山内奏宙
戦国時代を代表する人物は豊臣秀吉だと思う。その理由は5つある。
1つ目は、織田信長が目指していた、天下統一を果たしたからである。秀吉は、信長が政治をを行った時に、家臣という身分にいた。信長が本能寺の変で亡くなり、朝廷から、従一位関白に任命された。その翌年には、太政大臣になった。その後、九州、関東などを平定し、東北も従え、ついに、天下統一を成しとげた。私が上のような意見を出すと、織田信長派からは、「信長が天下統一を目指して、それをついだので、織田信長がいなかったかったら天下統一はできていなかったと思う」という意見が出た。確かに、秀吉は、信長の夢を叶えるために、天下統一することをがんばった。けれども、秀吉は、少しでも上へ、上へと一生けんめい努力した。だから、天下統一を果たせたのは、秀吉の努力と、前を向いて夢に向かう、その性格にあったと思う。
2つ目は、刀狩令を出したことである。刀狩とは、農民が武器を持つことを禁止して、没収したことである。集めた刀は、方広寺の大仏の材料に使うと、農民には伝えていた。それもあったとは思うが、秀吉は、もう一つの理由もあったと思う。農民に対してとお坊さんに対して、それぞれちがう理由があったと思う。まず、農民に対してだ。農民は、時どき一揆などを行っていた。なので、一揆防止のために、武器を没収していたと思う。次に、お坊さんに対してだ。そのころの坊さんの中には、戦うお坊さんもいた。秀吉は、お坊さんは、お坊さんのやるべきことをしてほしい、お坊さんは戦うための仕事ではないと思っていたはずだ。自分の役割を果たしてほしい!という秀吉の思いは、このとき、だれよりも強かったと思う。
3つ目は、検地令を出したことである。全国の田畑を調べさせ、面積や等級などで、一定の割合の年ぐを農民をおさめさせるために出した令である。各地によって変わっていた1升のびんやものさしなどを、統一した。1升のびんの大きさがちがうと、少なくはらうところと、たくさんはらうところによって、変化ができる。でこれを統一することで、どこの地域も変わりがなくなることに気づいたのだろう。秀吉は、ついにもののサイズまで、天下統一してきたのだ。私は、秀吉の出した検地令に賛成だ。これにより、おおかったところに少なくなり、少なかったところは多くなったかもしれない。多かったところが少なくなるのはうれしいことだが、少なかったところがおおくなることには、そんがある。最初は不満もうったえる人も多かったかもしれない。けれども、統一されて他の少なかったところも多くなったとすれば、だんだんあきらめもついていったと思う。なので私は、検地令を出したことに賛成する。
4つ目は、明智光秀をたおしたことである。織田信長を本能寺の変で殺したのは、家臣の明智光秀である。秀吉は、このことを、手紙で伝えられた。信長のおかげで、出世できた秀吉は信長にすごく信頼を持っていた。そこで、信長のかたきをとるために、秀吉は光秀を殺したのだ。私は、秀吉が光秀を殺したことに反対はしない。「信長のおかげで」という恩を忘れなかった秀吉だからできたのだと思う。感謝第一の秀吉なので、私はすごいと思う。
5つ目は、朝鮮侵略したことである。天下統一を成しとげた後、秀吉は世界に目を向け、朝鮮へ送る軍団を集めた。集まったのは16万人だった。勝てると思い、せめこんだが、明の軍が朝鮮軍に加わったので、勝ち目がなくなり日本に帰った。そして、小西行長がこっそり秀吉が降伏するという文を捏造して送ったことをきっかけに、秀吉は、2度目の朝鮮を攻めることを決めた。「世界統一をしたい」、「世界のちょうてんに立ちたい!」その秀吉の強い思いから生まれた朝鮮侵略であった。ねばって、ねばってねばり続けた秀吉に私はあこがれた。1度やって失敗してしまったら、私だったら立ち直れないかもしれない。でも、絶対に!と思っていたからこそだと思う。2度も負けてしまった戦いがあったが、勇気と気持ちの強さが私はとてもすごいと思う。
私がここまで、秀吉にこだわることにも理由がある。まず、信長は、天下統一を果たすことができなかったからである。信長は、天下統一を成しとげるために、楽市・楽座や貿易などを、さかんにしていた。だが、天下統一を目指している最中に、本能寺の変で、明智光秀に殺されてしまった。だが秀吉は、その後をついで、天下統一を果たすことができた。国内での天下統一を成しとげると、「わしは信長様の天下統一の夢をかなえた男。きっと世界も手に入れられる」といい、世界にまで目を向けた。次へと目指した秀吉の方が、信長よりも、だんぜんスケールが大きい。なので、信長が戦国時代を代表する人物ではないと思う。次に、家康である。家康は、特に大きな努力をせずに、天下を手に入れたことである。信長と秀吉は、刀狩令や検地令、楽市・楽座などのいろいろな工夫を行い、天下統一をするために、たくさん努力した。だが家康はちがう。ちょうど、天下が秀吉の息子、秀頼だった時代に、天下をよこどりしようとたくらんでいた。まず、1600年に、石田三成らを中心とする西軍に関ヶ原の戦いで勝利し、全国の戦国大名を従えた。そうして、さらに上を目指すために大阪冬の陣と夏の陣の2度にわたって豊臣氏をせめ、ほろぼした。2つの戦いにより、家康は天下を手に入れたのだ。努力をしていないとはいわないが、信長や秀吉と比べたら、だんぜん、楽な方法を使っていたと思う。こういう方法で、天下を手に入れる人は他にもいると思う。けど、秀吉は、農民というレベルから、たくさんの努力や苦しみを味わって、やっと天下を手に入れた。家康のやり方はダメだとはいわないが、私には、あんまり気にいるようなやり方ではなかった。上のようなやり方ではなかった。上のように、信長と家康がちがうと思った理由を出したが、本当は、ギリギリまで、信長と秀吉をまよっていた。やっぱり信長のおかげで、あの秀吉がいたから、秀吉を支えた信長の方がいいのかもしれない・・・。そうも思った。信長がいなければ、秀吉は、天下統一できなかったかもしれない。でも信長は、天下統一を果たすことができなかった。どちらにも、できたいことがあった。確かに、秀吉を支えてくれた信長も大切だ。しかし、信長は、結果をのこすことができなかった。勝負にこだわった信長がやっぱり戦国時代を代表する人物では、とも思った。けれど、秀吉は、もっと勝負にこだわったと思う。「光秀をたおして、信長の後をつぐ」、「私は世界も手に入れられる。ぜったいに手に入れて見せる!」光秀を倒すことは成功した。明をまず手に入れる。それは1度では、成功できなかった。でも、そこをあきらめずに、もう一度しゅげきしようとした。「次は絶対に」これこそ、信長よりも勝負にこだわったと私は思う。
このように、戦国時代を代表する人物は、豊臣秀吉である。