7月25日(月)食べることと眠ること
テレビのアナログ放送が終了。うちはテレビないから関係ないやと思っていたら、ラジオからもテレビ音声が聞こえなくなった。当たり前か。毎朝、ラジオでテレビニュースの音声を聞くのが日課になっていたので、意外に影響大だ。
まだ半分くらいしか終わってないけど、今年はいろいろあった。その分、平穏なことをありがたいと思う気持ちを、手に入れられたように思う。平穏は慣れてしまうと忘れてしまうけど、そのすばらしさを実感できる瞬間もたしかにある。ただ、それは自分1人では実感できないことなのかもしれない。自分にとって平穏のありがたさを実感するのには、同居人がいることが条件になっている。
たとえば、自分が高校野球を見て感動したとしても、それは過去の自分の思い出が刺激されているわけで、いま現在の自分の状態を実感するものではないような気がする。いま平穏を実感するのは同居人といっしょに家で食事をしているときであり、その時間と質が確保されている以上、仕事が充実していないとか、先が見えないとか、そういう話は2の次になるのである(て言いつつ、仕事や会社の愚痴はしょっちゅう言っている気がするけど)。
Fは賃金労働はしていないけれど、この充実した食事のために野菜を作ったり、料理したり、そういう仕事を毎日やっている。その貢献度は大きい。食べることと眠ることの質。なんかありがちだけど、そこに集約されていくんではないだろうか。しあわせに食べしあわせに眠る。どうやらいまの自分は、そのへんに一番の価値を置いているみたいだ。
7月26日(火)独立とオーガニック
昼間、Fがマンションの自治会関連で、公社とやりとりをしてくれる。会長を引き当ててしまって「あちゃー」と思っていたけど、Fが手早く実務をこなしてくれるので、助かっている。自分だけだったら、やるべきことがあっても、なんだかんだ言って先延ばしにしてしまうからなあ。
この前観た「未来の食卓
」という映画の影響で、Fはオーガニックショップをやりたくなったそうだ。それもいいかもしれない。野菜作りの経験も生かせるかもしれない。ただオーガニック=健康に良くて安全、というのは少し短絡的なように感じる。何が自然で何が自然じゃないかに線を引くのが難しいように、何が安全で何が危険かを単純に分けるのも難しい。体に入る物質はその量によって作用が違うというし。
それよりも、このところ思っているのは、オーガニックは人が独立して暮らすことにつながっているんじゃないかということ。今たまたま「知識人とは何か
」という本をぱらぱらと読んでいるのだけど、その中に、知識人は権力から独立していなければならない、みたいなことが書いてあった。そりゃ学者だって独立していたいだろう。でも、独立っていったって食っていかなきゃいけない。というときに、では農業をすればいいということになれば、その農法は、権力を持った企業に頼らないオーガニックなものになるだろう。そういうものとして今はオーガニックをとらえている。
7月27日(水)小さな借りをこまめに返す
6:00起床。ひさしぶりの朝畑。6時になると、寝ている部屋の窓のすぐ下にある木で、蝉がいっせいに鳴き始める。それで目が覚める。
そういえば会社の給料が少し上がった。なんか複雑な気分。もらえるお金が増えるというのはありがたいのだけれど、無言の借りを作ってしまったような気がしてしまう。
これも最近読んだ「二度寝で番茶
」という脚本家によるエッセーの中に、小さな借りは「ありがとう」という言葉でこまめに返すのがよい、というような話が書いてあった。たとえば、給料が上がったなら、社長に「ありがとうございます」とひとこと言うことができれば、それで借りは解消されるはずだ。だけど、それができない。なぜか? まあいろいろな理由があるけれど、ひとことで言うと、そういう空気がないからだ。ささいなことでも、空気を突き破って何かするのは難しい。だから何かを動かそうとする人は、空気の方を先に変えようとするのだろう。
「ありがとう」という言葉も複雑だ。本心でない「ありがとう」でも、受け手にとってほんとうにありがたいものになることもある。でも、できれば本音のありがとうを言いたいという気持ちがある。その一方で、ありがとうと言ってしまうことで、相手に取り込まれてしまうのではないか、相手の意見に賛同したとみなされてしまうのではないか、というような危惧がある場合もある。部分的にありがとう、みたいな表現をするわけにはいかないし。うーん、何が言いたいのか、自分でもさっぱりわからなくなってきたぞ。
7月28日(木)発見について
今日も朝畑。5:30起床。
自分がよろこびを感じるのって、何かを発見したときだ。それは知識を得た、というのとは違う。知識というのは、あとあと何かとつながるかもしれない、ということを期待して蓄えておくものだろう。蓄えてそれを見せびらかすだけでは意味がない。
