2013年 メーデー復活

張貼日期:May 01, 2013 10:2:5 AM

私の祖父は1878年の生まれである。1878年は明治11年にあたる。自由民権運動が勃興した頃で、ずいぶんと昔である。

祖父が生まれた五箇山は、隣接する飛騨白川郷と同様、いわゆる「大家族」の村であった。この家族制度のもとでは、傍系の親族たちは結婚後も生家にとどまり、夫が妻のところに通う妻問婚の形が一般的であった。そして、生まれた子どもは母親の家で養育されることが普通であった。

祖父は次男だったため、祖母との結婚後も生家にとどまって働いた。大工であった。特定の棟梁はいなかったのだが、見様見真似で修業を積んで一人前になったそうである。伐採した木を製材し、柱や障子など建具のすべてを自分で作り、組み立てつつ、20年の歳月をかけて、一棟の家宅を生家とは別の場所に建てた。

その間に生まれた2人の息子は祖母の実家で育てられた。2人は、子どもの頃は祖母の家の姓を名乗っていたというので、法的には私生児としての扱いだったのだと思われる。その2人が祖父方の姓を名乗るようになったのは新しい家が完成した頃であった、と聞く。家宅ができ、分家としての条件が整ったからであろう。そして、その頃に娘が生まれた。それが私の母である。大正13年のことである。

祖父は、都会に出ていた長男が新しい家を継いでくれるものと考えていた。ところが、その長男に郷里へ帰る意志がないことが分かり、急遽、次男に家督を譲ろうとしたのだが、その時すでに次男の他家への婿入りが決まっていた。そんなこんなで、結局、母が家を継ぐことになった由である。(ちなみに、次男は、婿入りして姓がさらに変わったので、姓を2度も切り替えることになったわけである。)

母が、師範学校を終え、帰郷して教員となった後、婿を迎える形で結婚をしたのは太平洋戦争最末期の昭和20年5月のこと。婿とは私の父である。父は満鉄(南満州鉄道株式会社)に赴いていたのだが、当時、郷里に帰還中の身であった。

そして終戦。アンシャンレジームから解放された1946年、昭和21年に私は生まれた。

2013.5.1