朝田五郎くんの思い出
BIGUPSETの創設メンバーであり、大宮健保グラウンドでの試合等にたびたび応援に来てくれていた朝田五郎くんが大変残念なことに平成27年11月16日、逝去しました。
享年52歳、悪性骨髄腫と20年間戦いながら自身勤務医として小児医療に献身的に取り組み、野球をこよなく愛し、ご家族を大切にした朝田くんの思い出を語る場をここに開設しました。
平成28年1月 管理人
第1章 試合応援
朝田くんがBIGUPSETの試合応援に来てくれたときや試合後の宴会に参加してくれたときの写真です。
2014年3月29日、砧公園。朝田くんが出場した唯一の試合でした。
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選手名鑑に使用した写真を発見しました。2003年ですが詳細な 撮影日と場所は不明です。
2013年9月14日、大宮健保グラウンド。ガンバロウ大会2回戦の応援に来てくれました。
BIGUPSETの試合に応援・参戦してくれたときの写真です。朝田くん一人の時もあればご家族でもよく応援に来てくれました。
上の写真のスライドショー(BGM付)です。
第2章 ユニフォーム
朝田くんが桐朋中学でエースだったときのユニフォームと都大会出場時の朝日新聞切り抜きです。
ご長男の朝田航太くんから提供いただきました。
1978年夏・中学3年生 芝田康弘くん(クラッチ芝田)
の家に泊まったときです
↑ 1979年4月・高校の入学式
1980年10月・修学旅行(京都・奈良) ↓
↓1981年10月「クラスの日」旅行で江の島付近にて
第4章 追悼文(芝田康弘)
思いもしなかった朝田の訃報が飛び込んできたのは、ロンドンでの仕事中だった。それをどう受けてとめていいのかとか、そういうことを考える余裕はなかったけれど、とにかく日本に帰らなければ、葬儀に間に合わせなければ、という気持ちだけははっきりしていて、取るものもとりあえず翌日の飛行機に飛び乗った。日本に向かう飛行機の中で、土浦に向かう電車の中で、朝田のこと、朝田との思い出を色々思い出そうとするのだけれど、色々な場面や色々な出来事が頭の中でぐるぐる回るだけで、とにかく落ち着かない気持ちだった。
その中で、何故か、何度も、鮮明に頭の中に蘇ってくる、ある光景があった。
『ティーバッティング』 ----- 野球のバッティングの練習で、打者がネットに向かって構え、もうひとりが斜め前方からボールをトス、それをバッターがネットに向かって打ち込む。プロ野球の試合前の練習などでもお馴染みの基本練習だけれど、それを、朝田とオレがひたすら続けている光景だ。
時は1978年(昭和53年)の秋口から翌年の春先にかけて。王選手が800号本塁打を打ち、広岡ヤクルトスワローズが初めての優勝をとげ、サザンオールスターズが『勝手にシンドバッド』で鮮烈にデビューし、自民党総裁選挙で大平正芳が福田赳夫を破って総理大臣に就任し、成田開港阻止のために過激派が闘争を繰り広げている、そういう時代だ。
夏の大会敗北で中学野球部があっさり終わったオレたちは、当然のようにそのまま中3の秋から高校野球部に参加した。目標は当然甲子園、それに向かって第一歩を踏み出す時期だった。そんな時、いつだったかはっきり覚えていないけれど、朝田から「朝ティーやろうぜ」、と声をかけられたのだ。朝、授業の始まる前、7時半だったか8時くらいだったか、誰もいない学校に出て、体操着に着替えてグランドへ、そこで授業が始まるまで2人で交替してトスとバッティングを繰り返すわけだけれど、それを毎朝2人でやろうぜ、ということだった。朝やるティーバッティングだから『朝ティー』、ちなみに昼休みには先輩を含む多くの選手が『昼ティー』をやるのだけれど、当然ながら先輩が優先で、最下級性のオレたちはトスするばっかりで練習にならないから、2人で朝やろうぜ、というわけだ。
実はオレはその頃、それまで経験していなかった、ちょっとした悩みというか行き詰まりを野球部について感じ始めていた。相変わらずいつも野球のことばかり考えていたし、中でもバッティングは三度の飯と同じほど好きだった。甲子園に行きたいという思いも全く欠けるところがなかったけれど、その一方で厳しくも充実していた中学時代と比べて、雰囲気が暗くて、上下関係が理不尽で、それでいて練習が緩い高校野球部に、どうにも馴染めない思いが強くなっていて、なにかモヤモヤした感じだった。今にして思えば、それは野球部がどうとか上下関係がどうとか言うことでは本当はなく、少し大人に近づいて、高校野球部という『少し大人の社会』に出たことによる戸惑いというか拒否反応みたいなものだったようにも思うけれど。