インターネット上でいろんなことの「答え」が見つかってしまう今、発見を自分のものとして実感するのが難しい。自分の中での発見も、それをネット検索して、他の人がまだ見つけていないのを確認しないと、発見だと思えない。なんか特許みたいなことになっている。だからたまにはネットを遮断して、自分の発見を噛みしめてみるということをしてもいい。インターネットをやっていない誰かに話してみてもいい。そういう意味で考えると、インターネットをしていない人というのは、話相手として貴重な存在になっていくのかもしれない。
7月29日(金)適切な課題がほしい
最近の朝食は、ミックスジュースを作って飲むのがブームだ。バナナと豆乳と、ベランダの植木鉢に植わっているアロエをもいで入れる。
今年はどこへ旅行へ行こうかと考えている。行き先を選ぶのがなかなか難しい。行きたいところがたくさんありすぎて困る、というよりは、ピンと来る場所がないというほうが近いかもしれない。いや、いくらでも行っていいというなら、片っ端から行きたいと思うのだけど、どうしても今ここに行きたいという国が浮かんでこない。
候補にあがっているのは、ヨルダン、インド(南インドがダラムサラ)、モロッコ、北欧、そんなところだ。うーん、自分の興味はいまどこにあるのだろう。旅行そのものの体験というよりも、そのなかで何かをとらえて記録したい、というような方向に興味が向き始めているのかもしれない。なにか適切な課題が欲しい。最近はそんな気分。
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謎の語る男
晩、Fと待ち合わせのため、カフェで時間をつぶす。近くのテーブルの男1人女2人の3人組の若者がにぎやかに話しているので、ついつい聞きいってしまった。
男性が女性に向かって「ビジネスは環境が大事。たとえば名門校で揉まれるのと、そうじゃないのとでは、自分のなかの基準が違ってくる。それと同じなんだ」みたいな話をしている。語っとるなと思いつつ、確かにそうかもしれんなあと思う。いま自分がしたいことは、新しい環境に身を置きたいということかもしれない。自分の中のやる気を刺激してくれるような。
ん? さっき女子の2人だけ「ありがとうございました」って言って先に帰ったと思ったら、次にまた別の2人組(今度は男性)がやってきて、同じテーブルに座ったぞ。いったいこの「語る男」はどういう人なんだ。こういう仕事なのか? カウンセラーとか、コンサルタントとか? 「週末だけの仕事」みたいなフレーズも話の途中で聞こえてきた。世の中では自分の知らないところで、いろんなことが行われているようだ。
7月30日(土)「ビンラディンを探せ」
DVDで「ビン・ラディンを探せ!
」という映画を観る。「未公開映画を観るTV」というテレビ番組で紹介されていた映画の、DVD化ということらしい。監督は、ハンバーガーを自ら食べまくる「スーパーサイズミー」というドキュメンタリー映画で話題になった人。「ビンラディンはどこにいる?」という素朴な質問をかかげてイスラムの国々を体当たりで取材し、現地で暮らす人の声を拾っていく。そんなアプローチが痛快で、おもしろかった。1人の人間としての感覚で、ものごとに迫っていくところに好感が持てる。自分も何かに迫ってみたい、そんな刺激を受けた。
7月31日(日)「あ、ラマダン始まったか」
神戸方面へ出かける。六甲山カフェで、フェジョアーダとクスクスとケバブの昼食のあと、三宮の輸入食品店(ハラルフード屋)をめぐる。お店に入った瞬間、外国のにおい。香辛料や包装素材や、その他いろんなにおいが入り交じって、一気に外国的な雰囲気につつまれた。店内の雑多な感じも、外国の店がそのまま日本にやって来たようでおもしろい。
このエリアは、インターナショナルなものしか許されていないんじゃないかというくらい、多国籍な店ばかり並んでいる。モスクもあるし。そのモスクからちょうどアザーンが流れてきた。そのアナウンスを聞いた近くの中華料理屋のおじさんが、ひとこと「あ、ラマダン始まったか」と店の前でつぶやいた。
今年の旅行はどこに行こうかと考えているのだけど、ここにきてイスラム圏が有力だ。まだ2人とも行ったことがないエジプトかチュニジアが候補。エジプトは有名すぎていまいちかなと思っていたけれど、ロンリープラネットを読んでいると、トラムやメトロや鉄道が発達しているようで、それなら行ってみたいという気分が盛り上がってきた。
やはり自分は公共交通が好きなのだろうか。そういえば、今朝も芦屋川をくぐる地下道に傾斜を登るケーブルカーみたいなエレベーターがあって、思わず無意味に乗ってしまったりした。アラブと公共交通という組み合わせも自分の中で新鮮なのかもしれない。古い交通機関もありそうな気がする。
Fはハラルフード屋で気になった食品はチュニジア産のものが多かったといい、チュニジアが気になってきたようだ。
(T)