2011年7月の日記(その1)

6月27日(月)前向きのモチベーション

仕事に悩んで病気になったり、現状を肯定できなかったりするのは、もったいない。仕事につぶされてしまうというのは、給料に見合うものを返さないといけないという義務感からなのだろうか。でも見合うっていったいどれくらい?

スウェーデン・パラドックス

」によると、スウェーデンでは、同一賃金同一労働というセオリーがあるそうだ。どの会社や組織にいるかにかかわらず、職種や役職によって、一律に給料が決められている。思うに、これは働く人にとって、どのくらいが「見合う」のかをわかりやすくするための方法ではないだろうか。

スウェーデンでは、社会人の教育制度の充実など、仕事を変えるための道もきちんと用意されているようで、働く人には常にオプションがある。だから「後がない」というプレッシャーが少ない。すると会社は前向きのモチベーションで働き手を動かすことになる。前向きになされた仕事はイノベーションを生む。それにより国の産業が発展する……という戦略をとっているんじゃないか。なるほどなあ、ってあくまで自分の解釈だけど。

6月28日(火)遺伝子組み換えは何が問題なのだろう?

遺伝子組換え食品―どこが心配なのですか?

」という本を読む。なんとなく危ないと思っている遺伝子組み換えだけど、実のところ何が問題なのかよくわかってなかった。

遺伝子組み換えという技術自体は、食物の面から見ると問題ない。というのがカナダの研究者である、この本の著者の見解。遺伝子が組み換わるというのは、品種が改良されるときには当たり前に起こることで、放射線を当てたりして強制的に突然変異を作り出してきた従来の方法(そんなことしてたのか)と違いはない。運任せでやってたものを、遺伝子組み換え技術によって効率化した、ということみたいだ。

もちろん人体に害を及ぼす植物ができる可能性はある。でもそれは技術が問題なのではなく、新品種の認可の際にテストをきちんとすればいいという話。たしかに毒草と野菜を掛け合わせたら、食べるには危険なものができそうだし、掛け合わせるもの次第ということだろう。

では何が問題というと、環境への影響だと著者は言う。農薬耐性をもつ雑草などが繁殖して生態系を崩す恐れがあるのだそうだ。そこを自然界と農場とのの距離を十分にとり、きちんと管理すれば問題ないとするのが、遺伝子組み換えに寛容な北米地域の考え方。一方

ヨーロッパでは、遺伝子組み換えに対する規制は北米より厳しい。

アメリカの農場といえば広大な敷地を思い浮かべる。想像だけど、アメリカでは農業と自然を密接なつながりを持ったものと考えることは少ないんじゃないだろうか。逆に、国土の小さいヨーロッパや日本では、自然と密着した形で農業をする必要があるから、農業=自然と考えることが多いように思う。

アメリカは雄大でワイルドな国立公園をたくさん有していることからもわかるように、むしろ自然を愛する国なのだと思う。ただ農業と自然を分けて考えていて、つまり農業=産業なんだろう。だから、企業が農業を支配することにも抵抗が少ないのかもしれない。逆を考えると、農薬や化学肥料、F1の種を使わない有機農業や自然農というのは、もちろん安全な食物を作るという目的もあるけれど、企業中心経済からの独立という意味合いもあるのだと思った。

6月29日(水)充実している姿

充実している姿を見せるということが、大事な人へのいちばんの贈り物なのだろう。たとえば会社の仕事なんかでも、部下が充実して仕事をしている姿を見るというのが、上司にとって一番うれしいことなのだと思う。(違うかな?) ではどうすれば充実した姿を見せられるのか? それにはなにか目標に向かっている状態を作らなければならない。目標設定がまずいるのだ。うーん、そうか。目標か。ここまで書いておきながら、自分の目標がないんだよな。

6月30日(木)歯ブラシと生きている町

朝、ふと歯ブラシに目が止まる。こういう歯ブラシという製品も、現在の形になるまでには時間をかけて改良されてきたのだろう。ブラシの毛の1本1本が抜けないように固定するのも簡単ではないだろうし、その繊維だって、何万回もの摩擦に耐えられるような素材を選ばなければならない。自分に歯ブラシを作れと言われても作れないわけで、だから工場とか企業というのは偉大だなあ。というようなことを思ったのだけど、それについて何か言いたいのかというと、よくわからない。

田舎力

」という本を読んで、田舎暮らしも悪くないかもしれない、と前向きになった。いや、田舎というより、地方のこじんまりとした、でも活気があるような、そんな町に住みたい。小さな町に憧れがある。アイスランドのレイキャビクに行ったとき感じたのも、そんなことだった。コンパクトだけどそれが必然的な大きさで、過不足がない。フィンランドとか北欧はそんな感じがした。

町にも生きている感じがあるところとそうでないところがある。それは町の大きさにもよらないし、人口にもよらない。だから過疎と言っても、それじたいが問題ではなくて、生きている感じが失われるのが問題なのだろう。生きている感を出すにはどうしたらいいんだろう? 明るいこと、歩きやすいこと、人の笑顔があること。案外このくらいのことなのかもしれない。