朝田のほうはもう少し深刻というか微妙だった。高校野球部に入った直後、オレには何故なのか分からなかったけれど、朝田はピッチャーから内野手への転向を申し渡されたのだ。
少年時代から中学に至るまで、押しも押されもしないエース。大会ではほとんど全てが先発完投で、それが本人も周りも当然と思っていたし、朝田も「ピッチャーこそが野球だ」、「ピッチャー以外に興味はない」と言ってはばからなかった。そんな朝田があっさりピッチャーを『クビ』になったのだから、あいつのプライドも大きく傷ついただろうし、まあ言ってみればおそらく人生初めての『挫折』みたいなものだ。
それでも、当然というか、朝田はそういう素振りも見せずに、持ち前の前向きな精神と、あと何というか持ち前の自信というか、「練習すればピッチャーと同じようにバッターとしてもトップになれる」という思いだったんだろう。それが「朝ティーやろうぜ」、につながったんだと思う。でもそういう事情だから、当時中3で何も考えていなかったオレでも、うすうす朝田の『気持ち』みたいなものも察しながら、という状況でもあった。
とにかくそんなことで、朝田とオレの『朝ティー』は秋から冬、年末年始を超えて春に近づくまで、毎朝続くことになった。オレンジ色の体操着やアンダーシャツの恰好で、朝のグランド、一塁側のファウルゾーンにあるティーバッティング用のネットの前、バットを構える朝田に向けて、オレが延々とボールをトスし続け、それをあいつがネットに向けて打ち続ける。トスのコツは、バッターが構えに入る動作に合わせてトスのバックスイングを取り、そこからバッターの左ヒジあたりに向けてテンポよくトスをする。トスは、投げるというよりは、ボールをすっと浮かす感じで、また色々なコースに対応できるようにするため、トスする位置も少しずつ高低や左右にもバラしながら、とか、そういうことをほとんど何も考えずにやれるようにもなっていった。
オレが打つときは、同じように朝田がオレに向かってトスをして、オレはそのボールを思いっきりひっぱたき続けた。その頃のオレはスイングの強さにはやや自信があり、ティーをやればやるほどその自信が強まるような気がしたし、そもそもボールを打つこと自体が快感だった。モヤモヤした気持ちを振り払うための最高の手段が、思いっきりボールを打つことであり、その間は何も考えることも悩むこともなく、かといって何かの目的に近づいているとかそういうことを考えるわけでもないけれど、とにかくそういう時間だった。
その『光景』が機内や車内で何度も鮮明にオレの脳裏に蘇ったのだった。
バットを構える朝田に向けてトスをする、それをあいつ打つ。逆にオレが構えると、地面に座った朝田の姿を背景にボールが浮かびあがってきて、オレはそれを思いっきりひっぱたく。乾いた冬の朝の空気に打球音が響き、そのたびにネットが揺れる。時に会心のスイングというかいい感じの音がすると、お互いに「オッケー!」とか言ったりするけれど、でも基本的には黙々と、淡々と、同じことを何度も繰り返していた。
授業が始まる時間に近づくと、ボールを拾い、カゴを2人で持ち、部室に向けてだらだら歩きながら、「あのテストどうだった」とか「昨日の掛布すごかったな」とか、そういう話をポツポツしながら、そういうことが毎朝ただ淡々と続いていた。
そんな日々は、翌年の春、あっけなく終わりを告げた。怪我もあって気持ちの切れてしまったオレが野球部を辞め、その後すぐに朝田もあっけなく辞めた。当然のように朝ティーもあっさり終わった。オレが退部届を出しに職員室に向かう廊下で、偶然朝田に会ったのを覚えている。あいつは「おお、来週くらい練習出てこいよ」と声をかけてくれ、もちろんオレは何も言えなかったけれど、それは15才のオレには、初めて味わう罪悪感のようなもので、すごく苦しくて切ない瞬間だった。
朝田とは1975年、中1の春に出会ってから付き合いはちょうど40年になる。初めて会ったのは中1の春のグランドで、中1部員全員が試しにピッチングをさせられた時、数多い同級生の中で、朝田はその雰囲気も、投げるボールも全然違う、別格の大人だった。そういう強烈な第一印象に始まり、それから中学3年間はどっぷりの野球漬けだった。オレの守備位置はレフトだったから、レフトの角度からみたあいつのピッチングフォーム、左足を上げるときに軸足の右足がちょっと内股気味になるあのフォームを、今でもまざまざと思いだせる。
