2011年6月の日記(その2)

6月6日(月)玄米と白米とやる気のエネルギー

なんだか疲れている。土日に畑仕事をしたせいか。でも、いうほど動いてないしなあ。カフェインで体を起こそうと、コーヒーを飲む。やる気がないときでも、飲めばとりあえずなんとかなるので、コーヒーには救われている。

ところで、去年より体重が減ったのは、玄米を食べることが多くなったせいだろうか。もしかしたら玄米は、白米よりエネルギーに変わる割合が少ないのかもしれない。だからたくさん食べているにもかかわらず、太らないのだ。ダイエットの人にはいいかもしれないけど、エネルギー効率としてはよくない。食べ物にしても生活環境にしても、つまるところエネルギーに行き着く。精神的にだってそうだ。やる気を出すエネルギーがあるかどうかで違ってくる。体のエネルギーがカロリーだとすると、精神のエネルギーの単位は何だろう?

6月7日(火)カーテンと妥協点

夜、寝ぼけて電気スタンドを蹴っ飛ばしてしまい、傘部分のガラスが割れてしまった。もともと自分は、夜、カーテンを開けたまま眠るのが好みだった。月明かりが入って趣きがあったり、朝日を浴びて目覚めを良くしたりしたいからだ。ところが、寝るときは真っ暗にすべしと主張する同居人がいる。ということで、カーテンを閉めて眠っていたところ、夜中にトイレに起きたとき辺りがよく見えず、枕元の電気スタンドを蹴飛ばすはめになったのだった。だからやはりカーテンは開けるべきなのである。…などと声高に叫んだところで、物事が好転するとは思われないので、妥協点を探るべし。

6月8日(水)なにもしたくない気分だ

うー、何もしたくない気分だ。最低限のこと以外、極力なにもしたくない。それでも何かしなくてはいけないと思うのは、自分の中からの要請なのだろうか。それとも社会的な要請なのだろうか。いま読んでいる「栽培植物と農耕の起源

」という本によると、歴史的に見ると、勝手に実がなる植物が生えている熱帯の人は、生活レベルが低いままだったという。発展するためには、ある程度の環境からのストレスはあってしかるべきなのだろう。ああ、でも自分のまわりだけには勝手に実がなる植物が生えていてくれてもいいのに…って無いものねだりをする前に、コーヒーでも飲もう。

6月9日(木)シアトルの6月

ロックの日。南東アラスカを旅行したのはもう2年前だ。アラスカもよかったけど、経由で立ち寄ったシアトルもよかった。かつてマリナーズにいた長谷川滋利の本

を読んでいたら、シアトルは6月がいちばんいい季節だと書いてあった。たしかに、緑がきれいで日差しも明るく、湖も気持ち良さそうで、こんな街に住みたいと思った。イチローがマリナーズを離れないのもわかる気がする。

6月10日(金)ふらふらと洋服屋に入る

某バンドのライブチケットが発売されるという情報があり、自分は行けないけど同居人が行きたいので、仕事のあとライブハウスまで買いに行く。無事チケットが買えたのはよかったのだけれど、ひさびさの繁華街に舞い上がってしまい、買う気もないのにふらふらと洋服屋(外資系のファストファッション)に入ってしまった。この前、経済成長なんていらん大量生産なんていらんみたいなことを書いたような気もするけど、なんというか、手頃な価格でおしゃれな服っていいもんだよな。とか思いながら、売り場をひとまわりする。でもやっぱり自分は場違いな気がしてきて、早く家に帰りたくなって退散した。

6月11日(土)去来荘へ

長野は木曽の、去来荘という宿に泊まりに行く。

6月12日(日)買って心地よい木製品

去来荘から五箇山の合掌造りを見物して、帰宅。

今回の旅行では、同居人が木曽の木材で作った木製品(まな板、おひつ、すり棒)を購入した。少々高かったけど、買って帰ってみると、なかなか気持ちがいい品々だ。その理由を考えてみると、・長持ちしそう ・生活のクオリティを上げそう ・必ず使用しその頻度も高い ・使えば使うほど良くなりそう。そんなところだろうか。それを都会のデパートとかじゃなくて、生産に近い場所で買うというのは悪くない。なにか、お金を失ったという感じがしない。お金という財産が消えたわけじゃなくて、価値あるモノに交換された。そしてそのモノはいま自分の手元にある。その感じ。消費されてされてしまわない感じが心地よいのだろう。

(T)