アマゾンの地で文明から離れて暮らすピダハン族。そのユニークな文化や言語的な特徴がこの本に記されている。とくに言語については言語学上の常識を覆すものであったらしい。
著者はもともとキリスト教の宣教師として現地に赴いた。が、自らの家族とともに、ピダハンの集落で生活をともにするうちに無神論者になり、宣教師から言語学者へと立場を変えて、共同生活を続けた。
彼らの言語は数や色を示す言葉がないなど、抽象概念ではなく、直接体験のみで構成されるようなものだそうだ。またピダハンの人は長い時間眠らないとか、小さな子どもがナイフで遊んでいても放っておくとか、いろいろ興味深い。しかし何よりすごいと思ったのは、この現代文明とは全く違う暮らしをしている部族のところへ、自分の妻や子どもをつれて移り住むという著者の経験だ。
当時の宣教師というものはみなそうだったのかもしれないが、たいていの研究者やジャーナリストなどは、単身または共同研究者のような人と現地に乗り込むものだろう。何といってもその方が身軽だし、自分の身さえ守れればなんとかなる。
しかし家族がいるとリスクが高まる。実際、この家族は妻も子どももマラリアにやられる。当時はマラリアだともわからず、助けを呼ぼうにも通信手段もなく、外部と接触できるのは定期的に物を届けにくるセスナだけだった。ピダハン族の人も誰も手助けしてくれない。
著者は意を決して、小さなカヌーで街を目指して川を下る。他の村の人や、宣教師仲間の協力を得て、家族は一命を取り留めるのだが、途中で乗り換えた定期船では、病人を見ても周りの人の反応は「あの人死ぬね」「バカだね」とか冷ややかで、船長にできるだけ急いでくれと頼んでも取り合ってくれず、それどころか途中の村で勝手に船を停めたかと思うと、船員はみなユニフォームに着替えてサッカーを始めたという。またピダハンの村人に殺されそうになったこともある。
このように家族連れで未開の地に乗り込むのは大変だなあって当たり前だけど、そんな感想を得たのだった。
宮田珠己さんの琴線に引っかかった本を紹介し、宮田さんなりの「読みどころ」を述べた本。書評といえばそうだけど、取り上げる本のほとんどは、巷で話題の、とかそういうものではない。いっけん堅そうな学術的な本の中から、思わず笑ってしまうような内容を拾い上げてくる。
こう書くと、ただ茶化しているだけのようだけど、それだけではなく、真面目にやろうとしても(すればするほど)、どうしても滲んできてしまう人間性が表れていて、逆に妙に真面目ぶっている世の中の言説に対するアンチテーゼにもなっている気がする。
例えば、ミシェルレリスの「幻のアフリカ」。アフリカ行きに同行した作家であり、民族学者であるレリスが、調査の報告書をまとめる任務を受けていたにもかかわらず、その報告書に自分の性格についての悩みや性癖などを書き込んでいて、私日記みたいなことになっている。どんな報告書やねん、と突っ込みたくなるが、レリスに言わせれば、客観なんてあり得ないんだから、書き手である自分の性質もかき込む必要があるのだ、と開き直っているらしい。
こういう常識から外れるような表現や事実や問題提起がなされている人文書を紹介していくのだけど、ただ笑かすというネタになっていないのが、冒頭にも書いたけれど、この本のおもしろさだ。宮田さんも、あっと驚くネタがあって、それを真面目に考証するような本が好みなのだと言う。
紹介された本を手に取ってみたくなるけれど、もし何の前情報もなくその本を読んだとしたら、難しいな、読みづらいなと思うだけで、宮田さんのようにはおもしろさを見つけられないだろう。そういう意味でも脱帽させられる。
この問い、このテーマを書こうとしたところに、この本の価値があると思う。
著者の見解によると、多くの人は学歴なんか関係ないとか、自分は学歴で人を見ていないと外向きに言ったりするけれど、自分の子どものことになると必死で「いい学校」に入れようとしたりする。親は子どもに身分を相続しようとするからだ。
また、人はいつの間にか他人の学歴をチェックしている。ラベルのないワインと同じように、学歴不明な人といると落ち着かないのだという。たしかにそうかもしれない。そして学歴が違う人に対しては「気を使う」のだ。ここに一番なるほどと思わされた。
当の本人としてはただ気を使っているだけだけど、それってつまりは差別なんじゃないの? という指摘は鋭い。そして、思いやりは自分より劣っていると判断した人に対するものなのだ、という考察も人の痛いところを突いてくる。そういう「いやな話」に到達してしまうのが、「人はなぜ学歴にこだわるのか」という問いであり、そこに切り込んだ著者の勇気と着眼点がすごいと思う。