その頃、オレにとって個人的に一番印象的な出来事は、中3の夏の大会の初戦、桐朋のグランドだった。朝田は力投していたが、中学最後の大会で、怪我で主将の村上を欠いていたこともあって動きが固いオレたちは力を出せず、最終回まで1-1の同点。その表の攻撃で、なぜか突然気持ちの吹っ切れたオレはレフトへ柵越えのホームランを打った。シビれる初戦の同点最終回だったし、そもそも柵越えのホームランなんてオレ自身も生まれて初めてで、雲の上を走っているような感じでふわふわしていたが、ホームインするとキャッチボールをしていた朝田が駆け寄ってきて、「なんか、芝田絶対打つ、っていう予感がほんとにしたんだよ!」と満面の笑みで迎えてくれた。(この「予感がほんとにしたんだ」という話は、その後あいつはしばらくのあいだ何度も繰り返していた) その裏の相手の攻撃の最終打者は左中間のレフトライナー、オレがランニングキャッチして試合終了だったのだけれど、その瞬間、目の前によし、という表情のショートの西村、その向こうのマウンドに笑顔でガッツポーズの朝田が、遠近法のように重なって見えた光景もはっきり思い出す。
とはいえ、そういう晴れがましい思い出はほんの一部で、基本的には、野球部時代は勝てない、打てない、という悩みがオレたちメンバーを支配していた。部室や、帰りの大学通りで、どうやったらチームが強くなるか、どうやったらうまくなるか、とりとめもなく熱く語りあったし、仲間の中でいちばんの大人だった朝田はいつも議論をリードしていた。誰かの家に泊まりにいっても、何かをして遊ぶこともなく、夜は家の前でみんなで素振り、翌朝は遠くまでランニング、そういうこともいつも朝田が先頭に立っていた。時には、あいつの口グセの「まあよいではないか」、という親父ギャグで場を和ませたりすることもあったけれど、いずれにしても朝田はオレたちの中で飛びぬけて大人だった。
高校に入り、その後大学、社会人と進むにつれて、当然ながらそういう付き合いではなくなっていったけれど、それでもオレと朝田はしょっちゅう語り合ったり、朝田の家に泊まりに行ったり、大人になってからは当然のように定期的に飲みにいったり、そういうことが続いていた。野球と音楽(ロック、特にブリティッシュロック)の両方がすごく好き、というめずらしい2人だったから、「おまえと飲むと阪神の話とボウイの話が同時にできるからいいよな」なんて言ってあいつはよく笑っていた。(野球が好きな人間と、ブリティッシュロックが好きな人間はかなり違うカテゴリーに属していて、その両方のカテゴリーに属している人間はめったにいないから)
オレが高校3年の時に怪我で入院し2週間ほど絶対安静、本を読むことも許されずにラジオを聴くことしかできずにいた時、朝田は選りすぐりのカセットテープを30本ほど持ってきてくれて、おかげで退屈しないでいられただけでなく、時々見舞いにきてくれて、「『エモーショナルレスキュー』って評判悪いけど実は名盤だよな」とか、「マイルスカルテットのピアノは、やっぱハービーハンコックだと思うんだけど」とか、そんな話をして気を紛らせてくれたし、オレ自身もそういうあいつとの会話の中でいろんなうんちくを勉強したんだ。中学時代だったか、YMOとコラボした『スネークマンショー』に2人とも完璧にハマってしまって、一緒に何度もレコードを聴きながら爆笑し、「いいものもあるけど、悪いものもある!」みたいに、ギャグを2人で暗記して掛け合い漫才みたいなことをして笑いあった。図らずも2人とも別々に聞いたRCサクセションの『シングルマン』というアルバムが最高だ、という話で意気投合したけれど、その中の『ヒッピーに捧ぐ』というバラードが、あいつの知らない間に亡くなってしまった友達のことを思い出して辛いんだ、と朝田が泣いたこともあった。バンドに没頭した朝田と違って、特に目的もなくダラダラと高校時代を送っていたオレが選んだ目標が『地方大学に行く』といういまいちイケてないものだったけれど、京都に住んでいた時に遊びに来てくれた朝田が、オレの下宿生活や京都の学生生活をずいぶんと羨ましがってくれ、いつも大人でオレの道しるべのような存在だった朝田がそう言ってくれたことで、オレもかなり嬉しかったというか変な小さな自尊心を満足させられた、というようなこともあった。
オレが社会人になって少したった頃に、学生の時のように朝田の家に遊びに行ったことがあったけれど、その時はあいつが東大大学院を出て医学部に入り直すと言い出した時で、大揉めの家族会議に図らずも参加してしまったこともあった。あいつはいつものように真剣に突き詰めて考えて、「子供のためになる医療を一生の仕事にしたい」と強く信じるようになっていったわけだけれど、既に金融機関で仕事をしていたオレは、朝田がそういう信念を熱く語れば語るほど、自分の痛いところを突かれているような気がして、「仕事はしょせん仕事だ、仕事で世の中のためになろうなんて考えるほうが不遜だ」、なんてことを言ってしまって、激論になってしまったこともあった。もちろん、オレはそういう風に信念を持って打ち込める仕事を見つけ、それを全うできる強さをもった朝田に嫉妬していただけだったけれど。(その後朝田が医者になってしばらくして飲んだとき、あいつはそれをよく覚えていて、「あの時は頭にきたけどさ、実際やってみると仕事は仕事なんだよな。お前があのとき言ってたことが今は分かるよ」なんて言ってくれたこともあった)
