瞬間、いつも鳥肌が立つようなぞくっとする感じがする。
第二試合は帝京vs八幡商業。選手の体格やノックの動きを見る限り、帝京はレベルがひとつ違うように見えた。帝京は東京代表だし、帝京という名前もなんとなく威圧的なので、判官びいきもあって八幡商を応援することにする。どうしても弱い方に肩入れしてしまうのは、応援したチームに勝ってほしいというよりも、いい試合を見たいと気持ちから来るのかもしれない。
ところで後ろの席の人の会話。応援するチームがころころ変わる人に向かって「あんたいったいどっち応援してんねん?」という突っ込みに「高校野球を応援してるんやんか」。その答えに我が意を得たような気がした。
試合は帝京ペースで進み、3−0と帝京リードで最終回。八幡商は、代打を出したりして最後の試合感が漂ってきた。が、1死後、ヒット、ヒット、ヒットで満塁。次の打者のゴロをショートがはじき、1点を返す。そして次のバッターが、ファールで粘ったあと、ライトに飛球を打ち上げる。ふらりと上がったかに見えた打球は、あれよあれよという間に伸びて行き、なんとライトスタンドに飛び込んだ。逆転満塁ホームラン。信じられない。球場全体も「まじでー!?」という、リアクションに困ったようなざわめきに包まれた。
その裏の八幡商の守りは、攻撃で代打をつぎ込んだため、投手も野手も控え選手が多くハラハラしたが、堂々と押さえた。八幡商業の逆転勝ち。すごい試合だった。こんなすごい展開の試合が見られてラッキーだ。すごいな八幡商業。ふと負けた帝京の選手が泣きじゃくっているのが見えて、今度は帝京がかわいそうになってきた。
そんなこんなで、連れて行った同居人も、大いに心を動かされたようで、野球観戦は成功だった。
* * *
帰りに梅田のHEPホールでやっていた「アルバムEXPO」という展示を見る。東北での写真修復ボランティアの作業のレポートの展示と、個人のアルバム作りについての提言。「写真を撮るときに、思い出を残すということと、記録を残すということが、今はごっちゃになっている」という指摘にその通りだなと考えされられる。
なるほど、と思ったのは、アルバム作りのアイデアとして紹介されていた「いろはアルバム」という方法。まず、アルバムの各ページに「い、ろ、は、に、ほ、へ、と…」と文字を振っておく。そして、写真になんでもいいのでタイトルをつけて、その頭文字のページに貼付けていく。たとえば「いつも一緒の○○ちゃん」というタイトルをつけた写真なら「い」のページに貼る。このやり方なら時系列とかテーマとか無視して、べたべた貼っていけるので、へんに整理しなきゃとか、並べ直さなきゃとか、そういうストレスがない。でき上がったアルバムも意外性に富んでいて、何度見直しても楽しめる。なんて自由なんだ、と目からウロコだった。
8月14日(日)
松永和紀「食の安全と環境
」を読む。環境ジャーナリストの女性による本。食べもの(とくに農作物と畜産物)をめぐる安全性と環境に与える影響について、科学的な視点で分析している。
「化学肥料、農薬、遺伝子組み換え、抗生物質などを、頭から否定してはいけない」というのが、著者の主張だ。例えば「オーガニック栽培の野菜は安全で、農薬や化学肥料を使って作られた野菜は危険」というのは科学的には正しいとは言えない。かつての農薬は危険だったが、今では危険性のある物質については、かなり厳しく規制されている。一方、オーガニック栽培では、人体に害を及ぼす微生物や病原菌が繁殖する恐れもある。そういうところに冷静に目を向けようではないか、と著者は言う。
たしかに食べる側としては、オーガニック信仰のようなものは、冷静に判断する目を曇らせるのかもしれない。双方のメリット、デメリットを見つめて考えていくのが、オーガニック農業にとってもいいはずなのに、今の日本の農業ではオーガニックのイメージを守ろうとしかしていないように、著者には思えるそうだ。
また、これまで知らなかったけど、土壌の養分過多の問題が、EUでは重要なトピックになっているそうだ。いろいろな見方を知ると、何が正しいのか一概に言うのは難しくなってくる。要は、いかに良いバランスを保つかということなのだろう。バランスを保つというのは、つねに微調整が必要だということだ。微調整をするには、丁寧に、ある程度の時間と労力をかけないといけない。
この本で述べられているのは、産業としての農業であり、個人の菜園について考えるのとは、視点が違う。オーガニックでは世界の人すべての食糧をまかなうことはできないから、遺伝子組み換えも積極的に導入すべしというのはわかるけど、だからといって、うちの菜園に遺伝子組み換えを導入すべしとはならないし、高齢者には雑草や害虫の管理がたいへんだから、農薬を使うメリットがあるというのはわかるけれど、ではうちの畑にも農薬を、とはならない。
ただ、病原菌などが発生してしまうリスクについては考えた方がよさそう。これについては、生ゴミ(食べ残し)を畑に戻す時は、作物を植えているところから離れたところに、まずは埋めることにしている。
自分がどうして有機栽培の畑のほうがいいと思っているかというと、現状ではそのほうが楽だからだ、肥料を買ってきたり、農薬を買ってきたりというのは、お金もかかるし面倒くさい。畑が小規模になっていくと、有機栽培に近づいていくし、逆に大規模になっていくと生産効率を重視した栽培方法になっていく。全体としては、そのどちらもないとうまくやっていけない。これがバランスなのだろう。この前書いた、同居人の菜園日誌にある収穫物と購入物のバランスもそうだし、ゴミの排出にしたって、畑に返すものと焼却するものというバランスがある。そういう縮図になっているんじゃないかと思った。
(T)