旅の初日の印象に残ったことといえば、飛行機の中での出来事である。自分たちの席の数列後に座っていた欧米人のおじさんが、数秒に一度くらいのペースで、声をあげて大笑いするのだ。ヒーッヒャッヒャッヒャという引き笑いのような声で笑う。おじさんは機内で有料で貸し出しされているiPadで動画を見ており、おそらくコメディのような番組で大笑いしているのである。あまりに頻繁に笑うので、その状況自体が冗談というか、この飛行機全体がドッキリなんじゃないかという気がするほどだった。
おじさんが大きな声を出してしまうのは、ヘッドホンをしているせいで自分の声の大きさがわからなくなっているからかもしれない。高校のとき授業中にウォークマンで音楽を聴いている同級生がいて、先生がそれに気づきそうになったため、隣の席の生徒が「おい、ばれてるぞ」と小声で忠告したら、「え? 何? 聞こえない」って返したその声がやたらでかく、先生はもちろんクラス全員の注目を一気に集めた、というシーンが思い起こされた。
ふと、欧米人は面白いときには人前でも声を出して笑うことに躊躇がないのかもしれない、という考えが頭をよぎる。欧米とはそういう文化なんじゃないか。しかし、それなら欧米人を満載した飛行機では、常にあちこちでゲラゲラ、ゲラゲラと笑い声がしていることになり、そんな楽しそうな飛行機なら一度は乗ってみたいと思うけれど、そんな話は今まで聞いたことがない。ということで、大声で笑っているのはその人個人の性質によるものであろう。
おじさんの大笑いを受けて、こちらも隣のFと顔を見合わせて思わず笑ってしまった。おじさんがひとりで大笑いしている状況が可笑しいからである。インドにみんなでひたすら大笑いする宗教のようなものがあるらしいけど、それもこうやって笑いを伝播させているのかもしれない。
で、ここまで書いてきて、この件について自分はいったい何が言いたいのだろうか。
いや、たぶん、とくに言いたいことはなく、ただそういう人がいた、というだけのことなのだろう。なんというかこの旅は、かつての旅と比べてもとくに何が見たいというわけでもなく、とくに何がしたいというわけでもなく、別世界に行くのだという強い興奮もなく、かといって旅がいやなわけではまったくなく、なんとなく無心なのである。無心で旅をすれば、出会った人や物事についても、そういう人がいた、そういうものがあった、という感想しか持たないのではないだろうか。それはもはや感想とも呼べないかもしれないが。
旅の興奮が少なくなってきているとしたら残念な気もするけれど、その一方で、ただそういう人がいた、という素朴な感覚で周囲のことを感じられるようになったと言えるのかもしれない。笑い声がうるさくて迷惑だと思うわけでもなく、そんなに笑えるのはいったいどんなおもしろい映像なんだと詮索するわけでもなく、ただ数秒に一度、大声で笑う欧米人のおじさんが数列後ろの席にいる。その状況を少々もらい笑いしながら、かみ締めるように味わう。それも旅の一面なのである。