オレがオックスフォードに留学していた時、当然のように朝田は遊びに来てくれて、そこから2人で片道3時間のドライブでリバプールに行き、ストロベリーフィールズやペニーレインとかの、ビートルズゆかりの地を訪ねて回ったりもした(もちろん、ストロベリーフィールズとか歌いながら)。十数年前、その時もロンドンに赴任していたオレがたまたま帰国したときに、朝田が入院して手術した、という話を聞いて、病院に見舞いに行き、その時初めて病気の話を聞いたのだけれど、話の内容はともかく、あいつは(もちろん病人の格好をしていたことを除いて)いつもと変わらない話しぶりで、安心するとともに、そうはいっても大丈夫なんだろう、あの朝田が病気なんかに負けるわけはない、とオレは勝手に思ってしまったわけだけれど。
ここ数年は、年に1~2回、朝田はオレ達の草野球の試合に来てくれて、その後飲み会にもよく付き合ってもらっていた。初めて航太くんを連れてきたときはまだ5歳くらいだったけれど、その後また試合に一緒に来るたびに彼が成長しているのに驚いたり頼もしく思ったりもした。2014年の3月、オレの10年ぶり2度目のロンドン赴任が決まって、オレにとっての渡航前の最後の試合が大宮であったのだけれど、その時も朝田は航太くんと来てくれて、野球に目覚めた彼と一緒にプレーすることができた。オレはその最後の打席でセンターオーバーのツーベースを打つことができたんだけれど、その時も昔のように朝田はオレが打つ予感を感じてくれたんだろうか。試合後の飲み会にも来てくれて、色々話しはしたものの、何となく気恥ずかしい感じもあって、昔のようにあれこれ語り合うというよりは、世間話みたいなことしかできなかった。その時は、これが朝田に会う最後になるなんて、夢にも思わなかったけれど。
これだけの長い間の付き合いと、色々な思い出があるのだけれど、それでもあの淡々と続いていた『朝ティー』の日々、その光景が鮮明に何度も蘇ってくるのはなぜだったのか。
もはや無邪気な子供ではなく、一方で、物事を割り切ったり現実的に考えることができるほど大人でもなかったあの頃、お互いにそれまで単純に信じ、楽しんでいた世の中や現実というものが、実は結構厳しかったり難しかったりするんだ、ということを感じ始めていた時期、でもだからというわけでもなく、とにかく毎朝淡々と、真剣にただボールをトスし打ち合っていた日々、その後あっけなく終わってしまったあの時間が、オレの、朝田の人生において何だったのか、上手く考えることはできないけれど、あれはオレたちが子供から大人に変わっていくための、それぞれが少しずつ違った道を歩いていくための儀式みたいなものだったのか、でも自分の心とか身体のどこかの芯の部分というか、自分を形作っている何かが、あの頃とかあの時間に少しつくられたのかもしれないな、朝田にとってもそういう感じや思いはあったんだろうか、今となってはそれを聞くこともできないな。
朝田の右腕に花を手向け、会場に展示されていた朝田の中学時代のグローブにしばらく手を置き、最後にあいつの棺を担ぎ、あいつの乗った霊柩車を見送りながら、そういうことをぼんやり考えていた。でも、朝田の訃報を聞いたとき、とにかくすぐ帰らなきゃ、と思ったのは、やっぱりただの昔の友達だけではない、そういう朝田がオレの中にいたからじゃないか、あいつと共有したあの淡々とした時間がオレの一部を形作っているからじゃないか。オレのなかに朝田と共有した時間が存在していると感じていて、その朝田が逝ってしまったことで、自分の一部が持って行かれたような感覚を持ったようにも思うし、オレの我儘な願望として、同じように朝田の中に、オレと共有した時間が存在していたと思いたいという独りよがりな気持ちがあって、その整理がうまくできない、というようなこともあるのかもしれない。とにかく葬儀に出て、朝田の顔を見て、あいつと同じ場所でしばらく同じ時間を共有しなければ、という痛切な気持ちは、そういう感情から来たんじゃないか。朝田が荼毘に付されているはずの頃、そう思いながら茨城の空を見上げていた。
少し短かったけれど、濃密で、オレを含めみんなに強烈な、素晴らしい思い出を残してくれた人生だったよ。その一部を共有できたことを、朝田と共有した時間がオレの中に存在し、生き続けていることを、オレは嬉しく、そして誇りに思うよ。
朝田、ありがとう。
2016年2月
芝田 康弘