「気を使っているだけ」という話は深い。原発が推進されたり、無駄だとわかっている事業が継続されたりするのも、根っこにはお互い「気を使っている」ということがあるんじゃないだろうか。面と向かって人を批判するのは難しいし、気を使っているという態度を示すことが駆け引きとしては重要で、その気の使い合いがやめるにやめられないような状況を作り出すんじゃないだろうか。と、そんなことまでも考えさせられたのだった。
自分にとって福島はどういう存在だろう。福島県からは距離も遠いし、知り合いも少ない。自分は何を共有できるのだろう? 「原発解体」というドキュメンタリーや「ヤクザと原発」という本を読んだときは、そこで働く人を自分に重ね合わせて、原発のことを感じることができた。では福島のことはどう考えていけばいいのだろう。
この本の著者は、原発事故以前から、福島県の原発を研究対象にしてきた若手の社会学者である。論文をまとめようとするまさにそのときに、原発事故が起きてしまう。事故以前の「原子力ムラ」がどういう様子であったのかが、原子力発電の歴史をたどりながら、社会学の視点でまとめられているのが、この本だ。
原子力発電というゆがんだ仕組みを生み出してしまったのは、地方と中央の主従の関係だと著者は言う。自分の理解で簡単にいえば「人間関係」が生み出した仕組みであり、事故なのだろう。人間の知力が及ばなかったのではなく、力関係やお金や気遣いや他人のことを考える気持ちやメンツや、そういった人間関係が最終的にこういうことになって表れてしまったのではないか。そういう見方もできると思う。だから「人間関係の改善」みたいなことも、大きな課題というか、自分としては問題意識を持つことができる。もしかしたら自分が福島とシェアできるのは、そういうところなのかもしれない。
アメリカのヒッピーバンドであるグレートフルデッドは、1970年代頃から、ライブでの録音を観客に許すなど、当時の音楽業界の常識ではあり得ないことを試みていた。そんなことをすればレコードが売れなくなって儲からないと思われたが、結果としてファン同士の結びつきが強くなり、バンドの知名度も上がって、現在に至るまで息の長いバンド活動を展開している。これは今はやりのフリーミアムやソーシャルネットワークの先駆けであった、というのがこの本の分析である。つまり、ブレートフルデッドのやり方に、現代のマーケティングへのヒントがあるという内容だ。
思うに、たぶん早い話が「お金は後からついてくる」ということなのだろう。お金の確保を先に計算するとうまくいかない。利益を出すには、どこかで元値を大きく飛び越えるような「ジャンプする力」が必要になる。それは何か?ということは、お金の計算の中からは出てこない。お金より大事なもの、というか、お金もその一部だと思うけど、それは「人と人との間を動く何か」だと思う。人と人との間に何かが動いてさえいれば、お金はたぶん必要ない。逆に、人と人との間には何も飛び交わしたくないけれど、商品やサービスだけ得たいというとき、お金の出番になる。だから、お金が表現している経済は、ほんとの経済のほんの一部だ。これが先に読んだ「競争の作法」で、「広義の経済活動」と呼ばれていたものだろう。
例えば、電車で誰かに席を譲ってあげるとか、少し詰めてもう1人座れるようにしてあげるとか、そういった行為は、お金の経済では何もカウントされないけど、そこにいる人と人の間には、動いているものがある。この電車の車両内で見れば、それが一番大事な「経済」の動き方だと思える。でも自分も含めて、こういう行為はそんなに得意ではない。だからお金の経済に逃げ込んでしまう。変化がわかりやすかったり、比較がしやすい数字の世界に逃げ込んでしまう。お金じゃない経済をどうやって大きくしていくのか? そのために自分はどう行動するのか? なんてことを最近は考えたりしている。
自分で体験してみること。そうしないと本当のことはわからないし、自分なりの見解を持つこともできないんじゃないだろうか。そんな「体験」について考えさせてくれる本だった。
内澤さんはいつも愛情を持って真摯に、でもちょっと無謀なことに挑戦する。今回は豚を一から自分で飼ってみて、それを肉にして食べるという行程の体験をまとめている。これまで食べる側から見て来た食肉の世界を、今度は育てて出荷する側からも見てみようという試みだ。それもただ畜産家に取材するのではなく(実際、病気の持ち込みを恐れるため、密着取材は難しいらしい)、彼らの協力を得ながらも、自ら豚と向き合うのである。
そこには動物を殺して食べるのはかわいそうという世の中の声に対して、内澤さんなりの確認の意味があるのだろう。果たして豚をつぶして食べるときに、自分はどういう気持ちになるのだろうか。その率直な気持ちや感覚がこの本の中に書かれている。つまり、愛玩と食肉のあいだに境界線はあるのだろうか?という問いに対する答えがこの本なのだ。