2022年 「行けたら行く」

最近、東京出身の知人から聞いた話。彼が学生時代、関西出身の友人をある会合に誘った折、その友人の返事が「行けたら行く」だったので、会場で待っていたが、何の連絡もなく現れなくて憤慨した経験があるとのことである。


関西での「行けたら行く」という表現は、行く気持ちはない(行きたくない)が、直接に「行かない」とそっけなく言うのは気まずいので、やんわりとした断りなのである。したがって、その返しを聞いた場合、相手は「来る気がないのだ」と判断するわけである。このように、関西では遠回しに表現し、相手の「察し」を期待するといった行動が多いように思われる。逆に「行かへんわ」と直接的に言うと、「なんでやねん」と突っ込まれる可能性がありそうである。


 一方、関東での「行けたら行く」は、行く気持ちはある(行きたい)が、はっきりと約束はできないということを意味する。その返しを聞いた場合、相手は「来る気はあるのだ」と判断するのが普通かと思われる。


関西の伝統的社会は人間関係が濃密だったので、遠回しの婉曲表現でも互いに理解し合えたのである。関西に住む余所者は、そこが理解できなくて批判されることが多い。


かつて、京都市で、あるセミナーの講師をしていた時のこと。


講習の開始間近に会場に着いたのだが、事務室の方がお茶を入れてくれて、「お茶をどうぞ」と言うので、せっかく入れてくれたのだからと口にしていたところ、すぐに「もう時間ですが…」と言われてしまった。これこそが例の「お茶漬けでもどうどす」なのかと、痛く感じ入った瞬間であった。


授業などで、京都での「お茶漬けでもどうどす」という表現は「もうお帰りください」という合図でもあるので気を付けて、などと話しているくせにと、わが身を恥じた次第である。

2022.3.1