向山洋一先生は論文「教師の情熱は、教材の選択に
支えられる(ヘルバルト)」(『教室ツーウェイ』2013年5月号)で
以下のように解説まで加えられてとってもわかりやすいように
書かれている。
現代の教育学の基本を創ったのは、ケーニヒスベルグ大学教授であったヘルバルトである。
彼の教育学の主張は、明治二十年頃、日本にも入ってきた。
「予備、提示、比較、総括、応用」の五段階教授法である。
彼は「一般教育学」において、次の三点を教育学の基本として主張した。
(一) 人類がこれまでに獲得したすべての文化を若い世代に提供
することは、歴史のどの瞬間にも、人類がなしうる最高のこと
である。
(向山) 彼はここにおいて、教育という営為、それまでの人類の
歩みにおける文化、知恵等を若い世代に与えることであるという
意味と、それが人類の最高のことなのだという価値を強調して
いる。
(二) 教師の情熱は、教材の選択によって支えられるべきだ。
(向山) ここで彼は、教師の情熱は教師のことばによって測られる
のではなく、教師が授業で用意した教材によってこそ測られる
べきだと強調する。
全くその通りである。
すぐれた教材・教具が、多くの教師の努力で作られているのに
それを選択しない教師も多い。
重病の患者に効果のある医薬品が開発されているのに、
それを全く使用しない、そのことを全く知らない医師と同じで
ある。
その職から、追放されてもしかたのないことなのだ。
さすがに近代教育学を創ったヘルバルトだ。教師の仕事の
本質、教師の能力の判断の基準を持っていた。一世紀以上も
昔にである。
(三) 科学は眼鏡ではなく、眼である。
(向山) 人間の眼は、その人間の脳にあるものしか見つける
ことはできないのである。
「あれども見えず」なのだ。
「見えども分らず」なのだ。
発達障害の子に「叱る」「どなる」ことは、人格をこわす行為
であると、多くの専門医が言ってるのに、「叱る・どなる」が
必要だという不勉強な無能力の教師は多い。
フランスの高等警察の講堂には、次の意味の標語が掲げられ
ているという。
「目は、自分の内にあるものしか、さがすことができない。」
近代教育学を確立したヘルバルトの主張は、さすがに「教育の本質」をついている。
とりわけ「教師の情熱は、教材の選択によって支えられる」という主張は、すごいとしかいいようがない。
教育学部では、このような大切なことを教えているのだろうか。
教師としての情熱・能力は、そのクラスで活用する教材・教具に示されるのである。
教師としての情熱・能力が示されるものが教材・教具。
わけのわからないプリントを好む先生はわけがわからないことを
よく言うんだよね。
これは私にもわかる。