2020年  敬語は美しいのか―日本語の相対化

張貼日期:Dec 12, 2020 1:46:1 AM

以前、北関東などの敬語のありようを称して、「無敬語」地帯といった表現のあることに触れた。

この「無敬語」地帯という呼称にかかわって言えば、私は、日本の敬語研究に対しての異議がないわけではない。それは、日本の敬語研究が標準語を軸とした規範的なものを対象とする内容に偏っているという点である。今後は、その対象を標準変種ばかりではなくて地域的変種について、もっと広げていく必要がある。さらには、日本語の敬語を特別視するのではなく、敬意行動を世界的な普遍的コミュニケーション行動として捉える視点が重要になってくると考える。

この点に関して、山下仁さんは、次のように記している。

敬語は、「日本で日本語を話す日本人が用いる美しい言葉」として語られるが、この想定を反省し、日本に住んでいるのが日本人だけでなく、日本語は日本人だけの母語ではなく、日本国籍をもたない人も日本に住み、かつ日本語を母語としており、しかも国外で、リンガフランカとしての日本語を話している人が存在することを認めるならば、これまでの敬語研究を支えてきた基準はほとんど無効になろう。さらに、もしも日本語が国際語としての地位を得ようとするならば、日本語は、日本文化を担うべき日本人の価値観を表すばかりでなく、日本人以外の多様な価値観を表せるようになる必要がある。

(「敬語研究のイデオロギー批判」『「正しさ」への問い』三元社、2009)

いずれにしても、あくまで日本語の相対化が必要である、と考える。日本語の地域的、社会的な多様性に目を向け、その多言語性、そしてさまざまな言語変種の果たす機能に気づくことは、多言語社会への感受性を養うための前提になるはずである。また、日本語が特定「日本人」の専有物ではないという現実に向き合うことも必要であろう。外国人のしゃべる日本語に対して、「日本語がお上手ですね」などと応じる心理、「日本人」のなかにある「日本語はわれわれのもの」といった観念の抜けきらない態度、それらを自ら反省するためにも。

2020.12.13