7月1日(金)チッタスローとコーヒーと惰性

田舎力

」によるとチッタスロー(スローシティ)という概念があって、イタリアで実践されているという。小さな町が連想されて気になったので検索してみると、飛騨にある日本の会社が出てきた。そういえば以前もこの会社のホームページは見たことがあった。見ると、外国からの観光客を呼ぶ事業とかおもしろそうだ。スタッフも募集している。同居人は田舎暮らしを望んでいるし、こういうところで働くのもありなんじゃないかと想像してみる。でもなあ。働くのはおれだしなあ。自分の感覚に照らして考えないといけない。

昨日から朝畑をしている。今日は5時半に起きた。7時頃に家に戻り朝食をとると、さすがに少し疲れが出た。少し休んでから会社に向かう。この時点での会社に向かう目的は、コーヒー飲むことである。とりあえずコーヒーを飲もう。そう思うことで、電車に乗って会社の方角に足を向けることができるのだ。そういう意味でコーヒーに動かされている。

なんで働かなきゃいけないんだろうなあ。疲れているとそんなことを考えてしまう。いろいろ考えてみたが、結局いまの状態を維持したいというのが理由だろう。言い換えると、惰性。そう思うと、コーヒーに頼っているのも考えものかもしれない。

7月2日(土)朝のぜいたくと草刈り機

朝、同居人が焼いた田舎パンを食べたあと、自宅のテーブルで日記を書いている。こうやって家でゆっくりと過ごす朝があるのは、ぜいたくと言えるかもしれない。なんだかんだ言って今の暮らしは悪くないのだ。問題はそれを噛みしめられるかということだけど、噛みしめるってどうやったらいいのかわからない。だからせめて日記を書いている。

洗濯をしよう。洗濯は好きだ。でも洗濯機ってほんとうに汚れが落ちているのか疑問だ。なんてことは今はどうだっていい。洗濯物が乾いていく過程が好きだ。日光が勝手に乾かしてくれるという感じがいい。自然エネルギーの良さって、この勝手にやってくれる感じだとぼくは思う。つねに制御が必要なことは、なんとなく面倒な仕事が増えそうなのだ。

畑へ。鎌を使って土手の草刈りをしていると、となりの畑のKさんというおじさんが「草刈り機貸したるで」と言う。「いや大丈夫です」といったん断ったもの、機械を使ってみるのもひとつの経験かと思い直し、借りることにした。草刈り機にはてっきり金属の刃で刈るのかと思っていたけれど、そうではなく、樹脂でできた紐みたいなものが2本ついていた。それが回転することで草をなぎ切る仕組み。たしかにこのタイプのほうが安全だ。

意外なことに、機械を使えるようになるとなんだか希望が出てくる。自分でも農業できるんじゃないかという気になってくる。同居人が借りてきた「今関さんちの自給自足的生活入門

」という本をぱらぱら見たときも、機械には助けられている、というような記載があった。手作業にこだわるのもいいけれど、現実的にうまくやることも考えていったほうがよさそうだ。

7月3日(日)ビール試飲と原発の署名

ビール工場を見学してから、STU:L恒例の小さなお話会に参加。今回は僧侶の方がゲストということで、いったいどんな織田無道が来るのかと思ったら、物腰の柔らかいすらっとした若い感じの男性で、頭髪も坊主頭ではなかった。浄土真宗はとくに頭を丸めなくてもいいそうだ。

震災と原発問題をテーマにした話。震災の問題は、誰に目線を合わせるかで意見は違ってくる。だから最終的に自分はどうするのか、というところからしか発言できない。STU:Lの竹内さんも、自分の仕事をがんばるしかないと言っていた。その通りだと思う。で問題は、自分にはその「自分の仕事」と自信をもって呼べるものがあるのかということだ。「自分の仕事」を固定できないがために、迷ったり、左右されたり、過激になったり、投げやりになったり、そういう態度になってしまうのかもしれない。でも逆に新しい価値観に飛び込んで行くこともできるのかもしれない。

終了後、お弁当を食べながら歓談する。青さんという人が作っているこのお弁当は、味わい深く、かつ自由な感じがする。青さんとはまだあまり話したことはないのだけど、なにか気になる人のひとり。次回はもっと話してみたい。

参加者の1人の人が原発に反対する署名を回していて、ややためらいつつサインした。もちろん原発賛成ということではないけれど、確固たる意思のようなものをまだ自分は持っておらず、だから意見が強く鋭くなってくるとちょっと腰が引けてしまうのだ。それはたぶん判断するほどの実感が伴っていないからだろう。

でも、電力については毎日使っているので体感している。我が家にはエアコンがないのでエアコンのない夏がどのくらいのものが知っているし、テレビのない生活がどのようなものかも知っている。電力消費量も集計していて、ワット数の感覚もだいたいわかった(うちの場合は年間で1000kWh程度)。「電力が◯◯kWカットされても文句は言いません」というような内容の署名だったら、自信を持って署名できるように思う。

(T)