2021年 「幾万の人の逝きたるあくる日ぞ」

張貼日期:Oct 04, 2021 11:00:00 AM

石田外茂一『弥右衛門宛五箇山消息』の「第五信(栃の木荘厳)」での一節から。この文章の執筆日時は、1946924日である。

  今日は、はや二十四日、彼岸のお中日です。この日の太陽はグルグル回転して落ちると言って、子供の頃には毎年毎年、赤い大きな夕日を拝んだものです。そして今の私は、なぜか自作の短歌を思い出すのです。


   幾万の人の逝きたるあくる日ぞ、なぞあかあかと

   日のまどかなる


これは戦時中何かの機会に作ったものでしょうが、幾万の人が死んだ翌日ということがなぜお彼岸に結び付くのか、自分にもわからないのですが、それがふさわしいような気がするのです。


山作りの粟も稗も見事な穂を垂れています。蕎麦は淡紅のほのかに匂うナヨナヨした茎に、淡緑のやさしい葉をつけ、細かい白い花を盛り上げています。今年は何から何まで豊作です。栃の実もよくなりました。


もうこれからは、実をスッカリ振るい落とした栃の木の、葉一枚一枚が、真っ黄色になって来ます。美しいですヨ。だがこれはまだ美しさの序の口です。その黄色さを通り越すと、やがて赤みを帯びて来ます。その時はもう晩秋です。澄みきった山気が、この黄色に赤みを薫じた葉を、パリパリに干上がらせます。全くパリパリ音を立てんばかりに反りかえり、チヂレ上がります。こんなになっても葉は木から離れません。有終の美を、全うせんがためにです。このように完成しきった絶品ともいうべき葉を、全身にまとった老大樹が、熱気のやわらいで、ただもうアカアカとした晩秋の夕日を、浴びる時、金色サンランたる栃の葉天狗です。


この葉のチヂレ具合なんですが、全く独特なんです。シワよったチヂレなんかじゃないンですヨ。ランチュウの獅子頭のような粒々の盛り上がりです。葡萄の実のよくこんだ大房のような粒々の盛り上がりです。いやもちろん栃の葉はそんな小さいものではありません。枇杷を百個ほど盛り上げた、粒々の盛り上がりです。そう言った具合のチヂレ方です。そうそう、金銅仏の釈迦如来の頭の縮れ毛の渦の盛り上がり、あれですネ。それに、おおどかな光線が当るのですから、複雑微妙に反射に反射を重ねて、まことにコクのある光輝を発するのです。これは他の紅葉黄葉にはない、美の真骨頂です。蝋燭さえも将に消えなんとする時、ひときわ燃えさかります。ましてや全山を圧する栃の葉天狗が、ひと春夏を終えて裸木となって冬眠に入るにあたっての有終の栄光です。筆紙の及ぶところではありません。

石田の情景描写には敬服するばかりである。〈ことば〉によって、色彩の多様さや自然の微妙な変化をそのままに描き出すことができるのだ、ということを改めて思い知らされるのである。


2021.10.1